立秋

文月十日は立秋です。暦の上では今日から秋なのですが、まだまだ暑い日が続きます。それで「残暑お見舞い申し上げます」というお便りをだすわけです。いわゆる暑中見舞いは昨日までに出すべきもので、秋なのにまだ暑さが残っています、という季節感なわけです。
七十二侯では「涼風至」(すずかぜいたる)となり、秋の気配を感じるようにはなりましたが暑さは残っています、という正に残暑のことを意味します。実際、空の雲も入道雲が減り、秋のうろこ雲が見られるようになる季節です。暦はつねに季節を先取りしていきます。
立秋は二十四節気の1つですが、この二十四節気も漢字からわかるように、夏至と冬至を「二至」、春分と秋分を「二分」、そしてそれぞれの中間に存在する立春・立夏・立秋・立冬の「四立(しりゅう)」となっており、これらをあわせて「八節」と呼び、季節を区分する言葉として古くから日本において重要な役割を果たしてきました。四立の前日は「節分」と呼ばれ、文字通り季節を分けているという意味です。2月の節分は日本の定例行事としてよく知られていますが、本来節分は年に季節の前なので4回あります。
お盆は夏の行事のような感覚があると思いますが、実際には秋の行事ということになります。旧暦でも盂蘭盆会は7月13-15日なので、立秋の期間です。新暦になってお盆を8月13-15日にするようになり、真夏のような感じになりました。そこに終戦記念日が設定されたため、そのイメージがさらに強くなったようです。
今年は雨が多く、梅雨入りと梅雨明けと戻り梅雨がごちゃごちゃになってしまいましたが、気象庁では梅雨は「晩春から夏にかけて雨や曇りの日が多く現れる期間」と定義されていて、まれに梅雨明け宣言がされない年があります。その基準となるのが立秋です。日本の上空にある梅雨前線が北上しきれずに、そのまま立秋を迎えると、その前線は秋雨前線となり次第に南下していきます。そのため、立秋までに梅雨が明けない場合は梅雨明け宣言がされず、その年は梅雨明けなしとなるわけです。なので今年は梅雨明けなし、となるのが本来ですが、今は新暦で判断しているようで9月になって判断が決まるらしいです。
立秋に決まった食べ物はないらしく、残暑で体力と気力が失いがちなので、水分を十分にとり、胃腸に優しい食べ物を摂り、忘れがちですが心のケアもしっかりする必要があります。暑いからとやたらに冷たいものばかりを摂って、ビールに合うからと揚げ物ばかり食べるのは胃腸に負担をかけます。枝豆やカボチャやナス、桃や梨、葡萄、メロンなどの果物でビタミンを摂取して、体調を整えるようにすると、心も自然に回復してきます。とくにトマトやキュウリ、ズッキーニなどの夏野菜が体の中の余分な熱を外に出して潤いを補給する効果があるそうです。人間の身体は季節の流れに自然に合うようにできているわけです。夏バテしたからといって肉ばかり食べてスタミナをつけるのではなく、体に優しくすることが回復につながるわけです。

立秋

延喜式

現代の日本史教育では延喜式について学習することは少ないです。古事記や日本書記については誰でも名前くらいは知っているが、延喜式については宗教が絡むせいか、詳細を習う機会がほとんどないようです。延喜式は平安時代中期に編纂された三代格式の一つで、律令の施行細則をまとめた法典です。現代風に考えるなら、憲法の下にある六法のようなものです。三代格式のうちほぼ完全な形で残っているのは延喜式だけで、細目まで規定されているため、古代の実態を知るうえで重視なものです。醍醐天皇の命により藤原時平らが編纂を始め、次の藤原忠平が編纂に当たり、弘仁式および貞観式とその後の式を取捨編集し、延長5年に完成し、その後も改訂を重ね、康保四年(967)文月九日より施行されました。
全50巻、約3300条から構成され、巻1 – 巻10は神祇官関係の式で神祇式といいます。
巻1と巻2 – 定例祭 (通称:四時祭、四時祭式など)巻3 – 臨時祭 (通称:四角祭・四角祭式、四境祭・四境祭式、四角四堺祭など)巻4 – 大神宮巻5 – 斎宮巻6 – 斎院巻7 – 踐祚大嘗祭巻8 – 祝詞
巻9と巻10 – 神名帳 (通称:延喜式神名帳)巻11 – 巻40太政官八省関係の式巻41 – 巻49その他の官司関係の式巻50雑式、となっています。巻9・10の神名帳(神社の一覧表)には祈年祭で奉幣を受ける2861社の神社が記載されています。延喜式神名帳に記載があるのは当時朝廷から重要視された神社で、一般に「式内社」と言って社格の一つとされています。現在でも社格の高い神社の入り口の高札には「式内社」と書かれています。詳しい説明書きがないので、多くの人はその意味を知らないのですが、平安時代に神社として認められていて、今日まで続いているという意味です。延喜式以降もしくか当時に認められていなかった神社は式外社といいます。現在では消滅したり不明となっている神社も多いので、それだけ貴重な存在といえます。
巻21は治部省関係であり、山陵(天皇陵)について記する諸陵式が含まれています。巻22の民部省上の中に全国の地名が確定されています。巻24の主計寮上には、全国から集める税金の一種である庸(労役)、調(繊維製品や特産物など)、中男や作物の割り当て等が書かれており、当時の全国の農産物、漁獲物、特産物を伝えています。中男というのは、労役の対象が正丁・次丁・中男と分かれていて、そのうち17歳から20歳の男性のことで、いわば働き盛りの労力ということです。正丁が21歳から60歳の男性でいわゆる成人、次丁は61歳以上の男性で高齢者なので労役には向いていません。そこで中男の配分が細かく決められていたわけです。巻28は兵部省関連で、諸国駅伝馬条には五畿七道の402ヶ所の宿駅の名称と備えるべき駅馬や伝馬の数が記載されていて、当時の交通の要所の施柵ですが、同時に軍事的な意味をもっています。
現在の官僚組織は何度も改訂があり管轄も変わったのですが法令によって運営されることは昔も今も変わりません。当時は祭祀が政治の中心でしたから、多くがそこに割り当てられていましたが租庸調という税制とそれに付随する情報とシステムが完成されていたことに注目したいです。

鹿島神宮

太閤検地

天正十年文月八日、羽柴秀吉は所領の近江で初めて検地を行いました。これが太閤検地の始まりとされています。また天正十六年のこの日、刀狩令が発布され百姓から刀や鉄砲などの武器を徴収し、同時に海上賊船禁止令で水軍による海賊行為の禁止が行われました。これらは安全保障の内政として重要です。現在の銃刀法による日本に治安状態と銃規制のない米国との違いがその重要性を示しています。
太閤検地は納税の安定性という国家経営の礎を築き、実際明治政府による地券発行まで、若干の修正があっても維持されてきました。秀吉の実力があった証でもあります。
各大名も自分の領地の検地を行い税収の確保を行ってきました。織田信長も検地を実施していたのですが、この時の奉行人であった木下藤吉郎が実務を担当しており、その重要性を把握していたと思われます。太閤を名乗る天正十九年(1591)以前からのものを含め、秀吉が関わった検地を太閤検地と呼んでいます。天下統一して関白となった秀吉はその後、関白を辞して太閤となり、天皇への叡覧にされる「御前帳」になぞらえて、検地によって得られた検地帳を元に、国ごとに秀吉が朱印状で認めた石高を絵図を添えて提出するよう命令しました。これを「天正御前帳」といいます。
太閤検地は権利関係の整理や単位統一が図っただけでなく、農民への年貢の賦課、大名や家臣への知行給付、軍役賦課、家格など、経済の基礎となる正確な情報が中央に集権されて把握された内政としての意味は大きいといえます。太閤検地の基盤となったのは度量衡の統一にあります。
それまでは米を測る桝の大きさにも違いがあり、長さや広さの単位もばらばらでした。今日でも畳にその名残が残っています。太閤検地では桝を京桝に定め、6尺3寸=1間(けん)、1間四方=1歩(ぶ、今日の坪)、30歩=1畝(せ)、10畝=1反(たん)、10反=1町(ちょう)と定めました。今日では1間は6尺になっていますが、それは明治24年(1891)の改定によるものです。織田信長の時代は1間が6尺5寸、太閤検地で6尺3寸、江戸時代には6尺1分とだんだん短くなっていったのはそれだけ家が小さくなっていったことを示しています。1間は柱と柱の間の間隔のことで、検地以前の建物では柱の間隔はバラバラでした。実際、神社仏閣では中央が広く、端が狭くなっていたり、手前を広くして奥を狭くする遠近法的な建築が目立ちます。部屋も江戸間は6尺四方、京間は6尺5寸と16センチも違うので、広さの間隔がまるで違います。古民家で江戸時代以前の家が広く感じるのは実際広いからです。
秀吉は朝鮮半島から唐への進出も試みるなど、外国情報にも通じており、呂宋(るそん)助左衛門を通じての海外貿易も促進していたので、キリスト教による植民地支配の怖さを認識しており、天正十五年に伴天連追放令も出しています。原因は長崎がイエズス会領となり要塞化され、信者以外の者が奴隷として連れ去られているという情報があったからです。宣教師に危害を加えたものは処罰し、個人が自分の意思でキリスト教を信仰することは自由とし、大名が信徒となるのは秀吉の許可があれば可能とする信仰の自由を保障するものであったことは知られていません。

秀吉

ハシの日

8月4日は語呂合わせのハシの日です。ハシにもいろいろあり、箸、橋、端など同音異義語の典型です。やはりご多分にもれず箸の会社が制定したもので、日頃お世話になっている箸への感謝という意味です。延命長寿と無病息災を祈願する日枝神社の「箸感謝祭」というお祭りもあるそうです。箸供養というのもあり、使わなかった箸は捨ててしまわないで、神社にもっていくと、この日にお炊き上げしてくれるそうです。道具を大切にする日本文化の一つです。箸の起源は諸説ありますが、遣隋使の小野妹子が持ち帰った箸を聖徳太子が初めて朝廷の儀式に使用されたとか。しかし古事記には神代の頃からあったという記述もあるそうで、どれが正しいのかわかりません。縄文時代は恐らく手づかみで食べていたのではないでしょうか。その頃のことを絵にしたものを博物館で見ても箸は見当たりません。
箸をプレゼントすることもあると思いますが、若い人には「幸せへの橋渡し」ということで喜ばれるのですが、お年寄りには「三途の川の橋渡し」で縁起が悪いそうなので注意です。しかし箸と橋では違うのですけど、そこは語呂合わせで納得してください。
一休さんの頓智話にも橋が出てきます。久兵衛さんとのやりとりで「端を渡らず真ん中を通ってきた」といってやりこめる話です。これも同音異義語の利用です。日本人はこういう語呂合わせが大好きのようで、何かというと語呂合わせで縁起を担ぎます。それも同音異義語の組み合わせがたくさんあるからです。
英語では同音異義語は非常に少ないのですが、その代わりrhymesといい同じ母音の組み合わせで言葉遊びをします。いわゆる脚韻で、英詩はほぼこのrhrmesでできており、日本の詩歌の七五調と同じリズム効果をもっています。現代のラップにもそれは受け継がれていて、日本の歌に脚韻を踏むタイプの歌が少しずつ増えてきています。それは恐らく同じ音の繰り返しが人間には心地よく感じるからなのでしょう。
ハシに限らず、日本語には同音異義語と並ぶ特徴として清音を濁音にするパターンがあります。言語学では異形態というのですが、ハシとバシの関係です。橋は大橋、高橋だとハシ、日本橋、永代橋だとバシになります。どういう時に濁音になるかその規則性がなかなかわかりません。中橋だとバシ、小橋はハシでもバシでもよさそうです。タカハシとナカバシではハシの前は共にカですからカの後なら濁音になる、ということでもなさそうです。橋本はバシにはなりませんから、語頭だと濁音にならない、ということはいえそうです。端はバシになることは少ないようです。ミギハシ、ヒダリハシのように清音だけになります。箸はどうでしょうか。菜箸、丸箸のように後ろに来るとだいたいバシになり、箸置きのように前にくるとハシになるようです。こういう区別を規則として考えている日本人はなく、なんとなく習慣になっています。これが外国人には難しい区別です。聴覚障碍者も同じ悩みをもっています。母語というのは習慣的なものです。

箸

蜂蜜・鋏・鱧

この3つの共通点は何でしょうか。簡単な謎解きで、どれも8と3がついています。ハチミツ、ハサミ、ハモとカナ書きにすればすぐわかります。8月3日はこれらの記念日です。鱧は3がついてない、というクレームをつけたくなった方は、最近のクレーマータイプになってきていると思ってください。鱧は元々、あの鋭い歯で咬みつく=はむ、が語源で、関西では今でもハミと呼ぶ地域があります。それでハとミで8と3です。納得されたでしょうか。
記念日というのは一般社団法人日本記念日協会が認定しているということなので、公式といえば公式ですが、民間資格のようなものです。日本はこういう民間資格がすごく多い国という印象をもたれる方も多いと思いますが、実は欧米の資格のほとんどが民間資格で国家資格というのはほとんどありません。これは、技能はギルドという技能団体が認定する歴史で、いわば同業者が仲間として認めるという制度から来ています。今の日本は逆で資格を取ると仲間に登録できるという制度が中心です。医師、弁護士、税理士、調理師などがそういう制度で、その免許がないと仕事ができない仕組みになっていて、これを業務独占型資格といいます。ギルド制をそのまま取り入れた制度といえますが、違いは法律によって保証されており、違反すると刑事罰に問われることです。法律という縛りがあるのが業務独占で、法律の縛りがない民間資格を名称独占と呼びます。手話通訳士などがその制度です。ややこしいのは国家試験も国が直接試験をするのではなく、外郭団体や政府認証団体が実施しているので、民間資格と区別が見えにくいことです。英検や漢検などは民間資格です。日本記念日協会もそうした民間団体の一つで政府機関ではないのです。あの有名なギネスも同じしくみです。日本人だけではないですが、こうした第三者の認定というのが好きな国も多いです。
鱧の日はハモの日本有数の産地である徳島県漁業協同組合連合会が制定し申請したそうで、鱧はとくに関西地方で夏の風物になっています。中部・関東以北で鱧を食べる習慣はありません。
蜂蜜の日は、全日本はちみつ協同組合と日本養蜂はちみつ協会が1985年(昭和60年)に制定したそうで、世界的にはエジプトの昔からある健康食品です。熊と蜂蜜の話は有名です。日本では平安時代に宮中へ献上品されたこともあるそうで、江戸時代、徳川家康の孫娘である千姫が絹などとともに数百貫の蜂蜜を持って嫁いだという話もあり、相当な貴重品であったようです。
ハサミの日は1977年(昭和52年)美容家の山野愛子が「針供養」に倣って「ハサミ供養」を提唱し、東京・芝の増上寺の境内に「ハサミ観音」(聖鋏観音)が建立されました。毎年、美容・理容・洋裁などの関係者が集まって「ハサミ供養」が行われるそうです。こうした道具を供養するというのは日本独特の習慣で、万物に神が宿っているという古来の思想が今も強く残っています。仏教でも悉有仏性といい、万物に仏がいるという教えがあります。職人が道具を大切にするのは当たり前のことですから、非科学的とか、あるいは宗教的とか、言わずに文化として残しておきたいものです。現代は神格化を否定する人が多いのですが、精神文化として大切です。

資格

大雨時行

旧暦文月五日は大雨時行という七十二侯の1つです。たいうときどきにふる、と読みます。昔の大雨は今のような集中豪雨ではなく、夕立程度だったようです。夕立はユダチとも読み、歌にも歌われています。「夕立は馬の背を分ける」といい、局部的に降ることを意味しています。一度に激しく降る様子を「篠突く雨」という表現が講談や落語には出てきますが、篠とは篠竹のことで、細い竹が真っすぐ生えますから、篠竹が束になって刺さってくるような雨という形容です。この時期にたまに降る雹(ひょう)は白雨(はくう)ともいい、周囲が白くなって前が見えないほど激しく降る大雨のことです。葛飾北斎の富岳三十六景の『山下白雨』という浮世絵が有名です。この絵では白い雨が描かれておらず富士山の裾野に雷光が力強く描かれていて、富士山の上は晴れていても裾野は大雨になっている様子が描かれ、その対比が富士山の大きさを象徴しているとされています。
大雨とは関係ありませんが、建久5年(1194年)文月五日、禅の布教禁止処分が出されました。久2年(1191)、2度目の渡宋を終えて南宋より帰国した栄西は九州北部を中心に禅の布教を開始しました。筑前国筥崎の僧良弁は禅が広がるのを恐れ、弘通を停止するよう朝廷に働きかけ、建久6年、関白の九条兼実は栄西を京に呼び出し、大舎人頭の白河仲資に「禅とは何か」を聴聞させ、大納言葉室宗頼に傍聴の任にあたらせた。その結果、京では禅を受容することは難しいものと判断されたのでした。背景には南都北嶺(奈良興福寺と比叡山延暦寺)からの攻撃があったからです。禅は当時の中国(宋)からもたらされた、いわば新興宗教であり、伝統宗派から見れば異端であったわけです。栄西は『興禅護国論』(こうぜんごこくろん)を表し、禅に対する誤解を解いて、最澄の開いた天台宗の教学に背くものではないとする禅の主旨を明らかにしました。栄西はこの書において戒律をすべての仏法の基礎に位置づけるとの立場に立ち、禅宗はすべての仏道に通じていると述べて、念仏など他の行を実践するとしても禅を修めなければ悟りを得ることはできないと主張しました。栄西は生涯を天台宗の僧として生き、四宗兼学を説いた最澄の教えのうち、禅のみが衰退しているのは嘆かわしいことであるとして、禅宗を興して持戒の人を重く用い、そのことによって比叡山の教学を復興し、なおかつ国家を守護することができると説いたのです(wikipedia参照)。禅宗では座禅を重視しますが、今日の天台宗でも座禅は重要とされているのは栄西の功績といえます。栄西が開いたのは臨済宗ですが、道元が伝えた曹洞宗と、江戸時代に隠元(あの隠元豆の由来の人)が開いた黄檗宗をまとめて禅宗と呼んでいます。禅宗は欧米でなぜか人気があり、仏教といえばZenと思う人が多いのですが、これはどうやら鈴木大拙の英語版『Zen Buddhism and Its Influence on Japanese Culture』(邦訳『禅と日本文化』)(1938)が普及したせいでしょう。宗教書の英訳はただ英語力があるだけでは不可能で、深い理解がないと意味が伝わりません。多くの英米人が感銘を受けるには内容があったということです。

山下白雨

地券

明治5年7月4日大蔵省は全国に地券を交付しました。地券とは今日の土地登記簿のことですが、日本では古くから税金のための検地が行われてきました。有名なのは太閤検地で天正10年(1582)から秀吉が死ぬ慶長3年(1598)まで続けられた全国規模の土地調査です。それ以前は平安時代の荘園公領制でした。太閤検地の目的は効率のよい収税で、複雑な土地所有関係を整理して、農民と土地をしっかり結びつけることでした。そして当時の税は米でした。
ところが明治4年(1872)に東京府下の市街地に対して地券を発行し、発行にあたって従来無税であった都市の市街地に対しても地価100分の1の税が課せられることになりました。つまり農地以外の土地から、税金をとることが決まったわけです。そして東京以外の都市部でも徐々に地券が発行され、明治5年田畑永代売買禁止令が廃止になり、租税の対象とされていた農村の土地を売買譲渡する際にも地券が交付されることとなりました。当初、地券は取引の都度に発行するという方式でしたが、この方法では全国の土地の状況を短期間に把握することは不可能であったため、同年7月4日に大蔵省達第83号を発し、売買の都度の地券発行を改め、人民が所有するすべての土地に対して地券を発行することにしました。この時の地券を壬申地券(じんしんちけん)といいます。全国一律に発行するといっても、現実の土地は持ち主が一人とは限らず、村の共有地いわゆる入会(いりあい)地もあり、山野など境界が曖昧な土地もあります。それらの土地を強引に国家の土地にするケースもあり、相当揉め事もあったようです。
地券は2通作成され、1通は所有者本人に、1通は大蔵省に保管、それが土地台帳になっていきます。翌年(明治6年)には地租改正条例が発布され、1筆ごとに地券が交付される制度になり、これを改正地券と呼びます。そして地価税は地価の100分の3と三倍になりました。
この考え方は税率を除いて今日でもそのまま継承されています。そして「誰の土地でもない土地」というのはほぼなくなりました。ある意味、これは凄いことで、諸外国では今でも土地の所有権が曖昧な国がたくさんあります。米国では国土の3分の1は国有地で、それは砂漠などで土地利用ができない土地がたくさんあり、また環境保護のため公園などに利用しているためでもあります。軍用地も国有地です。中国のように国家がすべての土地を所有し、使用権だけを認めている国もあります。日本は天平15年(743)の墾田永世私財法以来、土地の私有が認められていて、それが荘園制度へと変化していくわけですが、昔から公有と私有が存在したわけで世界的には珍しいといえます。諸外国では王や教皇、貴族などの公有が当たり前でした。
戦争の結果、それらの土地の収奪が行われるわけですが、日本と外国との戦争において、敗戦によって収奪されたのは先の大戦の結果が初めてなので、日本人に国家の領土という意識があまり強くないのは長く私有が続いたからかもしれません。もしすべて米国領になっていたら、現在の領土問題意識も変わったかもしれません。

土地

ステルスマーケティング(ステマ)

ステルスマーケティングStealth Marketingとは消費者に広告と明記せずに隠して行う宣伝手法のことで、略してステマと呼ばれています。Stealthとは秘密とか偽装を意味し、steal盗む、の方は良く知られていますが、発音が変わるせいか、日本では普段は習うことの少ない特殊な英語でした。似たような語形変化と発音の変化でheal/healthがあります。ヒーリングとヘルスが同じ語から変化したということはあまり知られていないと思います。ステルスが盗むと同じ語源と思えば理解はしやすいでしょう。ステルスが有名になったのはステルス戦闘機からかもしれません。
日本ではステマを規制する法律がほぼなく、具体的な被害が出て初めて対処するだけですが、欧米では消費者を欺く不公正な商法として、かなり厳しい規制があります。日本でも具体的な被害例が挙げられていますが、一番わかりやすいのがNHKの商品名の規制です。以前は「味の素」が不可で「化学調味料」とか「うま味調味料」と料理番組で言い換えてましたが、今はそのものを入れなくなったので自然消滅しました。有名なのが山口百恵の「プレイバックパートⅡ」で「真ポルシェ」がいけないというので「真っ赤なクルマ」と歌詞を変えて歌わせた例です。
ところが最近のテレビはステマだらけ、というより規制なしの放置状態になっています。以前は商品名の所にボカシが入っていたのが、今はまったくなしの状態です。中継番組でボカシができない場合はやむをえないのですが、実際は録画番組でもボカシが入っているのは犯人の顔くらいです。これはネットで顔認証により特定される可能性があるため個人情報保護のため、ということでありステマとはまったく無関係です。
NHKの料理番組でいうと、調味料など商品名がわかるものは予めボウルやガラス小鉢に入れておくなどの工夫がされていますが、「有名シェフ」の制服の店名の刺繡はそのままなので、どこの店だかわかります。ドラマでは今でも商品名を隠すため、わざわざラベルを製作したり、チラシやポスターも製作している場合が多いのですが、民放ではそれもしていない例が目立ちます。昔の刑事ドラマではスポンサー以外の自動車を使わないなどの工夫がありましたが、今は制限していないようです。ノートパソコンなどもメーカーのエンブレムがあるのでメーカーがわかるのですが、とくに規制がないみたいです。放送局側は「敢えて隠しているわけではないからステマではない」という見解かもしれませんが、意図のあるなしではなく視聴者がいつのまにか刷り込まれてしまうという心理効果が問題なのです。そのステルス性についての議論がまったくされなくなったということはステマが溢れているということでもあり何らかの規制が必要だと思われます。最近は食べ歩きのバラエティやニュース番組が増えていますが、店名を隠している例はまずなく、事前に出演交渉済ですから、いわゆるヤラセと同じことです。番組宣伝も「お知らせ」とか「ご案内」と名前を変えただけで実際はステマです。日本ではCMに有名俳優が出ますが海外ではまずありません。広告塔の意味があるからです。日本独特(世界の非常識)といえます。

ステマ

薩英戦争

文久三年(1863)文月二日薩摩藩と大英帝国は戦闘に入りました。そもそもの原因は前年の生麦事件の解決と補償を求めた英国と、実力で要求を拒否する薩摩藩が鹿児島湾で激突しました。
日本での評価はそれほどでもないのですが、海外の歴史家はかなり驚いたようです。日本国と英国の国同士の戦いなら普通のことですが、一地方の軍と大英帝国がほぼ互角に戦ったのは特異といわざるをえません。
生麦事件とは薩摩藩国父島津久光の行列を乱したとして英国人4名のうち3名を島津家家来が殺傷した事件で、当時の日本は不平等条約により治外法権でしたから、英国公使は幕府に対して謝罪と賠償金10万ポンドを要求し薩摩藩には幕府の統制が及んでいないとして、艦隊を薩摩に派遣して直接同藩と交渉し、犯人の処罰及び賠償金2万5千ポンドを要求することを通告しました。幕府はすったもんだの挙句賠償金を支払います。英国は薩摩藩との直接交渉のため軍艦7隻を鹿児島湾に入港させたものの交渉は不調に終わり、英国艦が薩摩藩船の拿捕したのをきっかけに薩摩藩がイギリス艦隊を砲撃、薩英戦争が勃発しました。
薩摩側は鹿児島市街の500戸以上が焼失するなど大きな被害を受け、一方の英国艦隊側にも損傷が大きく、艦隊は鹿児島湾を去り戦闘は収束しました。この戦争は双方に教訓となり、薩摩藩は英国の軍事力を目の当たりにして、英国からいろいろ学ぶことの重要性がでてきて、攘夷の声は急速に下火になり、藩論は開国へ向け大きく転換していきます。英国側もすでに幕府から多額の賠償金を得ているうえに、鹿児島城下の民家への艦砲射撃は必要以上の攻撃であったとし、またそれ以降の日本に対する姿勢を変え、薩摩と英国は接近していきました。
諸外国の反応としては、アヘン戦争において清国を破った英国の艦隊が引き上げるほど強力な反撃だったということで、日本という国を侮ってはならない、という機運になっていきます。また薩英戦争と同じ文久三年と翌元治元年に長州藩も英仏蘭米連合軍と下関戦争と馬関戦争をしており、長州藩は破れて西欧列強の力を知って、海外からの新知識や技術を積極的に導入し、軍備軍制を近代化する決意をしました。そして同様な近代化路線を進めていた薩摩藩と薩長同盟を締結し、共に倒幕への道を進むことになります。同じころ、薩摩も長州も英国に後に長州ファイブと薩摩スチューデントと呼ばれる若者を英国に派遣し、彼らが明治政府の土台を作っていったのですから、戦争しつつも相手のことを学ぼうという姿勢は強かったわけです。
江戸幕府側は昔からオランダとは通商関係があり、アメリカとは条約を結んでいたのに、フランスと接近していきました。英仏はそもそも長年対立しており、薩摩が英国になびいたのを見て、幕府に接近し、軍事支援をしていきました。結果的には日本は英仏の代理戦争のような状態で戊辰戦争を戦うことになるわけです。しかし当時の国際情勢は英仏対立だけではなく、独(プロシア)やロシア(帝政)など植民地化を狙う領土合戦の状況であったことも学んでおきたいです。

仙厳園

文月

本日から文月(ふづき、ふみづき)には入ります。文月から秋の月になるのですが、まだまだ猛暑が続く夏真っ盛りという感じです。文月の由来は文被月(ふみひろげづき)つまり書物を広げる月ということで、字が上手になることを祈って、七夕の短冊に歌や願い事などを書くという風習と関わっているとされています。新暦の七夕は過ぎてしまいましたが、旧暦では六日後、今年は8月4日になります。今でも旧暦のまま七夕をする地域もあるそうです。例によって起源については諸説あり、稲穂が膨らんでくるので、穂含月(ほふみづき)が転じたとか、稲穂が見えてくるようになるので穂見月(ほみづき)が転じたという説もあるそうです。科学的に考えればどれか1つが正しく残りの説はあとから考えた民間語源ということになりますが、言葉の情緒性を重んじる文化としては、いろいろな呼び名で、その時期の自然現象を改めて知り、子供たちによい教訓になるといえます。子供たちの「ねえ、どうして?」という疑問に大人たちが応えてやり、人により答えが違うことに子供たちの疑問と好奇心がますます高まるという学習効果です。
文月の異名もたくさんあり、初秋(しょしゅう、はつあき)とか、お盆が来るので親の墓参りにいく月として親月(おやづき、しんげつ)、また今月の終わり頃には涼風も吹くようになることから、涼月(りょうげつ)という異名もあります。気が早いといえばそうですが、便りの冒頭に初秋の侯、涼月の侯と書いてあるのも風流です。愛逢月(めであいづき)といういうのは七夕に織姫と彦星が年に一度再会するので、愛し合う二人が逢う月ということから来ているそうです。サマーバレンタインなどという商魂丸出しのキャッチコピーより、ずっとロマンチックな感じがします。秋の始めには女郎花が咲くことから女郎花月(をみなえしづき)というのもあります。桐月(とうげつ)というのは桐の葉が落ちる秋の意味で、これも随分と気の早い解釈です。桐月という名前がかっこいのか、アニメキャラにも使われているみたいです。申の月というのもあり、これは古代中国の暦法で、いつも一定位置にある北辰(北極星)を見つけ出すのに便利な北斗七星の柄の先にある遥光(破軍星、剣先星)が一番下に来る11月を十二支の子を充て建子月とし、そこから順に干支を当てはめていくと7月が建申月(けんしんげつ)になるからです。一月から順に寅いん、卯ぼう、辰しん、巳し 、午ご、未び、 申しん、酉ゆう、戌じゅつ、亥がい、子し、丑ちゅう、という読みも覚えておくと便利です。
新暦7月29日はシチフクで福神漬の日だそうです。福神漬の由来は諸説ありますが、いろいろな野菜を漬けこんであるので七福神漬で7月29日が選ばれているそうです。今やカレーとの組み合わせの定番になっていますが、江戸時代に作られたものだそうで、明治時代の欧州航路の客船で供したのが最初で、後に帝国ホテル、資生堂、阪急梅田などがカレーに添えて出したのが広まったということらしいです。あの瓢箪形のものはナタマメで普段野菜としては食べませんが、薬用に用いられています。福神漬は栄養価もあり明治時代には缶詰にして軍に携行されたそうです。

文月