感謝祭

感謝祭

感謝祭Thnaksgiving Dayは米国のものが日本では知られていて、最近では翌日のブラック・フライデー・セールが急に増えてきました。米国感謝祭は11月第4木曜日で、4連休になりクリスマスとこの日に七面鳥を食べる習慣があります。翌日の金曜日は本来だと買い物をしない日で、そのため商店では売れ残りを値引きして売るようになり、バーゲンセールの日として定着、逆にごった返すようになりました。この日にクリスマスプレゼントを安く買っておこう、というわけです。それが日本にも入ってきました。語源は諸説ありますが、発祥地フィラデルフィアでは当初警察が雑踏警備で大変なのでblack Fridayと呼んでいたのを新聞社が「黒字になる日」と解釈した広報を流してから、悪い意味のblackではないということになったとされています。この説、少し怪しいのは、英語では黒字を普通はsurplusないしfavorable, positiveというので black inkということは稀です。かなり強引な解釈だったと思います。

感謝祭は他の国にもあり、カナダの感謝祭は10月第2月曜日で、プリマス植民地での出来事を記念するもので、独立戦争後にアメリカから英領カナダに移住した王党派が持ち込んだ習慣とされています。オーストラリア領のノーフォーク島では11月の最後の水曜日に感謝祭がです。アメリカの捕鯨船によりもたらされ、ノーフォーク島民の先祖であるピトケアン島のバウンティ号の反乱者の子孫や捕鯨船の先祖をもつ家族で祝います。ブラジルではアメリカ人の祖先をもつ家族によって祝われ、アメリカと同日です。西インド諸島のグレナダ島やカリブ海では10月25日に感謝祭の祝日がありますが、アメリカやカナダのどちらとも無関係で、1983年10月25日にアメリカ軍のグレナダ侵攻で共産主義からの解放を記念日しています。リベリアでは11月の最初の木曜日が感謝祭です。アメリカの黒人解放奴隷により建国されたためです。
フィリピンでは20世紀前半はアメリカの植民地だったためアメリカと同じ日に感謝祭を祝ったのですが、1986年にマルコスが追放され一旦は公式な祝日ではなくなったものの、商業的および文化的な休日として復活し特別セールの日になっています。オランダではプリマス植民地に移住した巡礼者の多くがライデン市に居住していて、これを記念して、アメリカ感謝祭の朝に非宗派の感謝祭の礼拝が行われています。どの国も総じていえばアメリカのプロテスタント(ピューリタン)の影響といえます。
米国感謝祭は通説では英国からプリマス植民地に移住したピューリタンが最初の収穫を記念し先住民を招待して神の恵みに感謝した食事会であったとされていますが、神に感謝を捧げる宗教的な意味合いが強く、あくまでも神への感謝が中心でした。

ターキー

パレスチナ問題

パレスチナ問題

パレスチナ問題は日本ではすっかり忘れさられていて、時々イスラエルで爆発があってニュースに出る程度です。しかしこの問題は民族と宗教が絡んでいて未だに紛争が続いています。1947年(昭和22年)11月29日、国連総会でパレスチナ分割に関する決議が採択されました。イスラエルとパレスチナの二国間共存ということになりました。同一地域内の二国間併存問題というのは世界のあちこちで今でも紛争中です。国連での討議ではアメリカとソ連がアラブ人とユダヤ人の分割統治を推し、パレスチナ地域をアラブ人地域、ユダヤ人地域、国連統治地域(エルサレム周辺)に三分割するものでした。翌1948年5月にイスラエルは独立宣言を行い国となりましたが、いち早くアメリカが承認した一方で、アラブ諸国は承認せず第1次中東戦争になりました。
紛争のそもそもの背景は第一次世界大戦以降、パレスチナにおいては、パレスチナ人と入植してきたユダヤ人との間で嘆きの壁事件などの衝突が発生していました。第二次世界大戦中ユダヤ人はイギリスにドイツ攻撃のため協力していたものの、大戦終結後にパレスチナにおけるユダヤ人国家建設に前向きでないイギリスに対し、武力闘争を開始しました。紛争解決できなくなったイギリスが国連に持ち込んだわけです。
さらにその以前はオスマン帝国支配下でアラブが独立を目指して戦った戦争があり、有名な「アラビアのロレンス」の活躍もあって、イギリスの支援を受けたアラブの勝利となりました。このアラブ反乱に対して「イギリスの三枚舌外交」と呼ばれるフサイン=マクマホン協定、サイクス・ピコ協定、バルフォア宣言を締結した事が、後にパレスチナ問題やクルド人問題などの原因となり今日も紛争が続いています。

国連決議にも関わらず長くパレスチナという国は存在できず、パレスチナの人々は民族自決の権利を求め続けて闘争を続けました。1977年(昭和52年)の国連総会は11月29日を国際デーInternational Day of Solidarity with the Palestinian Peopleとして制定しました。1988年パレスチナは独立宣言を行い、2012年国連はパレスチナを国家として承認し、領土はヨルダン川西岸地区およびガザ地区、東エルサレムを首都として定めていますが、国連には未加盟であり、2019年7月時点で138の国連加盟国が国家として承認しています。承認していない国連加盟国は55ヵ国で、安保理常任理事国であるアメリカ合衆国、イギリス、フランスの3か国に日本、カナダ、ドイツ、イタリアを加えたG7諸国はすべて承認していません。日本はパレスチナ、台湾、北朝鮮を国家として承認していません。背景にアメリカや中国への外交的思惑があります。遠い国ではありますが石油問題もありアラブ諸国との関係は日本にとって重要です。

パレスチナ

税関と関税

税関と関税

1952年(昭和27年)に当時の大蔵省が税関の日を制定しました。11月28日になった理由は、明治5年(1872)のこの日、長崎・神奈川・箱館(函館)に設けられていた運上所の呼称を税関に改めたことによります。
税関を英語ではcustomsといいます。複数形であることに注意してください。単数形のcustomは「習慣」という意味です。複数形で意味が変わる語はmean(意味)、means(手段)などかなりありますので、きちんと理解していないと誤解を生みます。
Customsの場合、語源的にはcustom-houseが縮小したものと言われています。日本語だと税関で支払う税金を関税というので、これも混同されやすいです。
関税は英語ではdutyといいます。免税店をDuty Free Shopというので、ご存じの方も多いと思います。明治時代初期はあらゆる日本の習慣や文化を変更していったのですが、関税の前の用語は運上金といいました。農業の場合は年貢ですが、農業以外の商業・工業・漁業などの産業従事者に対して一定の税率を定めて課税したものを運上といいました。また特定の免許を得てその代わりに一定の税率等を定めずに必要に応じて上納させたものを冥加(冥加金)といいました。冥加金とは本来、神社やお寺に収めるお金のことでしたが、それが領地の藩から認可をもらう代わりに納める税金のことを冥加というようになったものです。
税金は租庸調の昔から、あらゆる場面で徴収されるものです。政府は大小に関わらず民衆から金を集める知恵ばかり働かせているようです。一方で、免税という特権を出すことで利権構造になりやすい側面もあります。また税率の変更という政策が経済を大きく変えることもあります。
関税は外国との貿易の際の税金なので、輸入品に対して量的な制限を加える手段になります。西欧が植民地や敗戦国に対して不平等条約を押し付ける場合も関税権を与えないことが重要な要素の1つです。また国内産業を守るために関税をかけることも行われます。昔、日本は米が重要産品ということで、外国から安い米が入ってくることを高関税をかけることで制限していました。このように各国が関税をかけあうと、力のある国が有利になります。そこで国際的に調整するための機関としてWTOが設立されましたが、一方で各国同士の二国間協定もありました。世界をまとめるのは困難なので、ヨーロッパが1つになって欧州連合(EU)になったり、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)のようなブロック経済圏ができています。これはどちらも相互に関税をかけない協定です。これは輸出には好都合ですが、輸入制限には不利ですから、理想的のようでいて、必ずしもそうでないことを知っておきたいです。

税関

兵学校

兵学校

明治3年(1870)明治政府は東京海軍所を海軍兵学寮、大坂兵学寮を陸軍兵学寮と改称しました。当時はまだ旧暦でしたから、11月4日のことです。これが海軍兵学校、陸軍士官学校となり、現在は、それぞれ海上自衛隊幹部候補生学校、陸上自衛隊幹部候補生学校となっています。海軍は英国式、陸軍は仏国式が始まりでした。

諸外国を旅行すると、どこの国でも兵学校への尊敬と立派さに驚きます。同時に日本の異常さに複雑な思いをします。憲法のせいかもしれませんが、日本人は教育によって軍事は悪い事として刷り込まれていると感じます。そして軍人出身の政治家が稀有です。どこの国でも兵学校出身のエリート軍人は軍務だけでなく、政治にも関与しています。米国のように徴兵制がある国では、国民の三大義務に納税、軍務、国家への忠節があり、そして教育の義務があります。日本では誤解している人がいますが、教育の義務とは本人が教育を受けることが義務なのではなく、本人には教育を受ける権利があるので、親が教育を受けさせる義務があることを教育の義務というのです。
兵学校も教育機関の1つであり、一般が想像する軍事訓練の他に、語学などの一般教養を教育しています。兵学校はいわゆる士官学校であり、現在では防衛大学校などの大学卒業生が入学する上級の教育課程です。大学院がアカデミックな教育なのに対し、実用的な教育になっていると解釈するのが正しい認識だと思います。米国のNASAなどは高度な研究機関であり、博士課程修了が前提となっていますが、軍事の一部であることは日本では意外と忘れられています。

明治時代、富国強兵が国策でしたが、その基盤となったのが国民の教育でした。江戸時代は藩校があり武家では文武両道として教養教育が盛んで、実際に藩の経済や政治を行ったのは武士ですから、今風の見方をすればどこも軍事政権であったわけです。一般庶民の多くは寺子屋などで読み書きを習い、丁稚奉公して技術と算術を教育されていたので、当時、日本を訪れた外国人は日本国民の教育程度の高さに驚いていました。現在はあまり使われませんが、識字率が非常に高い国でした。この識字力を英語ではliteracyリテラシーといいますが、現在では情報リテラシーのように理解力として意味を拡大しています。その意味でいうと、日本国民は軍事リテラシーが異様に低い国です。戦前までは兵学校が多くあり、徴兵制でしたから、軍事リテラシーは高かったのですが、現在は兵学校が特殊化され富国弱兵の国になりました。軍事政権を否定することは武家政権も否定し、日本の歴史をも全否定することになってしまいます。

兵学校

崇峻天皇暗殺

崇峻天皇暗殺

推古元年霜月三日、崇峻天皇は蘇我馬子によって暗殺されました。実際に手を下したのは東漢 駒(やまとのあや の こま)です。日本の歴史上、天皇が暗殺されたのはこの事件だけです。事件は用明天皇2年(587)に用明天皇が崩御すると大臣であった蘇我馬子は大連の物部守屋を攻め滅ぼし朝廷の実権を握って崇峻天皇を擁立しました。やがて崇峻天皇と馬子は対立関係になり、馬子に命ぜられた駒は、崇峻天皇5年(592)崇峻天皇を暗殺しました。その後、駒は馬子の娘である河上娘(崇峻天皇の嬪)を奪って自らの妻としますが、河上娘を穢されたことを知った馬子に殺害されてしまいます。一説には崇峻天皇暗殺の口封じであったともいわれています。
崇峻天皇は欽明天皇の第12皇子で、異母兄弟は敏達天皇(第30代)、用明天皇(第31代)に次いで第32代天皇になりますが、暗殺により姉の推古天皇が第33代となります。崇峻天皇は蘇我馬子によって推薦され即位したのですが、有力豪族の一方である大連の物部守屋は、同母兄の穴穂部皇子を即位させようとします。しかし穴穂部皇子は蘇我馬子によって殺害されてしまいました。崇峻天皇は倉梯(現在の桜井市)という山の中に宮を建て、蘇我氏とも距離をおきました。蘇我馬子が権力を奮う一方で、天皇の権力基盤は弱く、后妃問題や仏教による宗教政策、飛鳥寺の建立、東山道・東海道・北陸道に使者を派遣して蝦夷国境、海浜国境、越国境を視察させた地方政策、任那復興軍の派遣という外交政策など、政策を巡る政権内の対立の中で、権力者によって暗殺されるという結果になってしまいました。後に起こる将軍暗殺や下剋上、お家騒動などと同様な騒動であったといえます。
蘇我馬子は物部氏を滅ぼして、皇太后であった炊屋姫を即位させ、初の女帝である推古天皇を推したてました。そして厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ摂政となりました。馬子は聖徳太子と合議して政治をし、仏教を奨励し、冠位十二階や十七条憲法を定めて中央集権化を進め、遣隋使を派遣して隋の社会制度や学問を輸入していきます。推古天皇4年(596)には蘇我氏の氏寺である飛鳥寺を建立しました。馬子は推古30年(622)に聖徳太子が死去した後も権力の座にあり、推古天皇とも領地争いをするほどでしたが、推古34年に死去しました。
有名な憲法十七条や冠位十二階などは歴史の時間に聖徳太子の業績として習いますが、本当は太子一人の力ではなく、背後に蘇我馬子の力があったわけです。無論、太子の力量に追うところが多いのですが、あまりに伝説化されているのは、馬子が天皇暗殺の張本人であり、皇室を操ったということが戦前の皇国史観により悪人扱いされたことも否めないと思われます。

飛鳥寺

Viral Marketing

Viral Marketing

2005年(平成17年)11月25日、株式会社タイトーがPSPゲームタイトル「EXIT」が開始され、そのキャンペーンを手がけたロカリサーチ株式会社が制定したのが、バイラル・マーケティングの日です。バイラル・マーケティングとはいわゆる口コミを利用し、低コストで顧客の獲得を図るものです。口コミは、語源としては人の口から口へと情報が伝播していくことですが、インターネットやSNSが発達した現在では対面に拠らない口コミの情報伝達の方がむしろ盛んです。いわゆるbuzzるです。

Viralとは「virus(ウイルス)のような」という意味で、コロナ・ウイルスは人から人へと爆発的に感染しましたが、SNSでは人から人という点は同じですが、情報の「感染力」は桁違いです。情報発信力のある人をインフルエンサーといっていますが、正にインフルエンザと同じように、情報の局所的流行があっと言う間に世界へと広がっていきます。この「ウイルス的感染性」を販売戦略に活かそうというのがバイラル・マーケティングviral marketing(以下VMを省略)です。訳語はまだないようですが、意訳すると伝染販売、口コミ商法といったところでしょうか。

VMに必要な要素はmessenger, message, environment(JULIA KAGAN, March 28, 2022)だそうですが、この概念はシャノンの情報理論の媒体を環境に変えた程度の改定なので、現代的に書き直すと、P2P, 情報, メディアが三要素ということになります。情報をさらに広報戦略として考えるなら、コンテンツということになります。実際、viral contentという用語が広がってきています。

VMに限らず、新技法の解説者は利点や長所にのみ焦点を充てがちですが、欠点もあります。口コミの欠点は流言飛語や誹謗愁傷が多いことです。社会心理として人を褒めたりpositiveな発言よりも、人を中傷するnegativeな発言が興味を引き拡散する傾向が顕著です。それを悪用した、いわゆる炎上商法もあります。VMを推進する前提として、透明性や正直、事実といった基本的なルールを守った運用をしないと、せっかくの技術も普及しません。長期的には淘汰されていくのですが、初期段階でつまづくと発展しません。現状のいろいろなSNSはこうした欠点が見え始め少しずつ改正への方向が出始めています。利用者の倫理観の熟成が大きな課題ですが、そのためにVMを活用することも1つの可能性といえます。

ウイルスは一般に悪いイメージですが、医療では役に立つウイルスもあります。

インフルエンサー

霜月

霜月

今年の11月24日は旧暦霜月朔日です。日本列島は南北に細長いので、地方によってはもう初霜が降りた所もありますが、多くはこれからです。旧暦では月名に異名がありますが、霜月にもいろいろあります。仲冬(ちゅうとう)というのは、陰暦だと10月から12月が「冬」なので、11月が、冬の真ん中の月になるためです。神来月、神帰月(かみきづき)は先月の神無月に、出雲にお出かけになっていた日本各地の八百万の神々がお帰りになる月だからです。神楽月(かぐらづき)というのは、神様に舞や歌を奉納する「神楽(かぐら)」が、冬至の頃に盛んに行われていたからだそうです。雪待月(ゆきまちつき)は冬支度をして、雪を待つ月ということから「雪待月」です。風流な呼び名ですね。霜月(そうげつ)はあえて「そうげつ」と読んで、霜と月の光の情緒を表現する呼び名です。日本らしい優雅で美しい情景が浮かびます。

そのほかの別名・異称があり、建子月(けんしづき)というのは霜月が子の月で十二支の最初なので、1年がこの月から始まるという意味です。そこで江戸時代から霜月1日に歌舞伎の「顔見世」を行うようになったといわれています。

顔見世とは、年に1回役者が交代し、新しい顔ぶれで興行を行うことです。当時の歌舞伎界では役者の契約は1年間で、11月から10月までの定めでした。歌舞伎の正月ともいえる重要な行事となっていて、今日まで続いています。現在は所により10月や12月に顔見世興行の所もあります。劇場の正面に役者の名前が勘亭流で書かれた看板が掲げられ、その順番が二枚目(美男)、三枚目(道化)といった表現の語源になっています。

辜月(こげつ)という異名は語源が複雑で、あるサイトでは「易の考え方によれば、11月は陰が極まっていた10月が終わり、陽が兆し始める時期にあたる月である。この月は、十二支の最初の子の月にあたる月であるから、これまでの古い部分を改め、物事を新しいものに変えてゆくことを欲する月でもある。そのためこの月は「これから新しく生まれ変わるべき古い月」という意味を込めて「故月」と呼ばれていたのだが、その「故」の文字が同じ発音や部首を持つ「辜」の字と混用されてしまったために、結局「辜月」と表記されるようになったのである。」と説明されていますがhttp://rainbowvortex.blog.fc2.com/blog-entry-149.html)なんともわかりにくいです。
他に霜見月、陽復というのもあります。陽復は一陽来復つまり冬至のことです。

霜月

勤労とは何か

勤労とは何か

11月23日は勤労感謝の日です。この日は昔、新嘗祭という五穀豊穣を祝う祭事だったことは知られており、今でも全国各地の神社では神事として行われています。

勤労感謝の日となったのは1948年にGHQの命令で、新嘗祭を国民の祝日から分離することによります。ここでいう勤労とは何でしょうか。国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年法律第178号)第2条によれば、「勤労をたつとび、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう」こととなっていて、とくに勤労の定義は示されていません。国語辞典によれば勤労とは「1 心身を労して仕事にはげむこと。2 賃金をもらって一定の仕事に従事すること。(goo辞書)とあり、1は抽象的で2は賃金をもらうこと、が重要視されています。では勤労と労働はどこが違うかというと、ある説明では「勤労は、職種はどうでもよく、事業者側にやとわれている人間である場合、働くこと自体を勤労と呼びます。」(https://meaning-difference.com/?p=32694)としています。つまり「雇われていること」が重要で、この定義が正しければ、勤労感謝とは雇われて働いていることを尊重しなさい、ということになってしまいます。自営業者や農業生産者は除外ということになります。

同じ説明では労働を「単に働く行為そのものを指し、事業者に雇われていようと自営業だろうと働こうとするさまを示せば、「労働」です。」としていて、「雇われているかどうかは無関係」としています。

勤労感謝の日は英語に訳すとLabor Thanksgiving Dayになるようで、laborは普通、労働と訳しているので、これだと労働感謝日ということになります。米国にはLabor Dayという休日があり、9月の第1月曜日となっていて、この日が夏休み最後の日になっています。GHQはこの日を意識して、日本の勤労感謝の日を命令したのだと想像できます。勤労も英語訳はlaborですから、GHQは勤労と労働の違いを認識しておらず、両者を分けているのは日本の思想といえます。

労働関係法では「事業者や使用者に雇われて労働する者を「労働者」としており、求職者、失業者も含みますが、船員は含まれないそうです。.職種を問わず事業主に雇用される者は「勤労者」と定義されていて、この中には船員、国家公務員、地方公務員も含むそうです。自営業者、家内労働者などの労働基準法において「労働者」に含まれない者は「勤労者」ではないとされています。」 もう訳がわかりません。

勤労

小雪

小雪

11月22日は二十四節気の小雪です。「小雪」をネット検索すると最初に女優さんのサイトが出てきます。いまはショウセツよりコユキの方が有名なのですね。二十四節気は旧暦の行事ですが、旧暦は太陽太陰暦なので太陰暦の行事よりも現在の新暦とのギャップが少ないのです。今年の小雪は11月22日から12月6日までの15日間です。

小雪の間は寒い日もありますが、日中は温かい日もあり、こういう日を小春日和といいます。そもそも小春というのは、勿論女性の名ではなく、旧暦の10月の別名です。

小雪の最初である初侯は虹蔵不見(にじかくれてみえず)といいますが「蔵」には潜むという意味があり、虹が見られなくなる頃という意味です。日差しも弱まり虹が出てもすぐに消えてしまいます。また空気も乾燥するので、虹も出にくいです。
次侯は朔風払葉(きたかぜ このはをはらう)です。「朔風」とは北風のことで、木枯らしが木の葉を吹き払う頃ということです。
最後の末侯は橘始黄(たちばな はじめて きばむ)です。橘の実というのは今であまり見かけなくなりましたが、橘は日本固有の柑橘類です。葉が枯れない常緑樹なので、永遠の象徴とされ、その実は「不老不死」の実として『日本書記』にも登場します。京都御所紫宸殿の南庭に植えられ「右近の橘、左近の桜」とされ、お雛様の飾りにもされています。大きな神社もそれに習っている所もたくさんあります。

永遠であることが文化の永久に通じるとされ、文化勲章のデザインにも採用されています。文化勲章は文化勲章令という法律で戦前(昭和12年)定められた特別な勲章で、他の勲章には階級がありますが、文化勲章には階級がありません。文化勲章は、章、鈕、環、綬の各部から構成されていて、章は橘の五弁の花の中心に三つ巴の曲玉を配しており、鈕は橘の葉と実を、それぞれ緑色と淡緑色で表しています。環は金色で小形の楕円であり、綬の幅は3.7センチメートルで淡紫色と定められています。

橘は別名をヤマトタチバナといい、西日本の海岸近くに自生していることもあるそうです。家紋にも多く取り入れられ、基本の橘紋の他、三つ橘、五つ寄せ橘の他、一見橘に見えない陰橘というデザイン化されたものもあります。橘紋は十大家紋の1つで、黒田氏、井伊氏など大名から旗本にも用いられています。日蓮宗の寺紋は井桁に橘で開祖日蓮が井伊氏一族の出身であることに由来するそうです。石清水八幡宮は橘紋と三つ巴が神紋としています。京都の梅宮大社も橘紋を社紋としています。

小雪

World Television Day

World Television Day

11月21日は国連が定めた世界テレビの日だそうです。1996年12月の国連総会で制定されました。1996年のこの日に国連主催の「第1回世界テレビ・フォーラム」が開催され、テレビが人や世論の意志決定の過程において大きな影響を及ぼすようになったことから実施されたのだそうです。国連加盟国に対して、平和・安全・経済・社会開発・文化交流の拡充などの問題に焦点を当てたテレビ番組の世界的な交流を促すことにより、この日を記念するように呼びかけたのだそうですが、その27年前1969年インターネットが誕生しています。テレビの発明は1925年イギリス人のベアードということになっていますから、70年かかって普及したわけです。
テレビジョンの語源はtele遠く、vision見ること、ですから、遠くのものを見たいという人間の欲望が物理的制限があった望遠鏡の時代から比べると、空間を越えて見ることができるようになった画期的な発明だったといえます。
インターネットの普及は「インターネットの発展・普及を、1994年頃までの「インターネット黎明期」、1995から2000年頃までの「インターネット普及開始期」、2001から2010年頃までの「定額常時接続の普及期」、2011年以降の「スマートフォンへの移行期」の大きく4つの時代区分に分けて」(総務省HP)となっていて、スマートフォンの普及がキーになっているわけです。発明から42年と速度は上がっています。
テレビの場合は、長く共有の時代があり、街角テレビから各家庭へと変化し、今でも個人テレビ視聴はそれほど多くないと思われます。インターネットは視聴者が最初から個人を想定しており、PCつまりpersonal computer個人計算機から普及が始まってスマートフォンという完全に個人用ツールによって普及したわけですから、同じ情報共有でも受け手が複数と単数という違いの差があります。また機器の価格も相当差があり、それが普及速度と関係していると思われます。国連のテレビ・フォーラムが話題としていた「世論の意思決定の仮定において大きな影響」は意思決定があくまでも個人のものである、という前提に立てば、普及「黎明期」であったインターネットの存在を理解していなかったか、発展速度を甘くみていたということです。
日本の放送法は1950年(昭和25年)より施行されたのですが、これは日本放送協会(NHK)設立のためであり、「放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることにある」(同法第1条)とあって、国連の議題とは趣旨がまったく異なります。現在、テレビ放送のインターネット化が進んでいる状況ですが、国連の宣言以前に作られた放送法と国連宣言の趣旨の検討なく混淆化していくと法的な矛盾が生じるのは必至です。公共の福祉と世論意思決定の関係をどうするのでしょうか。

テレビ