難民

難民

6月20日は世界難民の日World Refugee Dayで2001年に制定されました。比較的新しい国際デーです。元はアフリカ統一機構の『アフリカ難民条約』の発効の日であったのですが、アフリカ地域およびアフリカ以外の地域での難民問題の深刻さに注目し、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)らの申し出により、『世界難民の日』が制定されることとなったわけです。難民そのものはもっと以前からありましたが、近年だんだん深刻な問題になってきています。
ところで難民と避難民の違いをごぞんじでしょうか。最近話題のウクライナから日本に来た人はどちらなのでしょうか。UNHCRでは国外に逃れた人を「難民」refugee、国内で避難した人を「国内避難民」Internally Displaced Persons: IDPs」と使い分けています。しかし1951年の難民条約などによって「人種、宗教、国籍、政治的意見、あるいは特定の社会集団に属するという理由で、自国にいると迫害を受けるおそれがあるために他国に逃れ、国際的保護を必要とする人々」と定義されています。それに対して「避難民」には漠然とした定義しかなく、「天災や戦災などから避難した人々」を意味しています。そこでウクライナから逃れてきた人を国際法上の難民に認定してしまうと、定住資格を与えることになります。一方で、ウクライナへの支援は必要で、国際的な体面を保つためにもアクションが国際的に求められています。そこで政府が考えだしたのが『避難民の受け入れ』です。日本の政策と国際政治の現状の“ねじれ”から生まれた概念といってもいいかもしれません。もちろんウクライナの人たちを助けたいという思いは偽らざるものだと思いますが、『避難民』という言葉が日本の難しい立場を反映したものだということは理解しておくべきと立命館大学国際関係学部の嶋田晴行教授は述べています。避難民を受け入れる中で課題になるのは就労と言語(日本語)だと嶋田教授は説明しています。どこの国でも元いた国での資格や経験をすぐに生かせるようなシステムになっていません。そして雇用が不安定であれば当然生活は苦しくなります。だからといって、そうした人々の雇用を優遇すると『自国民でも職探しに困っている人がいるのに』という話になるのは当然のことです。どこの国でも同じような発想で移民に対する反発が高まっていく、というのが現状ですし、日本でもそうなっていくでしょう。日本で暮らす外国人が最初にぶつかる壁が日本語で、日本語ができないと職探しもままならないのが現状です。もちろん政府も黙って見過ごしているわけではないのですが、言語教育は時間がかかります。その期間の生活保障をどうするか、という問題もあります。また避難民自身もすぐに本国に帰るつもりであれば、真剣に学習しようという気になれません。とりあえずの衣食住がなんとかなればそれでいいと考える人が多いのです。子供の教育も問題です。避難生活が長期になればいつまでもお客様というわけにはいきません。かといって本国の文化や宗教、歴史などを捨てるわけにもいかず、国民としてのアイデンティティの問題が出てきます。また帰化せずに住民として居続けるには、差別も含めていろいろな人権問題がでてきます。とくに宗教の違いは大きな影響をもちます。最近はイスラム教徒の人々が土葬する墓地を求めて奔走しているそうです。ユダヤ教やキリスト教も本来は土葬です。こうした難民・移民・避難民問題は日本がいやおうなしに国際紛争に巻き込まれていくことで、これもグローバル化の1つの側面です。

難民

日本書記

日本書記

旧暦皐月21日はいろいろなできごとがありました。養老4年(720)舎人親王らが『日本書紀』30巻と系図1巻を撰上しました。弘安4年(1281) 壱岐・対馬に高麗の兵船が襲来、弘安の役が始まりました。天正3年(1575年)長篠の戦いが始まりました。文政10年(1827) 頼山陽が元老中・松平定信に『日本外史』22巻を献呈しました。こうしてみると昔の歴史は戦の歴史が多いのですが、今回は日本書記と日本外史という歴史書について考えてみようと思います。
『日本書紀』は全30巻系図1巻(現存しない)からなり天地開闢から始まる神代から持統天皇代までを扱う編年体の歴史書です。1300年前に歴史書があったということは世界に誇るべき遺産です。神代を扱う1巻、2巻を除き、原則的に日本の歴代天皇の系譜・事績を記述しています。全体は漢文で記され、万葉仮名を用いて128首の和歌も記載されているのが特徴的です。特定の語意について訓注によって和語で読むことが指定されている箇所があり、漢文中に現れる日本語的特徴、日本語話者特有の発想による特殊な表現は現在では研究者によって和習(倭習)と呼ばれています。この和習を多々含むためその本文は変格漢文(和化漢文)としての性質を持ちます。
『日本書紀』は複数の撰者・著者によって編纂されたと見られ、この結果として全体の構成は不統一なものとなっています。編纂にあたっては多様な資料が参照されており、日本の古記録の他、百済の系譜に連なる諸記録、『漢書』『三国志』など中国の史書も参照されているそうです。歴史記録として古代日本の歴史を明らかにする上で中核をなす重要な史料であり、また東アジア史の視点においても高い価値を持つ史書です。『日本書紀』は『古事記』と並び日本に伝存する最も古い史書の1つです。『古事記』が序文において編纂の経緯について説明するのに対し、『日本書紀』には序文・上表文が無く編纂の経緯に関する記述は存在しないため、いつ成立したのか『日本書紀』それ自体からはわからないため8世紀末に完成した歴史書『続日本紀』から推定されています。
『日本外史』は、江戸時代後期に頼山陽が著した国史書で外史とは民間による歴史書の意味です。源平氏から徳川氏までの武家盛衰史で、すべて漢文体で記述されています。文政10年(1827)元老中首座の松平定信に献上され、2年後に大坂の秋田屋など3書店共同で全22巻が刊行されました。幕末から明治にかけてもっとも多く読まれた歴史書ですが歴史考証は不正確で議論に偏りがあり、史書というよりは歴史物語であるといえます。しかし独特の史観とダイナミックな表現で幕末の尊皇攘夷運動に与えた影響は甚大でした。伊藤博文、近藤勇の愛読書であったことでも知られ、頼山陽的な歴史観、国家観は幕末から維新、戦前の日本に大きな影響を及ぼしたとされます。
現代はこうした歴史書を読むことは少なく、司馬遼太郎の小説やNHKの大河ドラマ、映画、歌舞伎などのエンターテイメントが日本人の歴史観に影響を与えており、架空の人物の存在を信じていたり、事実とは異なることが広く信じられているなどの弊害も目立つようになってきました。歴史書に偏りがまったくないとはいえませんが、少なくともフィクションとは区別して考えたいものです。現代語訳も出版されていますから、一度は目を通したいものです。また戦後は神話部分をファンタジーとして見ることが多いですが、すべてがファンタジーではない、ということも考えたいですね。

稲佐の浜

考古学

考古学

明治10年(1877)6月18日アメリカの動物学者エドワード・S・モース(Edward Sylvester Morse、1838~1925年)博士が来日しました。モース博士は貝の研究をしていたのですが、翌日の6月19日、博士が汽車で横浜駅から新橋駅へ向かう途中で貝殻が堆積しているのを発見し、これが後に彼によって発掘調査が行われる大森貝塚でした。この大森貝塚において貝殻や土器、土偶、石斧、石鏃、鹿・鯨の骨片、人骨片などを発掘しました。この発掘調査は日本で初めて行われた科学的な発掘調査で、日本の考古学の出発点となったのを記念して6月18日を考古学の日としています。
このエピソードは教科書でも習うのですが、実は考古学(archeology)は国によって内容が違います。日本で有名なのはテレビのせいでピラミッドなどのエジプト考古学ですが、似たような分野に人類学や歴史学、先史学があります。アメリカでは考古学は人類学の一部であるという見解が主流ですが、日本では歴史学の一分野とみなされる傾向にあり、記録文書にもとづく文献学的方法を補うかたちで発掘資料をもとに歴史研究をおこなう学問と考えられてきました。日本の歴史学は文献中心です。ヨーロッパでは伝統的に先史時代を考古学的に研究する「先史学」という学問領域があり、歴史学や人類学とは関連をもちながらも統合された学問分野として独立しています。考古学の定義は人類が残した物質文化の痕跡(例えば遺跡から出土した遺構などの資料)の研究を通して人類の活動とその変化を研究する学問とされていて、それに対して、歴史学は文字による記録・文献に基づく研究を行うということなのですが、文献か物質かの優先順位が日本と欧米では違っています。日本は古くからの文献も多く、古代中国の文献なども参照できるため、文献歴史学が伝統となっていますが、欧米では文献のない時代からの物的証拠が多いため、先史学は文献のない時代の歴史という考え方をしています。また文献の中には筆者の想像が入っていることも多く、神話学との関係もあって、考古学は物的証拠優先です。歴史historyはhis-storyと揶揄されるように権力者の都合に合わせて書かれることも多いという事情もあります。有名なトロイアを発掘したシュリーマンのようにギリシア神話は単なる作り話と思われていたものを物的証拠で実在を示したことは偉業なのです。
日本でも邪馬台国や高天原などがどこなのか論争がありますが、考古学的な証拠がないと決着がつきません。欧米では聖書の記述がどこまで真実なのか、ノアの箱舟の発掘やアララト山の特定、キリストの骸布など今でも謎とされて各地で研究が行われています。
文献には文字の発達という決定的な制約がありますが物的証拠にも制約があります。どこに埋まっているのか、本当に存在するのかが結果をみないとわかりません。中には盗掘によるもの、偽物、捏造もありますから、鑑定技術も必要です。現代はいろいろな科学技術を使って探査する方法がありますが、探査地域は文献から推測するしかないのが実情です。一方で、恐竜の骨などのように偶然発見されて定説がひっくり返ることもよく起こります。最近は宇宙考古学なる分野も出てきて、地球外の歴史を探査しようとする研究も進化しつつあります。未来は調査できないのですが、過去からいろいろ推定できるようになってきました。

大森貝塚

砂漠

砂漠

6月17日は砂漠化および干ばつと闘う国際デーWorld Day to Combat Desertification and Droughtです。Droughtは旱魃(かんばつ、本字はこちらです)のことです。1994年(平成6年)「国連砂漠化防止条約」(United Nations Convention to Combat Desertification:UNCCD)が採択されたことを記念して制定されました。砂漠化と干ばつへの理解と関心を深め、砂漠化防止に向けての活動を呼びかけ、国際協力の必要性を改めて考える日です。
砂漠化は乾燥した土地の劣化であり主に人間の活動と気候変動によって引き起こされます。砂漠化の原因には木材や薪、耕作のために行われる森林の大規模な伐採、熱帯雨林における焼畑農業、集中的な農業による土壌の栄養素の枯渇などが挙げられています。砂漠化と土地の劣化による影響は、地表の3分の1に及び10億もの人々の暮らしや発展を脅かしています。長期にわたる干ばつや飢饉により土地を捨て去ることを余儀なくされた人も多く、環境問題により移住を強いられた人々はすでに2400万人に上るとされているそうです。
砂漠というと日本人には「月の砂漠」のような、あるいは鳥取砂丘のような砂山を連想しがちですが、英語のdesertというのは荒野とか荒地と訳すのが正しいです。岩山があったり、何キロも草一本生えていない平地だったりすることもあります。大自然でそうなっている箇所も多いのですが、人間が木を切ったことで砂漠化した土地もあります。米国の国土の約3分の1は国有地ですが、ほぼ砂漠ばかりです。その砂漠の土地を払い下げてもらい、遥かかなたの川から運河を引いてきて窪地に貯水池を作って、そこに街づくりをする事業がいわゆるdeveloperであり、日本の不動産業者がデベロッパーと名乗るのとは全く違います。開発というのはそういうことで、山をちょっと切り開いて住宅街を作る程度の事業とは根本的な発想が違います。米国のデベロッパーが砂漠を開発して街づくりをして砂漠を減らしていくのに対し、日本の不動産業者は反対に緑の山を削ってしまうのですから自然環境を考えると正反対といえます。
現在、太陽光発電が盛んになってきていますが、世界の大半は砂漠に設置し、安定的な電力供給ができるのと、その電力により工業化への道筋ができるのですが、日本の太陽光発電は山を切り開いて緑をなくす方向なので、自然の破壊であり、そもそも太陽光発電という思想には向いていません。脱炭素化といいつつ森を削るのは矛盾しています。
旱魃も江戸時代まではかなり大変なことで飢饉に何度も襲われています。そのために雨乞いの儀式があり、今でも無形文化財として残っています。また各地に溜池があり、用水路があります。ところが今では池を埋めて宅地にしたり、用水路を埋めて道路にしてきました。先人たちの苦労を忘れて、現在の利便のためになくしてしまったものが多い現在、農業は衰退し外国輸入に頼るようになったため、経済安保のようなものが必要になってきました。食料自給は防衛でもあるのですが、明治以降の産業革命が未だ連続していて、産業構造の高次化が至上であるかのように進んできました。今更SDGsと叫んでも遅いです。実際、外国の砂漠化や旱魃について日本人は他所事と思っていますし、実際に食糧難になるまでわからないかもしれません。マスコミも食料に困っている外国の人々の報道はしますが、自分たちの危機について報道しません。この日に国連砂漠化防止条約について、どこが報道するかみものでもあります。

砂漠

和菓子の日

和菓子の日

嘉祥元年(848)仁明天皇が御神託に基づいて、6月16日に16の数にちなんだ菓子、餅などを神前に供えて、疫病を除け健康招福を祈誓し「嘉祥」と改元したという歴史によりこの日を嘉祥御祝という習慣がありました。嘉祥とは「めでたいしるし」のことです。嘉定と書かれる文献もあるようです。鎌倉時代には、のちの後嵯峨天皇が東宮となられる前に6月16日に通貨16枚で御供えの菓子などを求めて献じられ、それを吉例として皇位継承の後もこのことが続けられました。 室町時代の『嘉祥の日』には朝廷で主上に「かづう」(女房言葉・でかつう、かずうともいうそうで、嘉祥の祝の菓子のこと)を差し上げるのが吉例であったことが『御湯殿上日記』に記載されているそうです。 慶長の頃には豊臣秀吉が「嘉祥の祝」を恒例として行っていたことが古文書に記載されています。江戸幕府ではこの日、大名・旗本など御目見得以上の武士に大広間で菓子を賜り、これを「嘉祥頂戴」といい、菓子は白木の片木の上に青杉の葉を敷いてその上に積んであり、一人一個ずつ取らせたそうです。 民間においても「嘉祥喰」といって銭十六文で菓子や餅十六個を求め食べるしきたりがありました。 この夜に十六歳の袖止め(振り袖をやめて詰め袖にする=大人になる)をする「嘉祥縫」という風習があったほか、6月16日に採った梅の実でつくった梅干しを旅立ちの日に食べると災難をのがれるという言い伝えがあり「嘉祥の梅」といいました。このように、「嘉祥の祝」は疫を逃れ、健康招福を願うめでたい行事として歴史の中で受け継がれ、明治時代まで盛んに行われていました。この『嘉祥の日』を復活させたのが「和菓子の日」です。菓子は本来、めでたい食べ物なのです。
現代ではスイーツという英語からの外来語が普通になってきていますが、とくにしきたりや季節などなく、たんに甘いものというだけです。かえって糖尿病になるとか、ダイエットの敵のような言われ方をして、健康で福を招くという思想はありません。そもそも菓子は頻繁に食べられるものではなく、甘いもの自体がなかなか食べられなかったのです。「うまい」と「あまい」は同語源の言葉です。
砂糖が日本に伝来したのは鑑真和上が伝えたという説もありますが、遣唐使によって中国からもたらされたという説が有力のようです。当時は大変な貴重品であり、ごく一部の上流階級の薬用でした。鎌倉時代末頃から大陸貿易が盛んになって砂糖の輸入も増加しました。やがてポルトガル人が砂糖を原料としたカステラ、コンペイトウなどの南蛮菓子をもたらしましたが、当時の大陸貿易の品目の中では生糸、絹織物、綿織物に次ぐ重要輸入品が砂糖でした。砂糖の製造を始めたのは当時の琉球でした。1琉球の儀間真常が砂糖の製造方法を学ばせ黒糖を製造したと言われています。その後琉球をはじめ奄美大島、喜界島、徳之島などで、さとうきびは製造増産され、管轄していた薩摩藩に莫大な収益をもたらしました。その収益が幕末の資金になりました。
調所広郷という家老が砂糖の専売により利益をもたらしたのですが、今では地元でも調所広郷への評価が低いのは強引な経済改革だったことによるようです。
スイーツ男子と呼ばれる人たちは洋菓子が中心のようで、和菓子はだんだん人気がなくなってきているようですが、この日は和菓子店では1と6を足した7種類のお菓子を「嘉祥菓子」として販売する店も増えつつありますようですから、ぜひお祝いとして昔の習慣を偲びつつ召し上がってみてはいかがでしょうか。

和菓子

米百俵

米百俵

6月15日は新潟県長岡市が1996年に制定した米百俵デーだそうです。戊辰戦争で敗れ財政が窮乏した長岡藩に支藩三根山藩から百俵の米が贈られたのですが、藩の大参事小林虎三郎は米を藩士に分け与えず、売却した代金で学校を設立することとしました。そのお金によって「国漢学校」が開校したのが明治3年のこの日であったことを記念したのだそうですが、それなら旧暦の話ですね。近年やたら記念日ができるのですが、明治5年以前は旧暦でしたから、機械的に日付だけ合わせないで、そういう配慮も欲しいところです。とくに昔の精神について語る時にはなおさらです。米百俵の話は小泉純一郎元総理が持ち出してマスコミも取り上げるようになり、流行語大賞にもなりましたが、元は山本有三の戯曲で知られ、映画や歌舞伎にもなっており、小泉氏は中村吉右衛門の歌舞伎を見て知られたようです。
この話のはじまりである北越戦争の河井継之助の話が最近の映画「峠 最後のサムライ」がでてくるのも時代背景が今と関係があるのかもしれません。映画には多分出てこないと思いますので、米百俵の話のあらましをお知らせします。河井継之助が率いた北越戦争で敗れた長岡藩は7万4000石から2万4000石に減らされ実質6割を失って財政が窮乏し藩士たちはその日の食にも苦慮する状態でした。このため窮状を見かねた長岡藩の支藩三根山藩から百俵の米が贈られることになりました。藩士たちは、これで生活が少しでも楽になると喜んだのですが、長岡藩の大参事小林虎三郎は贈られた米を藩士に分け与えず、売却して学校設立の費用とする決定をします。藩士たちはこの通達に反発して虎三郎のもとへと押しかけ抗議すると、小林虎三郎は
「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」と諭し、自らの政策を押しきったのです。現在の辛抱が将来利益となることを象徴する物語として引用されるのです。この話は為政者が国民に辛抱を強いるのには都合のいい話でもあります。もっとも最近は分配ばかり強調する政治家で教育に投資しようという人はあまり見かけません。
長岡市内では音楽イベント「米百俵フェス」や秋の「米百俵まつり」があり、米百俵の群像(千秋が原ふるさとの森)などがあります。米を送った三根山藩は越後にあり、今の巻町に史跡が残っていますが、ポツンと石碑と看板があるだけです。いくら支藩とはいえ自分たちも楽ではない中を寄付したのですから、もっと評価されてもいいのではないかと思います。この米百俵で作られた学校の後身の旧制長岡中学を山本五十六が卒業しています。

旧暦文化6年(1869)皐月17日、間宮林蔵が単身で樺太に渡り樺太が島であることを立証しました。それを記念して樺太とユーラシア大陸のハバロフスクの間の海峡を間宮海峡といいます。しかし樺太がサハリンとしてロシア領の現在はタタール海峡と呼ばれています。タタールというのは中国語の韃靼(だったん)で英語のTatarはTartarとも書き、あのタルタルステーキのタルタルのことです。欧米人があまり食べない牛肉の生なので野蛮人という意味を込めています。ユッケと同じで日本人には抵抗感がないのですが日本でもBSE騒動以来、出す店がほぼなくなりました。ロシアに気兼ねしてか、間宮林蔵について学習することが少ないのも残念なことです。

米百俵

国旗の日

国旗の日

皐月16日は満月です。雨が多い時期なので夜空に満月が見られるとしたら、けっこうラッキーです。6月14日はアメリカではFlag Day国旗制定記念日なので祝日になっています。日本国旗はずっと同じデザインであることに何の不思議も感じないと思いますが、外国では国旗がよく変わります。戦争によることもありますが、アメリカの場合、州が増えるたびにデザインが変更されます。Stars and Stripesというのを訳して日本で星条旗と呼んでいます。条つまり横線は赤が7本、白が6本の合計13本で独立13州を表しているので、この部分は変わりません。星の数は州の数なので州が増えるたびにデザインが変わりました。最初の旗では13の星が円形に並んでいました。今では全部プリントが多いのですが、正式にはこの縞は1本ずつ縫ってあります。これは独立戦争時にフィラデルフィアのべッツィー・ロスという女性が裁縫したものが始まりだと広く伝えられているからです。白は purity(純粋)とinnocence(純潔),赤は hardiness(たくましさ)とvalor(勇気),青はvigilance(戒心)とperseverance(忍耐)とjustice(正義)を表すということです。20州になったあたりから独立記念日である7月4日に新旗が制定され、1959年にアラスカ、1960にハワイが州に加わり以後増えていません。スポーツのたびに聞かされるアメリカ国家も原題The Star-Spangled Banner(星で飾られた旗)という意味で国旗との整合性があります。
日本の国旗の記念日は1月27日ということをごぞんじでしょうか。明治3年(1870)1月27日、太政官布告の商船規則によって「日の丸」が国旗として制定されたことを記念しています。これは旧暦ですが、現代でもこの日に祝われているのですが、残念なことにあまり知られていません。長い伝統もある国旗なのですが、日本では扱いが冷淡で、外国人からすると不思議に思われます。日本国旗は通称日の丸ですが、正式には日章旗といいます。よく近隣諸国からあれこれ言われる放射状の朝日をデザインした旗は旭日旗といい、国旗ではなく昔から大漁旗や節句の祝いに使われたハレの縁起物です。明治以降に軍旗として使われたため、軍国主義の象徴のようなイメージがあります。朝日新聞社だけでなく旭日旗を使うことはめでたい意味なのです。あまり知られていませんが、戊辰戦争では日章旗を幕府陸軍が軍旗として採用し、それと敵対した新政府軍の陸軍は軍旗として旭日旗を使用し、大日本帝国海軍においても軍艦旗として旭日旗を採用し、今日の自衛隊も旭日旗を使用しています。民間が国籍を示す場合は日章旗を掲げますが、軍の国際標識としては旭日旗が使われています。朝日新聞社の社旗は完全な旭日旗ではなく、四分の一のデザインですが、半分のものもかなり使われてきました。
祝日には国旗を掲げるのが昔は普通でしたが、今では稀になってしまいました。そもそも各家庭に国旗があるかどうか疑問です。こういう国は珍しいです。祝日のことを旗日という表現もありました。今でもカレンダーの祝日に国旗が描かれてあるものもあります。
学校や会社にも記章があり、校旗や社旗があるところも多いのですが、最近はロゴだけになってきています。これも忠誠心が薄れてきている証拠かもしれません。忠誠心loyaltyというとroyaltyロイヤリティ(印税、特許使用料)と誤認されます。l/rの区別ができないのが原因かもしれませんが、意味が全然違うので注意しましょう。

日の丸

天保の改革

天保の改革

水野忠邦の天保の改革について、歴史の時間に習って名前くらいは憶えておいでの方が多いと思います。天保12年(1841)皐月十五日から始まりました。天保年間は全国的な凶作による米価・物価高騰や大飢饉による百姓一揆や都市への人口流入、打ち壊しが頻発しました。甲斐国天保騒動や三河加茂一揆、大坂の大塩平八郎の乱などが起こりました。海外でも阿片戦争やモリソン号事件などが起きて騒乱の時代でした。
徳川将軍家斉が薨去し、水野忠邦は西丸派や大奥に対する粛清を行い、人材を刷新して農本思想を基本とした天保の改革を開始しました。幕府各所に綱紀粛正と奢侈禁止を命じ、江戸町奉行遠山景元(遠山の金さん)・矢部定謙を通じて華美な祭礼や贅沢奢侈はことごとく禁止されました。大奥については姉小路ら数人の大奥女中の抵抗が強く改革の対象外とされていました。ここまで来て、何となく現代に似ていませんか。
倹約令では風俗取締りを行い、芝居小屋の江戸郊外(浅草)への移転、寄席の閉鎖などにより庶民の娯楽に制限を加えました。一部の古くからある寄席を除き大半が規制を受け廃業しました。新吉原についてはすべて免除されています。現代の日本政府はこうした規制はしていませんが、コロナ対策で似たような結果になっています。吉原が免除というのも現代に通じるものがあります。
歌舞伎に対し市川團十郎の江戸追放、役者の生活の統制、興行地の限定(江戸・大坂・京都のみ)といった弾圧もあり、歌舞伎の廃絶まで言われたのですが、そこまでにならなかったのは遠山景元の進言によるものらしく、それで金さんは歌舞伎やその後を継いだ映画、テレビで高評価されているのかもしれません。一方で水野忠邦の評判は凄く悪いわけです。
経済政策としては人返し令をしています。幕府収入は農村からの年貢でしたが、貨幣経済の発達により、農村から都市部へ人口が移動し年貢が減少していました。そのため江戸に滞在していた農村出身者を強制的に帰郷させ、安定した収入源を確保しようとしたのです。安定税収、地方移住、似ていますね。
株仲間解散令もありました。高騰した物価を安定させるため、株仲間を解散させて、経済の自由化を促進しようとしました。しかし株仲間が中心となって構成されていた流通システムが混乱してしまい、かえって景気の低下を招きました。規制緩和です。
上知令では江戸や大阪の周囲の大名・旗本の領地を幕府直轄地とし、地方に分散していた直轄地を集中させようとし、これによって幕府の行政機構を強化して江戸・大阪周囲の治安の維持を図ろうとしたのですが、大名や旗本が大反対したため、上知令は実施されることなく終わりました。大阪都構想、似ていますね。
金利政策として相対済令の公布により一般貸借金利を年1割5分から1割2分に引き下げました。そして札差に対して旗本・御家人の未払いの債権を全て無利子とし、元金の返済を20年賦とする無利子年賦返済令を発布し、武士のみならず民衆の救済にもあたったつもりでしたが、当然貸し渋りが発生し逆に借り手を苦しめることになりました。現在の日銀低金利政策の現状です。
改鋳はよくある手です。貨幣発行益を目的とする改鋳は江戸時代の多くの時期で行われ、猛烈な勢いで改鋳を行ったため高インフレを招き失敗しました。デジタル通貨が似ていませんか?やはり歴史に学ぶべきです。

浜松城

エスペラント

エスペラント

日本エスペラント協会は6月12日を「エスペラントの日」としています。明治39年(1906)のこの日に日本エスペラント協会が設立されたからです。しかし日本の協会の設立記念日ということは日本独自のものです。Esperanto Dayの英語版を見ると7月26日となっており、1887年のこの日にエスペラントの創始者であるザメンホフが著書Unua Libroを出版したことを記念しているそうです。また世界大会もこの日の頃に行われるので、正式には同協会の設立記念日とする方が正しいのかもしれません。世界中で統一言語を使用することを理想としているのに記念日がバラバラというのも気になるところです。
創案者ザメンホフは世界中のあらゆる人が簡単に学ぶことができる国際補助語を目指してこの言語を作ったとされています。現実には英語が世界の支配的言語であり、英語を母語としている人々の優位があります。母語というのは世界中のどの民族にもありますから、エスペラントが英語に成り代わるのではなく、すべての人が第2言語として学習し利用することで平等になることを理想としたものです。ザメンホフは帝政ロシア時代のポーランドのユダヤ人で、ポーランド人、ロシア人、ドイツ人などが同じ町に住みながら、異なる言語を話し対立している人々を見て、どの民族のものでもない共通語の提案を思い立ちました。最初、ザメンホフはラテン語が言語問題の解決策になると考えていたようです。ラテン語はローマ帝国が支配していた時に広範囲の共通言語でしたし、古典聖書はラテン語で書かれ今でも欧州の言語にラテン語源の語彙があります。しかし実際にラテン語を学ぶとその困難さに気がつきます。一方で英語を学ぶ際には、名詞の文法上の性および複雑な格変化ならびに動詞の人称変化が複雑ですから、これを省略できないかと考えました。このあたりの苦労は日本人にも共感できます。この時点で名詞の数を想定していないのは名詞に数があるのは共通だと考えていたのでしょう。言語を学習するにはたくさんの単語を覚えなければならないのですが、彼が街を歩いていてロシア語で書かれた2つの看板を見て、解決策を思いついたそうです。швейцарская(門番所)とкондитерская(菓子屋)という2つの看板に共通して-skaja(場所)という接尾辞が使われていました。彼はひとつひとつ別々に覚えなければならないと思われていた単語を、接辞を使ってひとつの単語から一連の単語群として作り出せないかと考えたのです。ここでいう接辞の違いは欧州の言語が互いに語幹が似ていて、語尾の違いが多いということで印欧語族と呼ばれる欧州言語の共通的特徴ということです。18世紀には印欧語族があることが知られていたのに百年後のザメンホフはその知識がなかったといえます。歯科医なので仕方がないということもいえますが理想主義でもありました。基本となる語彙は多くの言語で使われているものを採用しましたが、ヨーロッパの言語に限られていました。ここにエスペラントが普及しない原因の1つがありました。創案以来135年になりますが、普及どころか今ではほとんど知られていないのが現状です。
エスペラントは人工言語なので、どうしても創案者の恣意が入ります。自然言語は作者不明で自然淘汰され変化し続けている言語体系なので、本当に統一が必要になってくると自然に混淆していきます。英語は分化と混淆の歴史であり、それで今でも世界で使われている、という結果になっています。

エスペラント

入梅

入梅

旧暦皐月13日は入梅です。今では梅雨入りを気象庁が発表しマスコミがそれを流すというのが一般的であり、気象条件が地域によって異なるため、地域ごとに気象台が梅雨入り宣言をする習慣になっていて、年により地域により梅雨入りが異なります。
入梅と梅雨入りは同じ意味ですが、旧暦の入梅は決まっており、黄経が80°の時またはその日となっていて定まっています。二十四節気ではなく、彼岸などと同じく雑節と呼ばれる季節の習慣です。八十八夜を雑節で立春から数えて88日目というように、入梅は立春から数えて135日目という決め方もあったようです。入梅はその日を指すのが普通ですが、一部地域では梅雨の頃全体を指すこともあるそうです。入があれば出があるのが理屈で、梅雨の場合は梅雨明け宣言がありますが、出梅という表現は聞いたことがありませんから、今は使われていないのでしょうね。入梅の時期の決め方にもいろいろあったようで、立夏後の最初の庚(かのえ)の日、芒種後の最初の丙(ひのえ)の日、芒種後の最初の壬(みずのえ)の日と諸説あるのは、やはり地域による違いがあるのと、そもそも天候不順な時期だからと思われます。同様に出梅の日もまちまちで、入梅と出梅の組み合わせが幾通りもあります。
梅雨と書いて「つゆ」と読むので漢字テストに出題されるのですが、元々は「ばいう」だったそうです。中国では黴(カビ)の生えやすい時季の雨という意味で黴雨(ばいう)と呼んでいたからですが、この時期に梅の実が熟す、あるいは梅漬けを作る時期なので梅の雨に変えたという説もあり「諸説があります」のパターンです。梅雨入りは「ついり」と読むこともあるそうなので、漢字テストの時にはぜひお試しを。
梅雨の時期には梅漬けを作るのも大切ですが、雨が多いので田植えの時期でもあり、農業にとって重要です。現代でも農家でない人にとってカビ対策の時期ですから、マスコミの洗剤の宣伝が増えます。昔は洗剤などありませんから、もっぱら酢が使われたようです。食中毒の季節でもあるので梅干しやラッキョウがよく食べられました。酢の物がよいので、いろいろ種類があります。洋風ならピクルスやマリネです。江戸時代までは入梅いわしという習慣もあったそうで、この時期獲れるイワシは脂が乘っておいしい時期なので、お金持ちや身分の高い人たちが焼いたイワシを配ったとか。こういう習慣は残しておいてほしいものです。今では入梅イワシはこの時期のイワシの意味だけで、イワシが獲れる港町では祭りがあります。またイワシではなくジャコご飯にして振る舞うこともあるようです。ジャコは雑魚が訛ったもので、本来はイワシ類の魚の稚魚全般を指す言葉でしたが、シラスも同じものです。カタクチイワシの稚魚を釜茹でして干したものをチリメンジャコと呼ぶのは主として関西地方で、同じものをシラス干しと呼ぶのは関東地方です。チリメンは縮緬と書き絹織物ですが、細かな皺が寄っているところが似ているのでチリメンジャコと呼びます。縮緬は縮み織りまたは単に縮みといい、柔らかな風合いが好まれました。産地として丹後(京都府)や長浜(滋賀県)、越後(新潟県)が知られています。水戸黄門が「越後の縮緬問屋の隠居」と名乗っている、あの越後縮緬です。縮織りは西洋のクレープ織と同じですが、西洋では絹ばかりでなく綿もあり、現代では化学繊維もあります。皺があることで柔らかさがあるので服の裏地などに使われることが多いです。食べ物のクレープも柔らかさから来た名称です。梅干しにも皺があり、皺は本来良いものなのです。

雨