牧氏事件

元久二年(1205)閏文月二十日、幕府内で完全に孤立無援になった北条時政と牧の方は出家し、鎌倉から追放され伊豆国の北条へ隠居させられることになった事件です。
時政はその後、二度と政界に復帰することなく建保三年(1215)、北条の地で死去。牧の方も夫の死後は娘を頼って上洛し、京都で余生を過ごしました。北条氏の第2代執権には義時が就任して北条氏は幕府内における地位を確固たるものとなりました。
その前の正治元年(1199)に源頼朝が死去した後、北条時政は有力御家人の梶原景時や頼家の外戚である比企能員一族を滅ぼして北条氏の地位を一段と高めてゆき、建仁三年(1203)二代将軍源頼家も廃して弟の源実朝を新将軍として擁立し自らは初代執権となりました。元久元年(1204)京の平賀朝雅邸で将軍実朝の妻坊門信清の娘(信子)を迎えるために上洛した御家人たちの歓迎の酒宴が行われ、その席で時政の後妻牧の方の娘婿である朝雅と時政の前妻の娘婿畠山重忠の嫡子重保との間で言い争いとなりました。周囲の取りなしで事は収まったものの、重保と共に上洛していた時政と牧の方の子政範が病で急死しました。
政範の埋葬と重保と朝雅の争いの報告が同時に鎌倉に届きます。元久二年(1205)重保と朝雅の対立を契機として、時政は畠山氏の討滅を計画します。このとき息子の北条義時は重忠とは義兄弟かつ友人関係であり、あまりに強引な畠山氏排斥を唱える父に対して反感を抱くようになります。しかし、父の命令に逆らえず武蔵二俣川にて畠山重忠一族を討ち滅ぼしました。人望のあった重忠を強攻策で殺したことは、時政と牧の方に対する反感を惹起することになりました。元久二年閏7月時政と牧の方は実朝を廃して、頼朝の猶子である平賀朝雅を新将軍として擁立しようとしました。政権を牛耳るためとはいえ、時政と牧の方のこのようなあまりにも強硬な策は一族の北条政子・北条義時らの反感を招きました。
政子・義時らは結城朝光や三浦義村、長沼宗政らを遣わして時政邸にいた実朝を義時邸に迎え入れ、時政側についていた御家人の大半も実朝を擁する政子・義時に味方したため、陰謀は完全に失敗します。時政本人は自らの外孫である実朝殺害には消極的で、その殺害に積極的だったのは牧の方であったとする説もあるそうです。そして翌二十日に時政と牧の方は鎌倉から追放されたわけです。時政が横暴であったことは確かですが、陰に妻の牧の方が糸を引いていたのも事実のようで、鎌倉幕府の正史「吾妻鏡」では北条の贔屓のため牧の方の陰謀を強調しているかもしれません。
鎌倉幕府は頼朝の死後、御家人たちの争いの連続でしたが、ついに内紛にまで発展していったわけです。この後、建暦三年(1213)北条義時を排除しようと企む泉親衡の謀反が露見。和田義盛の息子の義直、義重と甥の胤長が関係者として捕縛され、赦免を巡って北条氏と和田氏の関係は悪化、義盛は三浦一族の味方を得て打倒北条の決起をしますが、義村は直前で裏切って義時に密告、義時は義盛を破り和田氏は滅亡しました。そして三代将軍源実朝も頼家の子の公暁に暗殺されてしまいます。この暗殺の背景については諸説があるようです。

願成就院

お盆と盆踊り

お盆に行うので盆踊り、というのは当たり前のことですが、案外単なる夏祭りだと思っている人が多いです。世界のどこにでも歌と踊りがあるのは共通ですが、日本の盆踊りには歴史があります。起源は鎌倉時代の踊り念仏だそうで、一遍上人が開祖である時宗(じしゅう)で広がったようで、今でも藤沢の遊行寺(箱根駅伝の途中に有名な坂があります)では全国から踊り念仏の人々が集まってきます。念仏とはナムアミダブツであり、他の念仏宗同じく、念仏を唱えて極楽浄土を願いつつ踊るわけです。一遍上人は全国を遊行(ゆぎょう)し念仏宗を普及されたので、各地に少ないながら時宗の寺もあり、今も念仏踊りが伝承されているそうです。
室町時代になって、庶民に広がった念仏踊りが盂蘭盆会の風習をつながり、それが盆踊りの始まりといわれています。当時流行った風流拍子物(ふりゅうはやしもの)という派手で華美な意匠と合体して、太鼓と唄に合わせる盆踊りのスタイルが流行っていきます。風流(ふうりゅう)というと何かロマンチックな響きがありますが、当時は侘び・寂び(わびさび)と対極の派手であったわけで、フリュウとフウリュウでは意味が変わったことにも注意が必要です。その意味では阿波踊りやソーラン、郡上踊りなどはその流れを今も残しているといえます。時代が下るにつれ、だんだん派手さが増していき、江戸時代には幕府が規制を始めるようになりました。一方で風流踊りの方は阿国歌舞伎や浄瑠璃に取り入れられて芸能へと発達していきました。元は太鼓だけだったものが、琉球三味線から発展した三味線が入ることで、一層派手になっていきます。現在の沖縄のエイサーも江戸初期に琉球に渡った僧が盆踊りを伝えたのが発祥とされています。江戸時代には現在の形に近いお盆の風習も固まってきて、祖先の迎え火と送り火、精霊流しのような行事も広がりました。また農村部では盆踊りの夜に若い男女が集まって結婚相手選びをするようになり、出会いの場となる風習は戦前まで残っていました。しかし明治時代になると風紀を乱すということから取り締まりが厳しくなりました。それでも産業革命と共に新たな盆踊りが作られ、有名な「炭坑節」が広がります。昭和になると、同じような音頭もたくさん作られ、東京音頭もその1つです。大阪の河内音頭は長い歴史があり、江戸時代あるいはそれ以前の土着の音頭・民謡、浄瑠璃、祭文といった庶民の芸能と仏教の声明が、長い時間をかけて混ざり合い、改良されて成立したとされています。そしてそれが盆踊りとして盂蘭盆会、地蔵盆の時期に盆踊り歌として歌われてきました。さらに近代になって鉄砲節として一世を風靡し、ギターやキーボードまで取り入れて浪花節あるいは浪曲として発展していきました。現代ではおわら風の盆や郡上盆踊り、各地のエイサーコンテストなど観光の側面が強調されることで復活してきたといえます。
盆踊りは英語でBon DanceといいLAの二世週間のメインイベントですが、bonにはbon fireのようなニュアンスがあるため、偶然ですが、盆踊りの賑やかさとマッチしたようで、戦前の米国では人気があったようです。歌と踊りは万国共通の楽しみなのです。

盆踊り

中元

お中元として贈り物を送る人は多いのですが、その意味は意外に知られていません。中元とは昔の中国の道教の思想の1つ三元がもとになっています。三元というと今や三元豚とか麻雀の第三元しか思い浮かばないと思います。道教の三元とは上元、中元、下元のことで、それぞれ旧暦の1月15日、7月15日、10月15日になっています。三元の思想では三元は1年を3等分ではなく、2:1:1(6ヶ月・3ヶ月・3ヶ月)に分け、いずれの日も15日つまり満月の日に設定しています。三元を司る3神を三官大帝といい龍王の3人の娘と人間の陳子椿とのあいだに生まれた、龍王の孫でその誕生日が三元として祝われるようになりました。三官大帝とは天地水を司る天官大帝、地官大帝、水官大帝で、それぞれ賜福(福を与える)赦罪(罪を赦す)解厄(厄を祓う)という役割があります。それぞれ堯(ぎょう)、舜(しゅん)、禹(う)という神話上の君主に化身します。道教や儒教については別の機会に譲りますが、今でも中国の風習や日本の風習に残っています。
上元は日本の小正月にあたり、中華圏では元宵節、元夕などとして色取々の灯籠を灯して夜祭を行います。この日に小豆粥を食べると、その年の疫が避けられるとされ、日本でも小正月に小豆粥を食べる地域があります。小豆の赤が難を逃れるという意味です。
中元は道教で人間贖罪の日として、一日中火を焚いて神を祝い、死者の罪を赦すことを願う日です。そして中国の仏教では中元に祖先の霊を供養する盂蘭盆会(うらぼんえ)を催します。ことで中元と盂蘭盆会は習合し一体化したわけです。この風習が日本に伝わり、日本でもこれがお盆の行事となりました。それが目上の人やお世話になった人に贈り物を風習へと発展したわけです。それにデパートなどの商戦がそれを煽ってきたわけです。明治の改暦によりお盆が8月15日に移動しました。あるいは今も旧暦の7月15日の所もあります。今ではお中元もお歳暮も形式的な贈り物という扱いになって、意味がわからなくなってきて次第に廃れつつあります。盂蘭盆会は目連尊者が餓鬼道に堕ちた亡母への供養をしたという仏教説話が元になっています。仏教僧の夏安居(げあんご=集団修行)が終わることを夏解(げげ)といい僧侶を癒すために施食を行い、父母や七世の父母の供養を行うことで延命長寿や餓鬼の苦しみから逃れるといった功徳が得られるとされています。祖先が子孫を守って下さるという意味があるわけです。
下元(かげん)は中華圏で先祖の霊を祀る行事だったのが物忌みを行い経典を読み、災厄を逃れるよう祈る日となりました。しかし日本にはその習慣は残らず、時期的に収穫への感謝となり十日夜(とおかんや)、亥の子(いのこ)という行事になっています。亥の子餅を作って食べ万病除去・子孫繁栄を祈るとか、子供たちが地区の家の前で地面を搗(つ)いて回る、などが風習が地方に残っているそうです。地面を搗くのは田の神を天に返すため、猪の多産にあやかる、と言い伝えられています。この日に炬燵開きをすると火災を逃れるとも言われています。無論電気こたつの話ではありません。

中元

江戸から東京へ

慶応四年、江戸が東京になりました。これは1本の明治天皇の詔勅「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書(えどをしょうしてとうきょうとなすのしょうしょ)」によって決まりました。通称の「東京奠都の詔」という表現は、後年に至って用いられたものらしいです。内容は簡潔でwikipediaの現代語訳では以下のようになっています。
「私は、今政治に自ら裁決を下すこととなり、全ての民をいたわっている。江戸は東国で第一の大都市であり、四方から人や物が集まる場所である。当然、私自らその政治をみるべきである。よって、以後江戸を東京と称することとする。これは、私が国の東西を同一視するためである。国民はこの私の意向を心に留めて行動しなさい。」
東西を同一視というのであれば、それまでの京を西京とするのが合理的な気もします。そして現在のように西の京を京都というのも意味が二重で不合理です。京都という呼称は院政の時代に始まったそうですが、長く京だけでした。それが京都に復活したのは明治元年のことだそうです。
遷都というのは重大な事項のはずですが、意外に簡単にされたのですね。地名が変更されるのはしばしばありますが、首都となると数は少ないと思います。遷都として場所が移動し、その都度、その時の名前を付けて、藤原京とか福原京にしたり、験を担いで平安京などとした例もありました。それでも京という字はどこでも使われてきました。東京という命名はこれまでの慣例にない命名法であったわけです。江戸は地名でしたから江戸京でもよかったので、あえて東京とされたのには訳がありそうですが、東西を同一視するため、という説明ではよくわからない感じが残ります。都についてはさらに不可解で、首都の法的定義もないまま、今では首都圏のように一般化しています。明治以前にはなかった語彙で不思議な語彙です。東京も最初は江戸府であったものが東京府になり、やがて東京市ができて、それに三多摩を加えて東京都になったという経緯があります。京都府と大阪府はそのままで一都二府という制度になりました。近年、大阪都構想というのがあって成立はしませんでしたが、そうなると二都一府になったわけです。仮に京都が都構想をもったら京都都になるのでしょうか。語の構造からすると東京都というのは変則的です。明治天皇がどの程度未来を見通しておられたのか詔勅からは計り知れませんが、京(みやこ)は天皇がおられる場所という意味であれば東京と京都の並立は矛盾します。鎌倉幕府以来、場所の変遷はあっても江戸時代まで政治の中心である幕府と天皇の御所のある京は併存していました。幕府を開かなかった織田信長も豊臣秀吉も政府は京とは別にありました。京都御所は現在もありますが、天皇の皇居は東京のみです。せめて上皇様でもお住まいになれば実態もできるのですが、皇居近くにお住いのままです。皇族はすべて東京ですから東西併存でなくなりました。
文化の方は江戸から東京になり大きく変わりました。明治以降の都市改革は東京のみで、京都はほぼ昔のままで明らかに旧都ということで他の旧都と同じということになります。

東京

一汁三菜

毎月13日は一汁三菜の日。夏はとくに栄養が偏りやすい時期なので、今月に話題として取り上げます。イチジュウサンの語呂合わせです。和食の基本なのですが、案外忘れられていると思われます。主食の御飯の他に汁物と主菜、副菜を2つという構成のことです。汁は味噌汁のことが多いと思いますが、とくに決まりはありません。主菜は伝統的には魚が多いですが、肉でもかまわないのです。副菜は煮物、酢の物が伝統的ですが、炒め物でもよいわけです。ポイントは炭水化物に偏りがちな食事を脂質やタンパク質、ビタミン、ミネラルををバランスよく摂取できる献立が必要ということです。梅干しやタクワン漬けなどの漬物はこの中に含まれていませんが、主食の添え物と考えるのがよいです。海苔やふりかけなども同じです。日本ではパン、麺類なども主食扱いです。欧米の食事の考えでは主食、副食という考えはなく、メインディッシュが肉類、サイドメニューとして、スープ、サラダ、温野菜、パンがあり、選択になっています。これは健康がどうのと言う前の文化の問題です。日本で肉食をしない人は宗教的理由が多いのですが、欧米の菜食主義は宗教ではなく思想の問題です。この辺りの問題をまず整理して理解してください。ちなみに欧米では、米は野菜なので、御飯も温野菜と同じ範疇に入ります。麺類も同様です。昔の中華思想ではすべてのものに陰と陽があり、陰の食べ物と陽の食べ物のバランスをとることが大切とされています。その流れが中華料理にも反映されています。
一汁三菜という形式は室町時代に礼法の1つとして発達し、江戸時代に本膳料理として完成されていったとされています。しかし本膳料理というのは武家や上級商人のみの食事であり、庶民には縁遠いものでしたが、明治時代になって祝言や仏事などで供されることがあり、作法がわからない人が困ったという笑い話や落語があります。庶民は一汁一采か主食のみ、という食生活でした。一方で洋食の到来とともに本膳料理は次第に減っていき、今日の料亭では二汁五菜、三汁七菜、さらには三汁十五菜という豪華なものだけが残っています。一汁三菜を出すのは定食屋さんくらいです。現在の家庭では洋食の混在もあって、和食でも一汁二菜が基本のようです。西洋あるいは中華のような大皿料理も増えてきて、何菜だかわからなくなってきています。一方でラーメンのように主食と副食の差がわからない食事が浸透し、偏食も増えて、食事が豊かになったのか、かえって貧しくなったのか、わからなくなってきています。またダイエットブームも偏食に拍車をかけるようになり、摂食障害も増えています。テレビでは相変わらずグルメレポートとか爆食、デカ盛りを煽り、時短料理と称する一品料理の紹介ばかりです。こうした食の混乱を避けるには、毎月13日に一汁三菜を思い出して、健康食について考えてみるのもよいのではないでしょうか。今や汁も主菜も副菜もインスタントやコンビニ、スーパーで簡単に手に入るので、昔のような苦労はありません。災害時のサバイバル食だけでなく、普段の食事も考えることが生活習慣病を減らすのに役立ちます。にわか管理栄養士にならず普通に過ごすことができます。

一汁三菜

ハイジの日

8月12日はハイジの日だそうです。例の語呂合わせですが、ということは完全に日本だけということでもあります。アニメ「アルプスの少女ハイジ」は童話を原作とした日本製のアニメですが、海外でも放送されたため、スイス製またはドイツ製と思われていることもあるそうです。20年ほど前にスイスに行った時には現地の人は誰も知りませんでした。それは2019年までスイスでは放送されていなかったからだそうで、アルム地方を通過する観光バスの中で日本人ガイドがいる場合だけ「ここがハイジの村です」というアナウンスがありました。似たようなことがあり、「フランダースの犬」のラストシーンで有名なベルギ・アントワープのノートルダム大聖堂でも、今では多くの日本人が訪れる観光対象になっていますが、20年ほど前までは現場でこのアニメの話について聞いても誰も知りませんでした。そこでアニメの話をし「日本人がきっと来る」と教会の方に説明したところ、「確かに時々日本人が来て礼儀正しく見学した後、ネロとパトラッシュの亡くなった場所はどこか、と聞いて聖堂で涙しているのを目撃したので不思議に思っていました」という答えがありました。今ではモニュメントまであるそうです。当時の日本人のベルギー観光にはブリュッセルの小便小僧は世界的に有名で、ここを訪れてワッフルを食べたり、チョコレートを買うのは定番でしたが、アントワープまで行く観光は稀でした。
こうした「アニメの聖地巡礼」が今日本で流行っていて、子供の頃に日本製のアニメを見た外国人がたくさんやってきています。現在でも多くのアニメが世界で放送されているので、その影響力はすごいものがあります。日本の地方の小さな町の一部が聖地化して、現地の人々は訳も分からず突然観光客が増えて、慌てて商圏ができる、という状態になっています。そのブームに乗って、アニメとコラボする町おこしも増えてきました。
実は観光というのは元々そういうものです。昔はお伊勢参りや冨士講のような宗教行事とセットでしたが、近代になり学校で習った歴史や地理の勉強として修学旅行があって有名観光地に行くようになりました。年齢的にも初めての遠距離旅行だったわけです。テレビが普及して世界の観光地や日本の温泉などを紹介すると、今度は集団で海外旅行や国内旅行に行くようになりました。この傾向は今でも続いていますが、どちらかというと下火で個人旅行に替わりつつあります。テレビのステマ的観光番組以外にいろいろなガイドブックが出るようになったことが背景にあります。これらの共通点は日常生活にはない、ということです。観光の目的は非日常です。違う何かを経験したい、という好奇心が基本にあります。ディズニーランドが日本で流行るのは日本にないものばかりだからで、ヨーロッパであまり流行らないのはすぐに見られるものだからです。外国人観光客が日本の城とサムライやニンジャを見たがるのと同じ心理です。アニメの背景に描かれる街の風景は欧米人にとって非日常的なのです。日本人がハイジのアルプスに憧れるのも同じ心理で、このアニメは原作とはかなりかけ離れた創作であることも知らない人が多いのです。

スイス

生類憐みの令

貞享二年文月十四日、江戸幕府は生類憐み(しょうるいあわれみ)の令を出したというのが通説ですが、歴史学者の間では議論があるようです。というのも生類憐みの令というのは一連の政策だからです。一般には犬公方(いぬくぼう)という綽(あだ)名と共に、お犬様の話ばかりが強調され悪法という例によく出されます。では現代の動物愛護法とどこが異なるのか考えてみます。日本の動物愛護法は欧米のキリスト教的な動物観が背景にあります。キリスト教の基本は神は万物を創造されたのですが、その中で人間は神に似た存在として他の生物とは異なる存在であり、神が人間を慈しむように、人は動物を慈しみなさい、という教えです。それが間違いということではなく、仏教の教えの中で日本の仏教では、悉有仏性(しつうぶっしょう)といい、万物には仏性が宿っているので、万物を大切にしなさい、という教えになっています。この点はキリスト教とほぼ同じかもしれません。そして生命のあるものは輪廻転生(りんねてんしょう)として永遠に続くもので、人は動物(畜生ちくしょう)に生まれ変わることも、畜生から生まれ変わることもあり、人は仏(菩薩)にもなり、菩薩が人になることもある、という教えです。いわば動物と人と仏が一体になっている点が、神と人と生物を三層に分ける思想とは根本的に異なっています。キリスト教が階層構造になっているのに対し、仏教では螺旋構造になっているわけです。
生類憐みの令が発布される前から、動物を大切にする思想は古来からあり、命あるものを大切にする教えは仏教の伝来以降、日本で発達した日本仏教の根本でした。生類憐みの令も突然出現したものではなく、戦国時代が終わり平和な江戸時代になって、巻き狩りのような模擬戦闘訓練が減ってきても、鷹や犬を大切にする気風は残っていて、犬を殺すことを禁じている藩は多かったのです。それで犬を虐殺した罪で死罪になった例もありました。貞享元年(1684)会津藩から鷹を献上する必要がないという通達を受けたり、貞享二年には鉄砲を領主の許可なしに使用してはならない、つまり山野の鳥獣を勝手に殺すな、という法令が出たり、将軍の御成の際に犬や猫をつなぐ必要はないという法令が出たのが、いわゆるお犬様のことで、これをもって生類憐みの令の発布とされているわけです。貞享四年には、病気の牛馬を捨てることを禁じた法令が出され、この法令が生類憐みの令の最初であるという説が長い間定説化していた時代もありました。現代のようなペットブームと違い、当時の犬猫はほとんどが野良で、山野には鳥獣が多くいました。その分、被害もあり適宜間引いていたのですが、それを禁止したわけですが、一方で病気の蔓延や被害を減らすため、犬猫は一か所に集め、幕府から禄(予算)を回して世話役を付けて保護したので、現在の多頭飼いとは違い、保護センターと同じ発想でした。問題は強権的過ぎて刑罰が厳しすぎたことにあり、今風にいえば人権上の問題はありました。保護対象は捨て子や病人、高齢者、そして動物であり、今日の福祉の考えと同じです。冷静に概観すると悪法とまではいえないと思います。木を見て森をみない、ことにならないように改めて考えたいことです。

犬

後鳥羽上皇

承久三年文月十三日、後鳥羽上皇は隠岐の島に流され、承久の乱は終わります。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のクライマックスはどうやら承久の変のようですから、今のうちにさらっと歴史をおさらいしておきましょう。
ドラマでは後鳥羽天皇はいきなり登場しますが、史実では壇ノ浦で安徳天皇が入水する前に後白河法皇は安徳天皇の異母弟である4歳の尊成親王を即位させ後鳥羽天皇にしました。この時、神器である神鏡剣璽は安徳天皇と一緒に持ち出されているので、神器なき即位が行われました。安徳天皇在位のままの即位でしたから、寿永二年(1183)から平家滅亡の文治元年(1185)までの2年間は両帝の在位期間が重複していたことになります。剣は結局見つからず、平家都落ちの直前に伊勢神宮から後白河法皇に献上されていた剣を形代の剣として当面の間宝剣の代用とすることになり、建久九年(1198)の土御門天皇への譲位、承元四年(1210)の順徳天皇践祚にも用いられ、後鳥羽上皇はこの形代の剣を以後は正式に宝剣とみなすこととしました。この神器不揃は後鳥羽の引け目となっており、それを克服するためには強力な王権の存在を内外に示す必要があり、内外に対する強硬的な政治姿勢、ひいては承久の乱の遠因になったとする見方もあるほどです。
建久三年(1192)までは後白河法皇による院政が続いたのですが。後白河院の死後は関白九条兼実が朝廷を主導し兼実は源頼朝への征夷大将軍の授与を実現したが、後に頼朝の娘の入内問題から関係が疎遠となってしまいます。建久九年(1198)土御門天皇に譲位、土御門、順徳、仲恭と承久三年まで、三代23年間に亘り太上天皇として院政を敷き、上皇になると院政機構改革を行うなどの積極的な政策を採る一方で、正治元年(1199)の頼朝死後も鎌倉幕府に対しては融和的な姿勢で応じます。建仁二年(1202)に九条兼実が出家、土御門通親が急死して、既に後白河法皇も頼朝も死去していたので、後鳥羽上皇が名実ともに治天の君となったのです。承久三年(1221)皐月、後鳥羽上皇は執権北条義時追討の院宣を出し、山田重忠ら有力御家人を動員して畿内の兵を召集して承久の乱を起こします。しかし宇田川の戦いで幕府軍に完敗。わずか2か月文月九日、大軍を率いて上京した義時の嫡男泰時によって、後鳥羽上皇は隠岐島に配流されてしまいました。父後鳥羽上皇に協力した順徳上皇は佐渡島に流され、関与しなかった土御門上皇も自ら望んで土佐国に行きました。これら三上皇のほかに、院の皇子雅成親王は但馬国へ、頼仁親王は備前国にそれぞれ配流されました。在位わずか3か月足らずの懐成親王(仲恭天皇、当時4歳)も廃され、替わって後鳥羽の異母兄の行助入道親王(守貞親王)の子である茂仁王が皇位に即き(後堀河天皇)、行助入道親王が法皇として治天として院政を執ることになりました(後高倉院)。これ以降、北条義時の力はさらに強くなり、後鳥羽上皇の味方をした武士の荘園も取りあげ、東国の御家人を配置しました。承久の乱以前には影響を与えることができなかった西国の荘園も鎌倉幕府の配下に治めることに成功したのです。その後、北条義時の子北条泰時により御成敗式目という日本初の武家法も制定され鎌倉幕府全盛と成りました。

後鳥羽上皇

はりきゅうマッサージ

八月九日は語呂合わせでハリキュウの日だそうです。ちなみに鍼灸(しんきゅう)の日は4月9日で似たような日が年に2度あるのです。こちらは日本鍼灸協会が2017年の制定とか。ハリキュウの日は全日本鍼灸(しんきゅう)マッサージ師会が2003年(平成15年)に制定したのだそうですから、こちらの方が古いようです。全日本と日本になっているので、どのギョーカイにもある分断というか、別行動というか、相克があるようです。
それはともかく鍼灸は東洋では一般的な治療法で病院でも採用していますが、欧米では少しあるものも特殊医療扱いです。薬でも漢方がいまだ浸透しており、技術というより文化になっています。英語ではAcupuncture and Moxibustionといい、moxaというのは日本語のモグサが語源になっていますから、日本のお灸が欧米に伝わったのだと想像できます。今では鍼灸は代替医療とか補完という医療の補助的な役割になっていますが、それでも医療保険の対象になっていますから、正式な医療行為ということになっています。同じ針を身体に刺す行為ですが、注射は医師または医師の指示がないと他人ができないことが医師法で定められています。しかし法律的には、鍼灸の針は細いからかどうかわかりませんが、別扱いになっていて、昭和二十二年法律第二百十七号の「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律」第一条に「医師以外の者で、あん摩、マツサージ若しくは指圧、はり又はきゆうを業としようとする者は、それぞれ、あん摩マツサージ指圧師免許、はり師免許又はきゆう師免許(以下免許という。)を受けなければならない。」と医師法の除外規定になっています。それでハリ師もキュウ師も国家資格になっています。この規定だと医師はどちらもできるようにも読める曖昧な法律でもあります。ハリ師もキュウ師も本来は別の資格なので鍼灸師という資格はないのですが、一般には両方施術することが多いので鍼灸と呼ばれています。似たような行為で、あんま、マッサージ、指圧、整骨、整体、エステなど日本では手軽な療法として広がっています。このうち、あん摩マツサージ指圧師は国家試験になっています。理学療法士も国家資格です。それ以外は民間資格で基本的には無資格でも施術できます。そうでないとおじいさんが孫に肩たたきしてもらうこともできません。
歴史的には生薬方を用いる医師(漢方医)と鍼灸を用いる鍼灸医は昔から分業化しており、江戸時代に幕府の政策として「按摩」を盲人の専業とし鍼灸も時を経ずして盲人の職業となりました。
盲人が鍼灸を担うというのはかなり特殊で日本の鍼灸は非常に特異的です。明治の西欧医学導入に漢方医はスムーズに西欧医に移行できたものの、鍼灸医は当時の西欧医学には対応する技法がなかったため医療職からは除外され、盲人の職業保護の名目で、慰安業として鍼灸按摩の資格と盲学校が残されました。盲人には音曲の道もあり八橋検校のような筝曲の名手や流しの三味線引きなど昔から職業保証がありました。しかし近年盲学校の減少もあって、鍼灸の担い手が減り、現在では鍼灸師や音曲師はほとんど晴眼者になっています。

鍼灸

八八

八月八日は語呂合わせしやすいので、いろいろな記念日あるだろうと思って調べてみました。
母の日は5月なのでまさかと思ったら、ババの日でおばあさんの日だそうです。敬老の日もあるのにと思ったら、2月2日をジジの日にするのだとか。よくわかりません。誰が提案したのかと思ったら伊藤忠食品株式会社だそうで、どういう意味があるのでしょうね。
歯が並ぶので歯並びの日。これは日本臨床矯正歯科医会の提案。これはわかりやすいです。
葉っぱの日というのもあって、野菜不足を手軽に補うことのできる青汁を毎日飲んで、健康で快適な生活を送ってもらうことが目的だそうで、ヤクルトヘルスフーズ株式会社の提案。
麹の日というのはちょっとひねってあって、古くから食べられてきた味噌や醤油などの発酵食品の原料となる「麹(こうじ)」を、より広めることが目的で、「麹」の文字の中に「米」の字があり、「米」の字を分解すると「八十八」になることから、「8」を重ねた8月8日になったそうです。ハナマルキ株式会社の提案。
白玉の日というのもあります。白玉を積み上げると「8」の字に見えること、また、「八」が重なると「米」という字になることからで、麹の日と似ています。米粉を使った白玉を通じて穀類を見直してもらいたいとのことで、全国穀類工業協同組合の提案。
そろばんの日はわかりやすく、パチパチという音から。
鍵盤の日というのはピアノの鍵盤は88鍵あることからだそうですが、昔のピアノは54鍵で、作曲家の希望でだんだん増えて行って現在の形になったそうです。そういえば鍵盤の両端はあまり使いませんね。また最近のキーボードは2段のものもあって、さらに音域やら音色が増えています。ちなみにピアノの日は7月6日で別にあります。ドイツの医師シーボルトが日本に初めてピアノを持ち込んだのを記念しているそうです。
洋食の日というのもあって、何か起源なのかと思ったら、洋食の代表的な料理のひとつ「ハ(8)ヤ(8)シライス」から来ているそうです。ビーフシチュー・ハンバーグなどの洋食文化をアピールする日だそうです。トンカツやオムライスは語呂合わせがむずかしかったのでしょう。
発酵食品の日は「はっ(8)こう」(発酵)と読む語呂合わせと、漢字の「八」は末広がりで無限の可能性があることから。古くから人々の食生活に大いに役立ってきたチーズや納豆などの発酵食品。原材料の保存・味覚・栄養などですぐれた食品である発酵食品の大切さをPRする日だそうで、万田発酵株式会社の提案。
まだありますよ。プチプチ(正式には気泡緩衝材)の日だそうで、8が「プチプチ」の粒々の配列を連想させることと、「8」を「パチ」と読むと「プチ」と似ていることから、というのは強引な気もします。
タコの日、パチンコの日、ヒョウタンの日、デブの日、笑いの日、もう書ききれません。

おばあさん