破防法と公安調査庁

破防法と公安調査庁

1952年7月21日、破壊活動防止法が公布され、公安調査庁が設置されました。映画やドラマでは時々、公安調査庁がでてきますが、普段、活動を目にすることはありませんし、警視庁公安部と誤認されることも多く、似たような組織として内閣情報調査室もあって、正しく理解されていることは少ないです。こういう情報機関をインテリジェンスといい、007のジェームス・ボンドの映画のせいもあって、スパイの世界との混同もあります。
破壊活動防止法は「暴力主義的破壊活動を行う恐れのある団体に対する規制措置を定め、また、その活動に関する刑罰規定を補正した法律である。」と規定されています。戦後まもなくこうした法律が制定された背景には1952年5月1日の「血のメーデー事件」と呼ばれるデモ隊と警察が衝突し、死者がでた事件がありました。今テレビニュースでみる外国の暴動事件と同じことが日本でもあったのです。
1952年4月28日日本はサンフランシスコ条約により米軍の占領から解放され独立できたのですが、その直後にこの事件が起きました。原因は警察予備隊という再軍備に反対する全学連や労働者が皇居前広場に集合し、警察の警備に対し投石や竹槍や棍棒などで抵抗し、自動車をひっくり返して放火するなどの暴動になりました。デモ隊は皇居前広場を人民広場と称するなど暴力革命運動の一環とみなされるようになり、そうした左翼団体の行動を規制するために破壊活動防止法が公布され、その具体的な活動をするために公安調査庁が設置されました。この機関は法務省の下部組織で歴代の長官は検察官がなる慣習です。しかし司法権限はなく捜査や逮捕などはできず、もっぱら情報収集のみの活動に制限されています。警視庁公安部は司法警察なので逮捕も捜査もできます。内閣調査室は内閣府の下部組織でアメリカ合衆国中央情報局(CIA)・イギリス秘密情報部(SIS)などの外国政府の情報機関との公式なカウンターパートです。情報機関は国ごとに仕組みが違うので比較はなかなか難しいのですが、米国司法省が日本の法務省に該当するとすれば、公安調査庁は米国連邦捜査局FBIにあたるのですが、米国司法省には麻薬取締局や連邦保安局もあり、日本の麻薬取締局は厚生労働省の下部組織なので、必ずしも一致しません。保安局というのは保安官制度という米国独特の警察制度でmarshalといい、植民地時代に町が雇った警察官の制度を継承していますが、その連邦版です。米国は検事も地方検事制度と連邦検事が異なり、裁判制度も州裁判所と連邦裁判所が異なり、日本のような国家警察、国家検察、国家裁判所とはまったく異なるので、なかなか理解が難しいです。
公安活動はどこの国でも警察と軍と政府が別々に動きます。日本にも自衛隊の情報組織はありますが、外国に比べると弱く、インテリジェンスの中心は警察、法務省、内閣府、厚生労働省、外務省とバラバラで、そもそも海上保安庁が国土交通省所管で軍ではないところがかなり独特です。
公安調査庁が扱った事案でもっとも有名なのがオウム真理教事件です。公安調査庁はオウム真理教に対して解散を目的とした団体活動規制処罰の適用による処分請求を行いましたが公安審査委員会は「将来の危険」という基準を満たさないと判断し適用は見送りました。公安審査委員会は弁護士と裁判官から構成されていますが、裁判所ではありません。公安事案は政治的にデリケートな判断が必要であり、司法制度の外にあるので、なかなか報道されることもなく、闇が深いこともあります。

デモ

夏土用、そして畠山の乱

夏土用、そして畠山の乱

水無月二十二日は夏土用の入りです。令和4年の夏土用は7月20日から8月6日までです。土用は季節の変わり目で、年4回あるのですが、鰻との関係か、夏土用が一番よく知られています。その土用丑の日は7月23日になります。今の時期に夏土用が季節の変わり目というと、これから本格的な夏、という感じになるかもしれませんが、太陽太陰暦でいう季節では夏土用は夏から秋への変り目ということになります。土用の頃には海の波も高くなり、これを土用波といい、海水浴には注意しなさい、ということを昔はよく言ったそうですが、今ではこれから夏休みなので海水浴はむしろ盛んになってしまいます。クラゲもたくさん出てくるので、本来は避けた方がいいのですが、現代は学校の暦が中心に生活が動くので、自然との調和が難しくなってきて、その分、事故も増えています。自然に合わせて生活した中で得た経験則は大切です。
土用丑の日の鰻も本来、この時期の鰻は脂が落ちておいしくないため、江戸時代までは鰻がうれなくて「鰻屋が困る時期」だったわけです。そこで平賀源内先生が一大CMを考案し、当時は夏に暑さで疲れた身体の疲労回復のために、柿の葉の薬草風呂やお灸をしていたことに目を付けて、栄養のある鰻を食べようというキャッチコピーを鰻屋の前に貼るようにしたら、すごく売れた、という有名なエピソードがあります。夏土用に「う」のつく食べ物を食べるとよい、という言い伝えも一役買ったのです。本当に鰻のおいしいのは冬ですが、今では冬に鰻を食べる人は少ないので、冬に獲った鰻を冷凍しておいて夏に出荷するのが当たり前になってしまいました。鰻だけでなく現代の日本は季節を外した方が高く売れるため、果物や野菜もビニールハウス栽培して時期をずらしています。典型的なのが、暮れがシーズンになっている苺です。季節感よりは価格重視になっていますが、そのためには石油などのエネルギーが大量に使われているわけですが、エネルギーと肥料を外国からの輸入に頼っているので、何かあれば一気に生産できなくなるリスクがあります。稲作のように台風被害を避けるため収穫時期をずらせるように早生種に転換しているのは知恵と言えますが、価格重視のための季節ずらしはいずれ崩壊のリスクがあると懸念しています。欧米では今でも野菜や果物には季節性があり、日本産のような甘さはないですが、価格も安く季節感があります。高くなった鰻を食べながら、なぜ高いのか考えてみるのもいいですね。

元久二年(1205)のこの日、北条時政は鎌倉殿の13人の一人、畠山重忠を討ちました。畠山重忠(NHKドラマでは中川大志)は治承・寿永の乱で活躍して頼朝に認められ、知勇兼備の武将として幕府創業以来の功臣として重きをなし、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」とも称されました。しかし、頼朝の没後に実権を握った執権北条時政の謀略によって謀反の疑いをかけられて一族もろとも討たれてしまいました。これを畠山重忠の乱といいます。元久元年(1204)重忠の息子の重保が北条時政の後妻牧の方(りく)の娘婿である平賀朝雅と酒席で争います。牧の方はこれを恨みに思い、時政に重忠を討つよう求め、稲毛重成(時政の娘婿)が重忠謀反を訴え将軍実朝は重忠討伐を命じました。後に重忠謀反を訴えた稲毛重成も殺害され、人望のあった重忠を殺したことで時政と牧の方は御家人たちから憎しみを受け、時政と牧の方は失脚して伊豆国へ追放され平賀朝雅は殺されてしまいます。そして義時の時代になります。

土用

正倉院と廬舎那仏

正倉院と廬舎那仏

天平勝宝(てんぴょうしょうほう)8歳(756)水無月二十一日、聖武天皇の遺品が東大寺蘆舎那仏に献納され、後にこれを収納する為の正倉院が建立されました。聖武天皇は大変な人生を送られた方で、文武天皇の第一皇子として生まれ、7歳で父と死別、母が心的障害に陥り、やがて病気が平癒した母との対面を果たしたのは37歳の時でした。こうした事情のため、父方の祖母である元明天皇(天智天皇皇女)が中継ぎの天皇として即位しました。やがて元服が行われ立太子されるも、病弱であったこと、皇親勢力と外戚である藤原氏との対立もあり、即位は先延ばしにされ、伯母(文武天皇の姉)が元正天皇として「中継ぎの中継ぎ」として皇位を継ぐことになります。24歳の時に元正天皇より皇位を譲られてようやく即位することになりました。
聖武天皇治世の初期は皇親勢力を代表する長屋王が政権を担当していました。藤原氏は光明子(父:藤原不比等)の立后を願っていたのですが、皇后は夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即位する可能性があるため皇族しか立后されないのが当時の慣習であったことから、長屋王は光明子の立后に反対していました。ところが長屋王の変が起き、長屋王は自害、光明子は非皇族として初めて立后されました。長屋王の変は光明子を皇后にするために不比等の息子の藤原四兄弟が仕組んだものともいわれています。聖武天皇の後宮には他に4人の夫人がいて、光明皇后を含めた5人全員が藤原の縁者でした。天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13年(741)には国分寺建立の詔を、天平15年には東大寺盧舎那仏像の造立の詔を出しました。加えて度々遷都を行うことで災いから脱却しようとしたのですが反発が強く、最終的には平城京に復帰しました。その間、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなり、国政は橘諸兄(光明皇后の異父兄)が執り仕切ました。その頃は、耕されない荒れ地が多いため、天平15年(743)に墾田永年私財法を制定したのですが、反面、これは律令制の根幹が崩れていく原因となりました。
天平勝宝元年(749)娘の阿倍内親王に譲位し孝謙天皇となりました。これが譲位して太上天皇となった初の男性天皇となりました。この時代は譲位も頻繁で、多くの女性天皇が出現したわけです。
天平勝宝4年(752)、東大寺大仏(廬舎那仏)の開眼法要を行いました。天平勝宝6年(754)には唐から鑑真が来日し、皇后や天皇とともに会いました。鑑真は律宗の開祖で唐招提寺を建立しました。遣唐使は日本から唐に学びに行くことですが、鑑真はすでに高僧であったのに苦労して日本に到着し、日本に戒律の教えを伝えたわけです。鑑真は大宰府観世音寺の戒壇院で日本初の授戒を行い、翌年には平城京に到着して聖武上皇の歓待を受け孝謙天皇の勅により東大寺大仏殿に戒壇を築き上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けました。常設の東大寺戒壇院が建立され、大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が全国に急速に整備されていきました。鑑真は天台宗関係の仏典を日本へ数多く伝えており、戒律の伝承というよりも、むしろ天台宗を伝えたことに意義があるという人もいます。この時代に日本の仏教が大きく変わったといえます。聖武の七七忌に際し光明皇后は東大寺盧舎那仏に聖武遺愛の品を追善供養のため奉献しその一部は正倉院に残されています。正倉院御物は日本の宝であり外国に接収されなかったのは幸運でした。

正倉院

海の日

海の日

7月18日は海の日です。国土交通省の実施要領によれば「平成8年、海の恩恵に感謝するとともに海洋国日本の繁栄を願う日として「海の日」が祝日となりました。世界の国々の中で「海の日」を国民の祝日としている国は唯一日本だけです。」だそうですから、国民にイマイチ意味がよくわからないのも無理はないです。2021年は東京オリンピックの開会式の予定日の前日の7月22日(木曜日)に変更されました。しかし決定がカレンダーの作成に間に合わなかったので、本来の海の日である7月19日は「赤い平日」となったことで混乱しました。そもそも制定当初は7月20日であったのが、2003年に改正された祝日法のハッピーマンデー制度により7月の第3月曜日となったという経緯があります。日本の祝日は何のためにあるのか、だんだん意義が薄れてきてしまいました。ハッピーマンデーのおかげで月曜日休みだけが増え学校は困りました。ハッピーなのは誰なのでしょうか。連休を作ることで観光地を潤すための政策なのでしょうか。休暇を増やしたいならば、欧米のように自由に休暇が取れる制度を普及させることが先ではないでしょうか。
調べてみると、海の日の根拠は、海の記念日で、明治9年(1876)に明治天皇が東北地方に巡幸した際、従来の軍艦ではなく灯台視察船「明治丸」で航海し、7月20日に横浜港に入港して横浜御用邸伊勢山離宮へ還幸した史実から、昭和16年(1941)に逓信大臣の村田省蔵が提唱して制定されたことだそうです。それならそれで海の記念日のままでよかったような気もします。灯台視察船というのは初めて見ました。明治丸は明治丸は灯台巡視船として日本政府がイギリスに発注し、天皇の乗る御召し船や練習船としても使用され国の重要文化財に指定されている、そうです。今でも現在は東京海洋大学越中島キャンパスに保存されているそうなので、一度見に行きたいと思います。「当時の日本国内における最優秀船であったため、通常の灯台見回り業務の他にも様々な活動を行い、日本の近現代史に業績を残している。(wikipedia)」ということであればもっと重要視して紹介すべきです。画像が公開されています。https://ja.wikipedia.org/wiki/明治丸#/media/ファイル:満艦飾の明治丸.JPG
2本マストの優美な船体で満帆であればさらに美しいと思います。満艦飾というのは祝祭日の行事などの時、船首から船尾をいろいろな旗で飾ることで、世界のどの海軍でも行う海軍礼式の1つで現在も行われています。
海の日は海の大切さを考える祝日ですから、海運のことだけでなく、今日的には海洋汚染の問題とか、領海問題も含めて、また津波や高潮の被害など、広く考える話題が多いはずですが、たんなる休日になってしまっているのは残念なことです。
日本の国土の広さは世界60位ですが、領海とEEZを合わせた海の広さは世界6位という海洋国家です。近年は海底資源の発見も多く資源国家になれる可能性も高いので、漁業だけでなく、天然資源を輸入に頼る現在の在り方を考え直す機会でもあります。海は地球の7割を占めています。北半球では陸地の割合が多いのですが、それでも6割が海です。また輸送の多くが海運に頼っています。遣隋使による海外貿易から、沿岸を航行する北前船、江戸の河川の猪牙舟(ちょきぶね)や伝馬船など、日本は古来造船技術が高い国だったのが、だんだん造船工業も減ってきてしまいました。それでも深海探査船とか船外エンジンなどは今でも世界有数の技術です。

海の日

日米修好通商条約と捕鯨

日米修好通商条約と捕鯨

安政5年(1858)水無月19日、日米修好通商条約Treaty of Amity and Commerce Between the United States and the Empire of Japanが日本とアメリカの間で結ばれました。先の琉米修好条約がConvention 出会ったのに対し、Treatyとなっている点に注目してほしいところです。日本語訳はどちらも条約としていますが、微妙なニュアンスの違いがあります。会議場をconventional center というようにconventionは会議の意味で、当事者が集まって合議し、合意して批准することをいいます。それに対しtreatyは国家間の取り決めのことです。例としてラムサール条約はconventionですがベルサイユ条約はtreatyです。英名にamityが入っていますが、親善とか友好という意味です。また英名では日本をempireとしており日本帝国としています。外交関係ではよくこうした言語の違いから来るニュアンスが問題になることがあります。
ところで日米修好通商条約ではcommerceつまり商業が入っていますが、これは関税の協定のことで、今日では不平等条約であったというのが定説ですが、この条約では関税自主権がありました。後の改定で奪われてしまいました。
日米修好通商条約は先に嘉永7年(1854)に結ばれた日米和親条約との違いに注目すべきです。この段階で米国が求めていたのは、当時の蒸気船は十分な燃料を積み込むことはできず補給のための寄港地として日本の港が必要でした。水や生野菜や肉類などの食料や薪の補給が必要であり、とくに北太平洋での鯨油を目的とした捕鯨を行う上で、国交がない状態では漂着した自国の捕鯨船員の引渡しも難しかったのです。それで、和親条約の前から、江戸幕府は異国船打払令から薪水給与令に改めたり、外国船が日本に寄港を望む場合には必要な食料や薪水を与え、速やかに退散させるように努めること、ただし上陸させるなといった対応をしていました。江戸幕府は米国の圧力に屈してやむなく開国に向かうのですが、米側の開港目的は捕鯨にあったわけです。日本でも伝統的に鯨漁があり、それは食用目的でしたが、米国の捕鯨は鯨油であり、肉は捨てていました。日本に寄港して水と薪を出せというのはそれほど大したことではなかったでしょうが、当時の日本は食肉文化がないので、肉集めに相当苦労したようです。牛は農耕に必要なので差し出せば農業ができなくなります。やむなく鶏などを差し出したようです。欧米人は猪や狸は食べませんから、肉といってもかなり偏っています。日本人からすると新鮮な肉は魚とか鯨でいいのに、と思います。
当時、鯨油が必要だった理由は機械の潤滑油として最適だったからで、産業革命以後、欧米は北大西洋の鯨を採り尽くし、太平洋まで進出してきました。そして日本近海まで鯨を追ってやってきたので、どうしても補給基地が必要で琉球や日本に開港を迫ったわけです。しかし英国がアヘン戦争以後、東アジア進出を目指し、フランスまで出てくる事態をみた米国はいざとなれば、米国が英国やフランスとの仲介に入ると約束して条約を結ばせました。その交渉人がタウンゼンド・ハリスです。ある意味、これが日米安全保障条約の最初という見方もできます。潤滑油はその後、石油系の物が普及し鯨油は不要になり捕鯨も中止されました。米国東部には捕鯨時代の歴史を示す博物館がいくつもあります。ペリー艦隊の旗艦パウハタン号のパウハタンというのはディズニーで有名になったポカホンタスの父親の名前で米国史上では勇者として有名ですが、日本では知られていないせいか、歴史関係の記述でもその解説はありません。

ハリス

足高の制と大岡越前

足高の制と大岡越前

享保8年(1723年)6月18日江戸幕府8代将軍・徳川吉宗が足高の制(たしだかのせい)を施行しました。江戸幕府では各役職には各々禄高の基準を設けられていました。たとえば大目付・町奉行・勘定奉行は3千石となっていました。それ以下の禄高の者が就任する際に、在職中のみ不足している役料(石高)を補う制度が「足高の制」です。八百石の旗本が基準高3千石の町奉行に就任した場合は、在職期間中に限って幕府から不足分として2千2百石が支給されるという制度です。今でいう職能給のようなものです。これは能力や素質があるが家柄が低いために要職に就けないといった旧来の不都合を解消し、良質の人材を登用することがその目的でした。実際にはそれ以前にも有能な者は加増をして高位に取り立てることは行われいましたが、一方ではそれが幕府財政窮乏の一因ともなっていました。吉宗の改革の1つです。
足高の制によって、役職を退任すれば石高は旧来の額に戻るため、幕府の財政的な負担が軽減できるというのが最大の利点であったはずですが、現実には完全施行は難しかったようで、家格以上の役職に就任した者が退任するにあたって世襲家禄を加増される例が多かったのは、やはりそれでは不満が残るからです。この制度のきっかけは吉宗政権で政治顧問的待遇であった酒井忠挙が、京都所司代の松平信庸が自らの領地からの収入だけでは任務に支障が生じていることを見て、吉宗に「重職役料下賜」を提言したことだそうです。
足高の制により要職に登用された人物として大岡忠相がいます。大岡忠相は1700石の旗本の家に生まれ、無役から書院番、目付と出世し、伊勢の山田奉行となり、奉行支配の幕領と紀州徳川家領の間での係争がしばしば発生してのを前例に従わずに公正に裁いたことを当時の紀州藩主で後に将軍職に就任した吉宗が忠相を江戸町奉行に抜擢しました。吉宗の期待通り大岡は公正な裁判と火消しの創設など江戸の町の治安に貢献しました。落語や講談で有名な大岡政談はほとんどが別の人の話や創作なのですが、映画やドラマによってよく知られるようになりました。最後の部分はドラマ化されませんが、江戸町奉行のあとはより高位の寺社奉行となり、
公事方御定書の追加改定や御触書の編纂に関わりました。寺社奉行時代に2,000石を加増され5,920石となり足高分を加え1万石の大名格となりましたが、寺社奉行は、本来は大名の役職で大岡は旗本の身分のままでしたから相当いじめられたそうです。吉宗の死去後、葬儀の手配をし、直後に体調を崩して亡くなっています。正に吉宗に仕えた一生だったわけです。ちなみに大岡忠相は大岡越前守として話に出てくるのですが、越前守というのは名称に過ぎず、領地は三河国の宝飯(ほい)・渥美(あつみ)・額田(ぬかた)の三郡です。墓地は大岡家代々の墓がある神奈川県茅ケ崎と東京都台東区谷中にありますが、茅ケ崎の方が有名です。
足高の制は人材登用の方法としては画期的で合理的です。とくに家柄の世襲で禄高が決まっている社会では有効に機能したでしょう。現代の役人の世界でも俸給は決まっており位階が上がるごとに昇級する制度で、年功序列制度が続いていますから、若い優秀な人材は民間に出てしまう傾向にあります。一方で国会議員は大臣などの役職に就くと足高になります。しかし大臣などになると議員としての活動はしないわけですから、本来は役職の俸給を上げて議員としての俸給はなくすなどの対応するのが合理的ですが、都合の良い制度はなかなか改正されないままです。

南町奉行所

琉米修好通商条約

琉米修好通商条約

琉米修好条約(りゅうべいしゅうこうじょうやく)Convention between the LewChew Islands and the United States of Americaとは、1854年7月11日(咸豊4年・嘉永7年6月17日)に琉球王国とアメリカ合衆国が締結した条約(Wikipedia)です。1858年に日米修好通商条約が結ばれることになる前哨戦なのですが、日本史で習うことは稀だと思います。当時の琉球が幕府管轄ではなかったことを示しています。長いですがwikidiaの記述をそのまま下記に引用します。
1853年5月26日(咸豊3年・嘉永6年4月19日)、マシュー・ペリーがサスケハナ号他3隻を率いて初めて那覇港に来航、5月28日(4月21日)にペリーは総理官摩文仁按司尚大模と初めて会見。6月6日(4月30日)首里城を訪問、首里城北殿にて総理官などと会見(この責任を取って尚大模は総理官を辞任している)。さらに6月8日(5月2日)にペリーは国王等に品物を贈り、6月9日(5月3日)ペリーはミシシッピ号を残して小笠原諸島に出航した。6月18日(5月12日)小笠原諸島から那覇に帰港したペリーは艦隊への資材の供給を終えると7月2日(5月26日)サプライ号を那覇港に残して軍艦4隻を率いて浦賀に向けて出航した(このとき浦賀に向かった4隻とは別にキプライス号は上海に向かった)。その後、7月25日(6月20日)大統領の親書を江戸幕府に渡したペリーは浦賀から帰港、資材の供給し、琉球側に聖現寺の一年間の賃貸及びその協定、約5、600トンの炭を貯蔵できる施設の建設及びその施設の妥当な金額での貸与、偵吏の追跡を禁止、市場を設け交易を自由とすることの4か条の要求しこれを承諾させ8月1日(6月27日)香港に向けて出航した。1854年1月21日(咸豊3年・嘉永6年12月23日)、ペリーが軍艦3隻を率いて来航し、再度首里城を訪問、資材等を供給し、2月7日(1月14日)江戸に向かって出航した。7月1日(咸豊4年・嘉永7年6月7日)ペリーは、日本と日米和親条約締結後、来航。7月7日(6月13日)に琉球との条約締結に向けた本格的な交渉が始まり、翌日協議が開かれ条約案に修正加えられ、条約に関する琉球側の回答の期限を明後日の7月10日(6月16日)とした。7月10日(6月16日)に再度協議、条約修正案を承認、琉球側は条約を承諾すると答え、明日調印することが決まると7月11日(6月17日)にペリーと尚宏勲らが調印、漢文(琉球王国の外交上の文書は漢文)と英語ともに2通作成、交換した。さらに、7月13日(6月19日)にはもう一通作成している。なお、ペリーは、琉球が武力で抵抗した場合には占領することをミラード・フィルモア大統領から許可されていた。
ペリーは浦賀に来る前に、琉球や小笠原など往復し、日本政府との交渉に臨んでいたわけです。このことがなぜ重要かというと米側は当時、すでに地政学的な知識をもっていて、日本攻略には必要と考えていた、ということです。地理は今も昔も変わりませんから、現在でもそのまま通用するということです。この琉米修好通商条約の有効性について、現在沖縄は日本に含まれているので、1879年(明治12年)の琉球処分で琉球王国が滅亡したことにより、当条約は失効したとされています。しかし当事者の一方である米国がそれを承認したのかを不明です。また当時琉球は薩摩藩の付庸国であり、かつ清に朝貢する日清両属の琉球王国が、国際法上の主体となれるのか、という疑問が残されたままです。もう昔のことだから、ということでしょうか。

首里城

パリ祭(フランス革命記念日)

パリ祭(フランス革命記念日)

7月14日はパリ祭です。なぜ外国のローカルな祭りを取り上げたかというと、歴史的に日本人に影響を与えてきたからです。パリ祭というのは日本だけの呼び名で、現地フランスでの名称はFête nationale françaiseつまりフランス国民の祭典ということで革命記念日とか建国記念日というのが正しいのです。なぜパリ祭になったかというとwikipediaによれば「ルネ・クレール監督の映画 『Quatorze Juillet 』(7月14日が邦題『巴里祭』として公開されヒットしたためで、邦題を考案したのは、この映画を輸入し配給した東和商事社長川喜多長政たちである。」だそうです。昔の映画は配給会社が「日本人にわかるように」いろいろ工夫して邦題をつけました。そうして流行った映画がいくつもあります。この邦題文化も今は無くなり原題をそのままカタカナにしています。近年では「アナと雪の女王」が珍しく邦題になっています。
革命記念日にはフランス全土で一日中花火が打ちあげられます。消防士はダンス・チーム bals du 14 juillet を組んで市民に披露したりします。日本の消防出初式とやや発想が似ているかもしれません。洋の東西を問わず火消しはカッコいい存在です。ちなみに英語で消防士はfire fightersといいます。午前中にはパリで軍事パレードが開催され、フランス大統領の出席のもとシャンゼリゼ通りからコンコルド広場までを行進します。どこの国でも独立記念日は軍事パレードです。日本だけが異様なのです。国力を示すのは軍事なのです。日本でも武者行列が各地で盛んですし、時代行列は祭りのハイライトになっています。武者が軍人なのは明白なのに敢えて分けようとするのは不思議な思考方法でしょう。軍事パレードに行進曲がありマーチングバンドが行進するのも自然なことです。群衆がそれを見て気分が高揚するのは自然であり、楽しみなわけです。
フランス革命については歴史の時間に学習しますが、始まりはバスティーユ監獄襲撃です。結集と反乱の象徴としてバスティーユ襲撃があり、勇敢なフランスの愛国者がバスティーユを襲って抑圧された民衆を何百人も解放するという典型的イメージになっています。これが君主専制政治への反抗であり民主主義の象徴になっています。それに憧れた多くの日本人が自由の象徴としてのパリ祭に憧れ、フランス革命前後のエピソードが文学化された作品にのめり込んでいきました。有名な「レミゼラブル」でもフランス革命が描かれています。フランス革命は1789年それまでの旧体制(アンシャンレジーム)であった領地所有を前提とした貴族と高級聖職者が権力を独占していた社会が破壊され、ブルジョワジーと呼ばれる商工業、金融業の上に立つ者が権力を握った変化のことです。ブルジョワジーは権力を握っても貴族を排除することなく一部の貴族とは連立を続け、貴族と上層市民を対等の地位にした点が画期的だったわけです。革命というと現代日本人はソビエトや中国の共産主義革命を連想しがちですが、それは労働階級によるブルジョワジーの排除ですから、本質的に違います。欧州では王制を倒して民主主義にする革命や、カトリックに抗議した宗教革命など、いくつもの社会制度転換があったわけです。その都度、武力衝突もあり、革命と武力は深い関連があるわけです。そこはきちんと理解しておきたいところです。
水無月十六日は望月です。フランス革命の日と重なるのは偶然ですが、満月を見ながら欧州の歴史と日本の歴史の違いを改めて考えてみるのもよいのではないでしょうか。

フランス革命

承久の乱

承久の乱

承久3年(1221)6月15日に承久の乱が終結します。今年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は承久の乱で終わるらしいですから、ネタバレにならないように事実だけを知っておくと、ドラマが一層楽しめると思います。
承久の乱は後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた戦です。上皇の院宣で討伐対象として挙げていたのは義時であったが、北条家は鎌倉幕府全体への攻撃であるとして東国御家人たちを動員し、京都に攻め上って勝利しました。負けた後鳥羽上皇は隠岐に配流され、鎌倉幕府は朝廷を監視する六波羅探題を京都に置きました。以降、明治維新まで室町幕府、江戸幕府と600年以上に及ぶ武家政権の優位を決定づけた画期的なできごとでした。
承久の乱以前は鎌倉幕府が東国を支配し、諸国に守護・地頭を置くなどして軍事的な支配はしていたものの、西国支配は充分ではなく、依然として朝廷の力が強いままで幕府と朝廷の二元政治の状態にありました。後鳥羽上皇の朝廷の財源は諸国に置かれた膨大な荘園にありましたが、これらの荘園に幕府の地頭が置かれるようになると、しばしば年貢の未納などが起こり荘園領主である後鳥羽上皇やその近臣と地頭が紛争を起こすようになりました。
承久元年(1219)幕府3代将軍の源実朝が甥の公暁に暗殺され鎌倉殿の政務は頼朝正室の北条政子が代行し、執権である弟の北条義時がこれを補佐することとなりましたた。また京都守護として義時の妻の兄の伊賀光季と大江広元の嫡男源通親の猶子として朝廷と深いつながりのあった大江親広を派遣しました。
そして幕府は新しい鎌倉殿として後鳥羽上皇の皇子である雅成親王(六条宮)を迎えたいと後鳥羽上皇に申し出ます。これに対し後鳥羽上皇は藤原忠綱を鎌倉に送り、愛妾亀菊の所領である摂津国長江荘、椋橋荘の地頭職の撤廃と院に近い御家人仁科盛遠への処分の撤回を条件として提示しました。義時はこれを幕府の根幹を揺るがす事案として拒否します。義時は弟の北条時房に1000騎を与えて上洛させ、武力による恫喝を背景に交渉を試みますが、朝廷の態度は強硬で不調に終わります。後鳥羽上皇は皇子でなければ摂関家の子弟であっても鎌倉殿として構わないと妥協案を示しました。このため義時は皇族将軍を諦め摂関家から将軍を迎えることとし、九条道家の子・三寅(後の九条頼経)を鎌倉殿として迎え、執権が中心となって政務を執る執権体制となりました。この将軍継嗣問題は後鳥羽上皇にも義時にも、しこりが残りました。
内裏守護の源頼茂(源頼政の孫)が後鳥羽上皇の命によって在京の武士に攻め殺される事件が起きます。朝廷と幕府の緊張は次第に高まり、後鳥羽上皇は義時を討つ意志を固めまずが土御門上皇はこれに反対し多くの公卿たちも反対または消極的でした。順徳天皇は討幕に積極的で仲恭天皇に譲位し協力します。近衛家が退けられ九条道家が摂政となります。寺社に命じて義時調伏の加持祈祷が行われ討幕の流説が流れて朝廷と幕府の対決は不可避になりました。上皇挙兵の報に鎌倉の武士は動揺しましたが北条政子が御家人たちに対して頼朝の恩顧を訴え「讒言に基づいた理不尽な義時追討の綸旨を出してこの鎌倉を滅ぼそうとしている上皇方をいち早く討伐して、実朝の遺業を引き継いでゆく」よう命じたことで動揺は鎮まりました。これがハイライトシーンです。政子が館の庭先にまで溢れんばかりの御家人たちを前に涙ながらの大演説を行ったことで心が動かされ鎌倉武士を結集させることに成功したとされています。

北条義時

住吉の潮湯

住吉の潮湯

旧暦6月14日に大阪の住吉神社で「潮湯」という伝統行事があるそうです。正しくは住吉御神輿洗神事(すみよしみこしあらいのしんじ)というのだそうですが、住吉祭に使う御神輿を海水で清めるという神事です。解説によると「住吉大社夏祭はこの神事から始まり、夏越(なごし)祓神事、堺への神輿渡御祭へと続く。七月の「海の日」、住吉公園で神輿を祓い清める式である。南港の沖で汲んだ海水で禊を行う。この汐を浴びると病が治るといわれる。公園中央の汐掛道を通り住吉大社に戻る。」
(https://kigosai.sub.jp/kigo500d/339.htm)今年は海の日とは一致していませんが、旧暦で行われます。一般にはそれほど知られた行事ではないのですが、俳句の世界では晩夏の季語になっています。こうした行事は季節を実感する大切な行事なのですが、明治以降新暦でするようになり、一月早くなってしまいました。つまり新しい伝統ということなのですが、政治は宗教に不介入という原則を破ったものなので、今のうちに旧暦に戻しておかないと、本当の季節感が失われていくでしょう。西暦と元号が併用されているように、新暦と旧暦も併用していくことで伝統が守られると思われます。一見、面倒ですが、実際には暦を見るだけの手間なのです。

ところで新暦7月12日はラジオ本放送の日です。大正14年(1925)東京放送局(現在のNHK)が愛宕山(現在港区)から本放送を開始した日です。本というからには仮があるわけで、仮放送は同年3月22日で第1声は「JOAK、JOAK、ジェー、オーゥ、エーィ、ケーィ、こちらは東京放送局であります。」と読み上げた。「JOAK」とは東京放送局のコールサイン(呼び出し符号)で、無線局の識別ができるようにするためのもの。当時の受信契約数は約3,500件であった。また、1日の放送時間は約5時間、受信料は月額1円であった。(NHKサイト)当時の1円は現在の1,080円だそうですから、今の方がはるかに高いのです。もっともラジオ放送の受信料は今、無料です。NHKではこの3月22日を放送記念日としているそうです。このことが示すようにラジオradioというのは元は無線のことです。おもちゃのラジコンはradio controlの略です。
これは日本の話で、世界的には世界ラジオデーWorld Radio Dayといい1946年2月11日に国連放送が開始されたことを記念してUNESCOが2011年に制定しました。比較的新しいものなのです。「この国際デーは、一般の人々とメディアの間でラジオの重要性についての意識を高めること、意思決定者がラジオを通じて情報へのアクセスを確立し提供することを奨励すること、放送事業者間のネットワーク作りおよび国際協力を強化することを目的としている。」とあり、今問題になっているメディアリテラシーと情報公開、ネットワーク作りが強調されています。世界にはで文字の読めない人が多い(識字率が低い)国が現在もたくさんあります。そして政府が情報公開をしない国が多くあります。テレビやインターネットが当たり前でない国があるわけです。
ラジオは厳密に言うと音声無線通信でラジコンはラジオには該当しません。無線は元々wirelessのことで、電話のような有線wiredが最初の通信技術でした。通信には今でも有線と無線が併用されていますが、安定度は今でも有線の方が安定しています。ただ利便性は無線が圧倒的に便利なので、日常生活に無線技術が多く入り込んできています。今、ラジオ放送のファンが増えてきています。何か理由がありそうです。

住吉大社