年功序列再考 ― ポスコロ ―

年功序列再考 ― ポスコロ ―

Covid-19の終息が見えてきて、世界はポスト・コロナの経済復興に舵を切っています。日本もあれこれ批判はあるものの、行動制限なしという政府方針はそのトレンドに乗るつもりです。制限がなくなるだけでは元に戻るだけですから、元の不景気に戻ったのでは意味がありません。これを好景気に転換できるような政策が必要です。賃金上昇が叫ばれますが、賃金が上がったところで儲かるのは所得税が増える財務省だけで、物価が上がる国民の生活が楽になるわけではありません。第一、不景気のまま賃金が上がるはずがないです。
ポスト・コロナは働き改革が起こります。日本でもリモート・ワークが一気に進み、出社しないことによる通勤地獄の緩和、地方移住の促進という今まで政府がどれだけ旗を振っても動かなかった国民が転換しつつあるわけです。地方移住は住宅費が安くなり、生活費も下がります。不便といえば娯楽が少ないこと、医療が未整備、高等教育の不足など、これまで都会に住まざるをえない状況だったものが、通信の発達でオンラインにてこれらが解決する方向が見えてきました。
まだ顕在化していない働き方改革で、年功序列制度の再考という大企業がでてきたことです。これまで年功序列社会の弊害が叫ばれ、その典型である政治の世界を見ていると長老支配の弊害が目につきます。しかしよく考えてみると、普通の社会には定年があり、組織はピラミッド型ヒエラルキーがあります。典型的な例は軍です。日本は表面上、軍を失っているので軍組織を肯定的に見る人は少ないのですが、軍は実力組織であり年功序列です。昔は王族が若くても軍のトップになることがありましたが、民主国家では年功序列で、いきなり20代の将軍はありえません。なぜかというと軍は経験が重視される社会だからです。そしてトップは競争社会を生き抜いた人で、それは隊の指揮官は一人という鉄則の上に成り立っていますから、必然的に上に行けば行くほど少数化していき、三角形のピラミッド・ヒエラルキーを構成します。
しかしこの三角形も頂点が増えて台形のようになると「船頭が多い」状態になって暴走したり弱体化します。そして下部の反乱つまりクーデターによって組織が一旦崩壊します。これは現在の外国の一部や日本の歴史を見れば多くの例があります。つまり年功序列という制度の弱点ではなく、序列上昇への競争が弱くなったことによる弊害で、競争が弱くなる原因は世襲や縁故という実力を伴わない序列上昇要因に問題です。現状の日本社会でいえば、やたら大臣が増えたり、完了ポストが増えているのが政治の弱体化の原因と見ることができます。その根本原因は年功序列ではなく世襲、縁故(閥)による人事が当たり前になっていることです。かつての日本社会は年功序列と終身雇用でした。これにより社員は安心して働き、忠誠心もあり、会社も社員を家族と考えて遇する習慣がありました。経済成長がそれによって支えられてきたという見方もできます。実際、これらを放棄した働き方をしてきた結果、長期の不景気になりました。温故知新、新たな転換期である今こそ、昔の日本社会の良さを見直すのがポスコロの要点です。

年功序列

地蔵盆

地蔵盆

文月23日は地蔵盆です。関東地方ではあまり盛んではないのですが、関西地方では今でも盛んなようです。地蔵の縁日は毎月24日ですが、盆のある文月24日に地蔵盆が行われます。23日はその前夜、宵縁日で、本来はお盆同様、24日前後の3日間の行事です。普段の地蔵縁日は地蔵会(じぞうえ)といいます。
いわゆるお地蔵さんという地蔵菩薩の石像が昔は街角や村のはずれ、街道には必ずといっていいほどありましたが、今は寺の六地蔵くらいしか見かけなくなりました。昔話にもよく登場し、笠地蔵の話とか、「見てござる」という童謡にもでてきます。地蔵のある町内の人々は毎月の地蔵会に地蔵の像を洗い清めて新しい前垂れを着せ、周囲を花などで飾り付け、地蔵の前に集って灯籠を立てたり供え物をしたりしてお祀りしたりしたのですが、とくに地蔵盆には地蔵のある家や街角の祠に地蔵盆の提灯が飾られます。京都では子供が生まれると、その子の名前を書いた、女子は赤、男子は白の提灯を奉納する風習があるそうです。奉納された提灯はその子が地蔵盆に参加している間は毎年飾れられる習慣だそうです。お地蔵様は子供の守り仏であり、地蔵盆は子供のための祭でした。子供達は供養の菓子や手料理などを振る舞われる楽しみの日でもありました。
地蔵菩薩は中近世以降子供の守り神として信仰されるようになったようで、伝説によれば地蔵菩薩は親より先に亡くなった(逆縁)子供が賽の河原で責め苦にあい、苦しんでいるのを救ってくださるとのことです。お坊さんによる読経や法話も子供向けたものです。地域によっては地蔵盆当日の朝に直径2〜3メートルの大きな数珠を囲んで座り、お坊さんの読経にあわせて順々に回す「数珠回し」を行うという風習もあるそうです。
地蔵菩薩の本来はお釈迦様が入滅されてから、次の仏陀になられることを約束された未来仏である弥勒菩薩が成仏されるまでの間、仏がいない無仏状態になるので、その間の衆生を救済することを釈迦から委ねられたとされている仏様です。この間がどのくらいかというと入滅後5億7600万年後か56億7000万年後(随分開きがありますが)ということになっています。その入滅はいつかというと紀元前949年ということになっているので、まだ3千年しか経っていません。
地蔵菩薩は立った御姿(立像)がよく見られるのですが、座像もあります。地蔵菩薩の解説である『地蔵菩薩本願経』には、善男善女のための二十八種利益と天龍鬼神のための七種利益が説かれています。全部は書ききれませんが、およそあらゆる功徳が書かれている万能の仏様ということになります。浄土信仰が普及した平安時代以降、極楽浄土に往生の叶わない衆生は、必ず地獄へ堕ちるものという信仰が強まり、地蔵に地獄における責め苦からの救済を欣求するようになったのが、地蔵信仰が普及した理由のようです。地獄・餓鬼・修羅など六道をめぐりながら、人々の苦難を身代わりとなる代受苦の菩薩とされ、「子安地蔵」と呼ばれる子供を抱く地蔵菩薩もあります。昔は多かった水子や夭折した子供の供養としてもお詣りされます。

地蔵

考証を考証する(2)

考証を考証する(2)

考証を英語にしようとすると、investigation調査、study勉強、evidence証拠、documentation文献調査といった語彙が出てきます。一語で置き換えられる訳語がなく、日本語の幅広さを示す語ですが、訳語のどの語彙にも共通する意味は事実をしっかり検証するということです。
ところが最近のテレビドラマの多くは、昔のモノクロ映画時代のように背景に重点がなく、ひどい場合はストーリーやセリフ、小道具にも考証がなされていないものが増えてきました。おそらくは予算と時間がないからと想像しますが粗製乱造です。こうしたことを繰り返していると観客から見放されることは確かです。昔の映画は競争商品がなかったのと新しい文化なので、それでも通用したのですが、現在は競争商品があふれており、消費者の選択範囲が広がっています。実際テレビの娯楽ドラマ枠は撮影ドラマが激減し、アニメが圧倒的です。ドラマ撮影もロケではなくスタジオやセット中心です。刑事ものなどはコンクリート壁の部屋に机一つ、役者も普段着ですから、予算も考証も不要です。大型時代劇には大掛かりなロケもありますが、遠景や天候はどうにもならないので、史実を知っていると違和感があります。知らぬが仏、といえばそれまでですが、歴史物の場合はストーリーをそのまま信じる人もいるので責任は重大です。ロケ地では雨や雪は降らせることができますが季節は困難です。実際に合わせようとするとその時期に撮影しなければなりません。特定の場所の桜並木などは時期も限定されます。映画によっては何年もかける場合がありましたが、今では合成やCGが支援してくれますから、考証がきちんとしていれば違和感は減り現実感リアリティが増す作品が作れますが、よく見ると多少違和感は残ります。
これはテレビドラマや映画製作だけの話だけではなく、学問や教育の世界でも考証が疎かになっている傾向があるのが怖いところです。よく論文の証拠の捏造が話題になりますが、結果を急ぐあまりの結果です。予算と時間がないとつい悪事に手を染めてしまうのですが、個人の倫理問題だけではないといえます。日本の研究費は短期で成果を出すことが前提になっていますから、研究に精一杯で検証に時間をかけていると研究期間が過ぎてしまいます。期間終了後直ちに成果報告を出すしくみなので、その時間的制限に当てはめようとすると無理せざるをえない環境です。検証には研究の数倍の予算と時間がかかるのが普通ですが、検証に研究費が出ることはほぼないです。これが粗製乱造の論文が出る環境といえます。商品の場合は消費者が選択できますが、研究や論文は消費者がいませんし、市場もほぼありません。研究費を出す側の恣意で決まります。研究の中身より点数と国際評価だけが選択基準になっているのは交付側が中身の価値を判断する能力がないことを示しています。
考証は制作側だけでなく視聴者側もする時代です。インターネット検索の普及は消費者側も学習機会が増えているので、製作側はさらによく考証しないと不良製品と判断される時代になりました。創作には考証が不可欠という当たり前のことが復活することを願うばかりです。

考証

考証を考証する

考証を考証する

最近のテレビドラマを見ていると、考証不足が目につきます。アニメの方は聖地巡りがブームのこともあって、背景の実地検証とか時代考証などをかなりきちんとやっています。昔のアニメは製作上の制限もあって動かない背景とか適当な街並みを描くのが普通でした。なのでディズニーアニメで周囲の動物や植物が動くというリアリティに人手と時間をかけてきたことが感動を呼ぶ理由でもありました。初期の日本アニメは主人公の動きだけをセル画にして、背景は固定化して合成撮影する手法が当たり前でした。時間と予算の制約のため、そうせざるをえなかったという事情がありました。そのため考証の必要のない抽象的な一般的な風景にしていたわけです。サザエさんやドラえもんの家が不自然という指摘はマニアの間では有名な話です。
映画の方は画面作りに心血を注ぐ製作者が多く、画面の細部まで考証をしました。初期のモノクロ映画はそこまでの余裕がなく、光源を太陽光に頼っていてスタジオ録画が難しいため、ロケーション撮影が中心で、そのため背景に映ってはいけない人や背景が入っていましたが、見る方も気にしていませんでした。写真が動くこと自体が驚異的だったわけです。歌舞伎などの舞台は書き割りと大道具という固定的な背景で場面展開をするのが普通で、それに合わせてシナリオがあり、ライティングや効果音で補強する手法は今でも使われています。最近はレーザやCGを取り入れることも増えてきています。それでもリハーサルを重ね、考証を重ねて本番になります。
テレビドラマは映画作りのスタッフがそのまま制作していたので、初期の頃は背景と状況が限定されるスタジオ撮影とロケ撮影を組み合わせて制作していました。録画がなかった時代はいろいろミスがありましたが、見る方は気にしていませんでした。しかしスタジオ撮影には限定が多いため、録画が可能になり映画同様になると、ロケとスタジオの中間ともいえるセット撮影が増えていきました。映画の撮影所を利用することも多く、いわゆる時代劇は太秦撮影所が多いので、テレビ時代劇ファンは太秦撮影所が「聖地」だったわけです。映画セットはシナリオに関係なく普遍的な利用を可能にするため、時代考証もした家並みと小道具が配置されています。逆にいうと時代劇の時代もそこに限定されるため、太秦利用時代劇といえば江戸時代ばかりになりました。それ以外の時代のドラマを作るには大掛かりなセットが必要になります。そうして制作れた大がかりなセットはそのまま観光地化していきました。人気のユニバーサルスタジオも元はそれです。
ところがCGの発達により映画やドラマの制作方法が変わってきました。それまでは現物を撮影するという光学的手法しかなかったものが、電子的手法により画面が作成できるようになったことで、実際に存在しないものが現実に見える、つまり仮想現実VRが増えていきました。VRは現実にないものをあるように認識させる技術であるため、事実の検証が不可欠です。実在のものを強調し変形することで現実には存在しないものを創作するので綿密な考証が不可欠です。たとえば昔の建物の内部をVRにするには膨大な量の文献から構築するという作業が前提になっています。

撮影

牧氏事件

牧氏事件

元久二年(1205)閏文月二十日、幕府内で完全に孤立無援になった北条時政と牧の方は出家し、鎌倉から追放され伊豆国の北条へ隠居させられることになった事件です。
時政はその後、二度と政界に復帰することなく建保三年(1215)、北条の地で死去。牧の方も夫の死後は娘を頼って上洛し、京都で余生を過ごしました。北条氏の第2代執権には義時が就任して北条氏は幕府内における地位を確固たるものとなりました。
その前の正治元年(1199)に源頼朝が死去した後、北条時政は有力御家人の梶原景時や頼家の外戚である比企能員一族を滅ぼして北条氏の地位を一段と高めてゆき、建仁三年(1203)二代将軍源頼家も廃して弟の源実朝を新将軍として擁立し自らは初代執権となりました。元久元年(1204)京の平賀朝雅邸で将軍実朝の妻坊門信清の娘(信子)を迎えるために上洛した御家人たちの歓迎の酒宴が行われ、その席で時政の後妻牧の方の娘婿である朝雅と時政の前妻の娘婿畠山重忠の嫡子重保との間で言い争いとなりました。周囲の取りなしで事は収まったものの、重保と共に上洛していた時政と牧の方の子政範が病で急死しました。
政範の埋葬と重保と朝雅の争いの報告が同時に鎌倉に届きます。元久二年(1205)重保と朝雅の対立を契機として、時政は畠山氏の討滅を計画します。このとき息子の北条義時は重忠とは義兄弟かつ友人関係であり、あまりに強引な畠山氏排斥を唱える父に対して反感を抱くようになります。しかし、父の命令に逆らえず武蔵二俣川にて畠山重忠一族を討ち滅ぼしました。人望のあった重忠を強攻策で殺したことは、時政と牧の方に対する反感を惹起することになりました。元久二年閏7月時政と牧の方は実朝を廃して、頼朝の猶子である平賀朝雅を新将軍として擁立しようとしました。政権を牛耳るためとはいえ、時政と牧の方のこのようなあまりにも強硬な策は一族の北条政子・北条義時らの反感を招きました。
政子・義時らは結城朝光や三浦義村、長沼宗政らを遣わして時政邸にいた実朝を義時邸に迎え入れ、時政側についていた御家人の大半も実朝を擁する政子・義時に味方したため、陰謀は完全に失敗します。時政本人は自らの外孫である実朝殺害には消極的で、その殺害に積極的だったのは牧の方であったとする説もあるそうです。そして翌二十日に時政と牧の方は鎌倉から追放されたわけです。時政が横暴であったことは確かですが、陰に妻の牧の方が糸を引いていたのも事実のようで、鎌倉幕府の正史「吾妻鏡」では北条の贔屓のため牧の方の陰謀を強調しているかもしれません。
鎌倉幕府は頼朝の死後、御家人たちの争いの連続でしたが、ついに内紛にまで発展していったわけです。この後、建暦三年(1213)北条義時を排除しようと企む泉親衡の謀反が露見。和田義盛の息子の義直、義重と甥の胤長が関係者として捕縛され、赦免を巡って北条氏と和田氏の関係は悪化、義盛は三浦一族の味方を得て打倒北条の決起をしますが、義村は直前で裏切って義時に密告、義時は義盛を破り和田氏は滅亡しました。そして三代将軍源実朝も頼家の子の公暁に暗殺されてしまいます。この暗殺の背景については諸説があるようです。

願成就院

お盆と盆踊り

お盆と盆踊り

お盆に行うので盆踊り、というのは当たり前のことですが、案外単なる夏祭りだと思っている人が多いです。世界のどこにでも歌と踊りがあるのは共通ですが、日本の盆踊りには歴史があります。起源は鎌倉時代の踊り念仏だそうで、一遍上人が開祖である時宗(じしゅう)で広がったようで、今でも藤沢の遊行寺(箱根駅伝の途中に有名な坂があります)では全国から踊り念仏の人々が集まってきます。念仏とはナムアミダブツであり、他の念仏宗同じく、念仏を唱えて極楽浄土を願いつつ踊るわけです。一遍上人は全国を遊行(ゆぎょう)し念仏宗を普及されたので、各地に少ないながら時宗の寺もあり、今も念仏踊りが伝承されているそうです。
室町時代になって、庶民に広がった念仏踊りが盂蘭盆会の風習をつながり、それが盆踊りの始まりといわれています。当時流行った風流拍子物(ふりゅうはやしもの)という派手で華美な意匠と合体して、太鼓と唄に合わせる盆踊りのスタイルが流行っていきます。風流(ふうりゅう)というと何かロマンチックな響きがありますが、当時は侘び・寂び(わびさび)と対極の派手であったわけで、フリュウとフウリュウでは意味が変わったことにも注意が必要です。その意味では阿波踊りやソーラン、郡上踊りなどはその流れを今も残しているといえます。時代が下るにつれ、だんだん派手さが増していき、江戸時代には幕府が規制を始めるようになりました。一方で風流踊りの方は阿国歌舞伎や浄瑠璃に取り入れられて芸能へと発達していきました。元は太鼓だけだったものが、琉球三味線から発展した三味線が入ることで、一層派手になっていきます。現在の沖縄のエイサーも江戸初期に琉球に渡った僧が盆踊りを伝えたのが発祥とされています。江戸時代には現在の形に近いお盆の風習も固まってきて、祖先の迎え火と送り火、精霊流しのような行事も広がりました。また農村部では盆踊りの夜に若い男女が集まって結婚相手選びをするようになり、出会いの場となる風習は戦前まで残っていました。しかし明治時代になると風紀を乱すということから取り締まりが厳しくなりました。それでも産業革命と共に新たな盆踊りが作られ、有名な「炭坑節」が広がります。昭和になると、同じような音頭もたくさん作られ、東京音頭もその1つです。大阪の河内音頭は長い歴史があり、江戸時代あるいはそれ以前の土着の音頭・民謡、浄瑠璃、祭文といった庶民の芸能と仏教の声明が、長い時間をかけて混ざり合い、改良されて成立したとされています。そしてそれが盆踊りとして盂蘭盆会、地蔵盆の時期に盆踊り歌として歌われてきました。さらに近代になって鉄砲節として一世を風靡し、ギターやキーボードまで取り入れて浪花節あるいは浪曲として発展していきました。現代ではおわら風の盆や郡上盆踊り、各地のエイサーコンテストなど観光の側面が強調されることで復活してきたといえます。
盆踊りは英語でBon DanceといいLAの二世週間のメインイベントですが、bonにはbon fireのようなニュアンスがあるため、偶然ですが、盆踊りの賑やかさとマッチしたようで、戦前の米国では人気があったようです。歌と踊りは万国共通の楽しみなのです。

盆踊り

中元

中元

お中元として贈り物を送る人は多いのですが、その意味は意外に知られていません。中元とは昔の中国の道教の思想の1つ三元がもとになっています。三元というと今や三元豚とか麻雀の第三元しか思い浮かばないと思います。道教の三元とは上元、中元、下元のことで、それぞれ旧暦の1月15日、7月15日、10月15日になっています。三元の思想では三元は1年を3等分ではなく、2:1:1(6ヶ月・3ヶ月・3ヶ月)に分け、いずれの日も15日つまり満月の日に設定しています。三元を司る3神を三官大帝といい龍王の3人の娘と人間の陳子椿とのあいだに生まれた、龍王の孫でその誕生日が三元として祝われるようになりました。三官大帝とは天地水を司る天官大帝、地官大帝、水官大帝で、それぞれ賜福(福を与える)赦罪(罪を赦す)解厄(厄を祓う)という役割があります。それぞれ堯(ぎょう)、舜(しゅん)、禹(う)という神話上の君主に化身します。道教や儒教については別の機会に譲りますが、今でも中国の風習や日本の風習に残っています。
上元は日本の小正月にあたり、中華圏では元宵節、元夕などとして色取々の灯籠を灯して夜祭を行います。この日に小豆粥を食べると、その年の疫が避けられるとされ、日本でも小正月に小豆粥を食べる地域があります。小豆の赤が難を逃れるという意味です。
中元は道教で人間贖罪の日として、一日中火を焚いて神を祝い、死者の罪を赦すことを願う日です。そして中国の仏教では中元に祖先の霊を供養する盂蘭盆会(うらぼんえ)を催します。ことで中元と盂蘭盆会は習合し一体化したわけです。この風習が日本に伝わり、日本でもこれがお盆の行事となりました。それが目上の人やお世話になった人に贈り物を風習へと発展したわけです。それにデパートなどの商戦がそれを煽ってきたわけです。明治の改暦によりお盆が8月15日に移動しました。あるいは今も旧暦の7月15日の所もあります。今ではお中元もお歳暮も形式的な贈り物という扱いになって、意味がわからなくなってきて次第に廃れつつあります。盂蘭盆会は目連尊者が餓鬼道に堕ちた亡母への供養をしたという仏教説話が元になっています。仏教僧の夏安居(げあんご=集団修行)が終わることを夏解(げげ)といい僧侶を癒すために施食を行い、父母や七世の父母の供養を行うことで延命長寿や餓鬼の苦しみから逃れるといった功徳が得られるとされています。祖先が子孫を守って下さるという意味があるわけです。
下元(かげん)は中華圏で先祖の霊を祀る行事だったのが物忌みを行い経典を読み、災厄を逃れるよう祈る日となりました。しかし日本にはその習慣は残らず、時期的に収穫への感謝となり十日夜(とおかんや)、亥の子(いのこ)という行事になっています。亥の子餅を作って食べ万病除去・子孫繁栄を祈るとか、子供たちが地区の家の前で地面を搗(つ)いて回る、などが風習が地方に残っているそうです。地面を搗くのは田の神を天に返すため、猪の多産にあやかる、と言い伝えられています。この日に炬燵開きをすると火災を逃れるとも言われています。無論電気こたつの話ではありません。

中元

江戸から東京へ

江戸から東京へ

慶応四年、江戸が東京になりました。これは1本の明治天皇の詔勅「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書(えどをしょうしてとうきょうとなすのしょうしょ)」によって決まりました。通称の「東京奠都の詔」という表現は、後年に至って用いられたものらしいです。内容は簡潔でwikipediaの現代語訳では以下のようになっています。
「私は、今政治に自ら裁決を下すこととなり、全ての民をいたわっている。江戸は東国で第一の大都市であり、四方から人や物が集まる場所である。当然、私自らその政治をみるべきである。よって、以後江戸を東京と称することとする。これは、私が国の東西を同一視するためである。国民はこの私の意向を心に留めて行動しなさい。」
東西を同一視というのであれば、それまでの京を西京とするのが合理的な気もします。そして現在のように西の京を京都というのも意味が二重で不合理です。京都という呼称は院政の時代に始まったそうですが、長く京だけでした。それが京都に復活したのは明治元年のことだそうです。
遷都というのは重大な事項のはずですが、意外に簡単にされたのですね。地名が変更されるのはしばしばありますが、首都となると数は少ないと思います。遷都として場所が移動し、その都度、その時の名前を付けて、藤原京とか福原京にしたり、験を担いで平安京などとした例もありました。それでも京という字はどこでも使われてきました。東京という命名はこれまでの慣例にない命名法であったわけです。江戸は地名でしたから江戸京でもよかったので、あえて東京とされたのには訳がありそうですが、東西を同一視するため、という説明ではよくわからない感じが残ります。都についてはさらに不可解で、首都の法的定義もないまま、今では首都圏のように一般化しています。明治以前にはなかった語彙で不思議な語彙です。東京も最初は江戸府であったものが東京府になり、やがて東京市ができて、それに三多摩を加えて東京都になったという経緯があります。京都府と大阪府はそのままで一都二府という制度になりました。近年、大阪都構想というのがあって成立はしませんでしたが、そうなると二都一府になったわけです。仮に京都が都構想をもったら京都都になるのでしょうか。語の構造からすると東京都というのは変則的です。明治天皇がどの程度未来を見通しておられたのか詔勅からは計り知れませんが、京(みやこ)は天皇がおられる場所という意味であれば東京と京都の並立は矛盾します。鎌倉幕府以来、場所の変遷はあっても江戸時代まで政治の中心である幕府と天皇の御所のある京は併存していました。幕府を開かなかった織田信長も豊臣秀吉も政府は京とは別にありました。京都御所は現在もありますが、天皇の皇居は東京のみです。せめて上皇様でもお住まいになれば実態もできるのですが、皇居近くにお住いのままです。皇族はすべて東京ですから東西併存でなくなりました。
文化の方は江戸から東京になり大きく変わりました。明治以降の都市改革は東京のみで、京都はほぼ昔のままで明らかに旧都ということで他の旧都と同じということになります。

東京

一汁三菜

一汁三菜

毎月13日は一汁三菜の日。夏はとくに栄養が偏りやすい時期なので、今月に話題として取り上げます。イチジュウサンの語呂合わせです。和食の基本なのですが、案外忘れられていると思われます。主食の御飯の他に汁物と主菜、副菜を2つという構成のことです。汁は味噌汁のことが多いと思いますが、とくに決まりはありません。主菜は伝統的には魚が多いですが、肉でもかまわないのです。副菜は煮物、酢の物が伝統的ですが、炒め物でもよいわけです。ポイントは炭水化物に偏りがちな食事を脂質やタンパク質、ビタミン、ミネラルををバランスよく摂取できる献立が必要ということです。梅干しやタクワン漬けなどの漬物はこの中に含まれていませんが、主食の添え物と考えるのがよいです。海苔やふりかけなども同じです。日本ではパン、麺類なども主食扱いです。欧米の食事の考えでは主食、副食という考えはなく、メインディッシュが肉類、サイドメニューとして、スープ、サラダ、温野菜、パンがあり、選択になっています。これは健康がどうのと言う前の文化の問題です。日本で肉食をしない人は宗教的理由が多いのですが、欧米の菜食主義は宗教ではなく思想の問題です。この辺りの問題をまず整理して理解してください。ちなみに欧米では、米は野菜なので、御飯も温野菜と同じ範疇に入ります。麺類も同様です。昔の中華思想ではすべてのものに陰と陽があり、陰の食べ物と陽の食べ物のバランスをとることが大切とされています。その流れが中華料理にも反映されています。
一汁三菜という形式は室町時代に礼法の1つとして発達し、江戸時代に本膳料理として完成されていったとされています。しかし本膳料理というのは武家や上級商人のみの食事であり、庶民には縁遠いものでしたが、明治時代になって祝言や仏事などで供されることがあり、作法がわからない人が困ったという笑い話や落語があります。庶民は一汁一采か主食のみ、という食生活でした。一方で洋食の到来とともに本膳料理は次第に減っていき、今日の料亭では二汁五菜、三汁七菜、さらには三汁十五菜という豪華なものだけが残っています。一汁三菜を出すのは定食屋さんくらいです。現在の家庭では洋食の混在もあって、和食でも一汁二菜が基本のようです。西洋あるいは中華のような大皿料理も増えてきて、何菜だかわからなくなってきています。一方でラーメンのように主食と副食の差がわからない食事が浸透し、偏食も増えて、食事が豊かになったのか、かえって貧しくなったのか、わからなくなってきています。またダイエットブームも偏食に拍車をかけるようになり、摂食障害も増えています。テレビでは相変わらずグルメレポートとか爆食、デカ盛りを煽り、時短料理と称する一品料理の紹介ばかりです。こうした食の混乱を避けるには、毎月13日に一汁三菜を思い出して、健康食について考えてみるのもよいのではないでしょうか。今や汁も主菜も副菜もインスタントやコンビニ、スーパーで簡単に手に入るので、昔のような苦労はありません。災害時のサバイバル食だけでなく、普段の食事も考えることが生活習慣病を減らすのに役立ちます。にわか管理栄養士にならず普通に過ごすことができます。

一汁三菜

ハイジの日

ハイジの日

8月12日はハイジの日だそうです。例の語呂合わせですが、ということは完全に日本だけということでもあります。アニメ「アルプスの少女ハイジ」は童話を原作とした日本製のアニメですが、海外でも放送されたため、スイス製またはドイツ製と思われていることもあるそうです。20年ほど前にスイスに行った時には現地の人は誰も知りませんでした。それは2019年までスイスでは放送されていなかったからだそうで、アルム地方を通過する観光バスの中で日本人ガイドがいる場合だけ「ここがハイジの村です」というアナウンスがありました。似たようなことがあり、「フランダースの犬」のラストシーンで有名なベルギ・アントワープのノートルダム大聖堂でも、今では多くの日本人が訪れる観光対象になっていますが、20年ほど前までは現場でこのアニメの話について聞いても誰も知りませんでした。そこでアニメの話をし「日本人がきっと来る」と教会の方に説明したところ、「確かに時々日本人が来て礼儀正しく見学した後、ネロとパトラッシュの亡くなった場所はどこか、と聞いて聖堂で涙しているのを目撃したので不思議に思っていました」という答えがありました。今ではモニュメントまであるそうです。当時の日本人のベルギー観光にはブリュッセルの小便小僧は世界的に有名で、ここを訪れてワッフルを食べたり、チョコレートを買うのは定番でしたが、アントワープまで行く観光は稀でした。
こうした「アニメの聖地巡礼」が今日本で流行っていて、子供の頃に日本製のアニメを見た外国人がたくさんやってきています。現在でも多くのアニメが世界で放送されているので、その影響力はすごいものがあります。日本の地方の小さな町の一部が聖地化して、現地の人々は訳も分からず突然観光客が増えて、慌てて商圏ができる、という状態になっています。そのブームに乗って、アニメとコラボする町おこしも増えてきました。
実は観光というのは元々そういうものです。昔はお伊勢参りや冨士講のような宗教行事とセットでしたが、近代になり学校で習った歴史や地理の勉強として修学旅行があって有名観光地に行くようになりました。年齢的にも初めての遠距離旅行だったわけです。テレビが普及して世界の観光地や日本の温泉などを紹介すると、今度は集団で海外旅行や国内旅行に行くようになりました。この傾向は今でも続いていますが、どちらかというと下火で個人旅行に替わりつつあります。テレビのステマ的観光番組以外にいろいろなガイドブックが出るようになったことが背景にあります。これらの共通点は日常生活にはない、ということです。観光の目的は非日常です。違う何かを経験したい、という好奇心が基本にあります。ディズニーランドが日本で流行るのは日本にないものばかりだからで、ヨーロッパであまり流行らないのはすぐに見られるものだからです。外国人観光客が日本の城とサムライやニンジャを見たがるのと同じ心理です。アニメの背景に描かれる街の風景は欧米人にとって非日常的なのです。日本人がハイジのアルプスに憧れるのも同じ心理で、このアニメは原作とはかなりかけ離れた創作であることも知らない人が多いのです。

スイス