小満

小満

今年は5月21日が小満(しょうまん)の入りです。小満は二十四節気の一つで、万物が次第に成長し天地に満ち始める頃とされています。立夏の次の季節になります。他の節気に比べるとあまり知られていませんが、秋に蒔いておいた麦の穂が実ってきて、農家が一安心できるという意味で、小満と名付けられたそうです。
小満は七十二候により3つに分けられ初侯:蚕起食桑(かいこおきてくわをはむ)次侯:紅花栄(べにばなさかう)末侯:麦秋至(むぎのときいたる)の名があります。桑の葉の緑、紅花の赤みがかった黄色、実った麦の黄金色、どれも美しいです。この時期には芍薬(しゃくやく)や牡丹(ぼたん)の花も咲き、美人の例えにされる美しい花が咲きます。麦が実るのはこの時期ということはほとんど忘れられかけていますが、麦秋といい、俳句の季語になっています。米は梅雨時に種を蒔き秋に刈り取るのですが、その後に麦を蒔いてこの時期に収穫します。これを二毛作といい昔の小学校では教えていました。正確には麦でなくてもよく、1つの畑で2回違う作物を耕作することです。また同じ種類の作物を年2回収穫することを二期作といい、この違いがよくテストに出ました。日本では米の二期作ができたのはごく限られた地域ですが、南アジアでは今でも米の二期作が行われています。二毛作や二期作は土地の栄養が少なくなるため、肥料が倍必要になるので、現在の日本では半年休ませることが多く、二毛作も少なくなりました。
小満の次の節気は芒種(ぼうしゅ)であり、沖縄ではこの季節を小満芒種(すーまんぼーすー)といい梅雨の意味だそうです。沖縄には昔の日本の風習がかなり残っています。
小満の食べ物としてはサクランボが有名です。外国産のチェリーもありますが、国産の佐藤錦やには人気があります。サクランボは桜桃ともいい、桜桃といえば太宰治の『桜桃』がよく知られていますが、太宰の命日を桜桃忌といい、6月13日ですから、もう少し先です。小満の食べ物としてはアスパラガス、そら豆が八百屋に出回り、魚屋にはキスと初ガツオが出てきます。初鰹は江戸っ子好みで、脂の多い戻り鰹より、あっさりした味で、脂好みの現代人には合わないかもしれません。江戸時代は「女房を質に入れても」というくらいなので、けっこう高い買い物だったようです。昔は女房を質に入れることができたのでしょうか。江戸っ子の初物好きの典型だったようで、初物を食べると七十五日寿命が延びるといったそうですが、女房を質に入れると、質から出てきた時、カミさんに叱られて結局寿命が縮むような気がするのですが。もっともそんなくらいなら質を流してしまった方がせいせいする、という落語もあります。「目に青葉、山ほととぎす、初鰹」とはこの時期の俳句です。視覚、聴覚、味覚が見事に織り込まれています。
アスパラガスはグリーンアスパラガスが最近では主流ですが、少し前までは白いアスパラガスの缶詰が当たり前でした。ホワイトアスパラガスはグリーンのものと同じ品種ですが土を被せて日光に当たらないようにして育てたものです。独活(うど)も同じように日光に当てないように育てることで柔らかいものになります。現在では白いままでも売られていますが、栽培に手間がかかる分、高くなるので市場にはあまり出回らないようです。グリーンアスパラガスは栽培も簡単で家庭菜園でも簡単に栽培できます。
そら豆は空豆とも蚕豆とも書きます。空豆は実が空に向けて実るからで、蚕豆は蚕が繭(まゆ)を作る時期に美味しくなるからだそうです。そら豆は世界中にあります。中華料理の豆板醤(とうばんじゃん)の豆はそら豆です。そら豆に塩、米麹、粉末の唐辛子を混ぜて熟成すれば自家製ができるそうです。レンジでチンして作る時短もあるそうですから、ネットで検索してみてください。キスは天ぷらが一番。上品な味の魚です。初鰹よりこちらの方が江戸っ子好みでしょう。

小満

ローマ字

ローマ字

1922年5月20日に日本ローマ字会が設立されたことを記念して1955年に財団法人「日本ローマ字社(NRS)」が5月20日をローマ字の日という記念日に制定しました。
ローマ字とイタリアの首都ローマとどういう関係なのかはあまり知られていません。ローマ字を英語ではRoman AlphabetまたはRoman characterというので、それを直訳したのだといわれています。英語でも普通はラテン文字Latin Alphabetといい、普通には単にalphabetです。日本ではA,B,Cという言い方もあります。なぜローマ字としたのかは曖昧なようで、ローマではラテン語が使われていたから、というよく理解できない理由のようです。
ローマ字を国字にしようと提唱した物理学者の田中館愛橘(たなかだて あいきつ)の命日が5月21日だったことがきっかけで大正11年(1922)5月20日に日本ローマ字会が創設されたそうで「日本語による言語生活を向上させる」、「日本語にあったローマ字表記、カナ表記のつづり方」、「漢字の平易化」についての調査、研究、実践活動を行うことで、日本語の教育、文化の発展、国際的地位の向上が目的の組織ということです。西洋の学問を勉強していると漢字や仮名混じり文の日本語は面倒で非合理的と思う人が多いようです。実際、中国では漢字が一部エリートの知識独占の弊害として拼音(ぴんいん)が広く使われるようになり、さらに簡体字という簡略化した漢字が使われています。朝鮮半島でも昔は漢字が使われていたのですが、同様の理由でハングルが使われるようになりました。日本でも古くから仮名が工夫されてきました。明治から大正にかけて日本語を止めてフランス語を公用語にしようとか、ローマ字運動のようにアルファベット表記にしようという動きは活発でしたが、同音異義語があまりに多く、初期の電報はカタカナだけだったことによる弊害が明確になり実用上の不便から、現状のようになりました。
ローマ字にはヘボン式と日本式(訓令式)がありますが、ヘボン式が英語的なのでこちらが使われることが多いです。ヘボンはJames Curtis Hepburnで今ならヘップバーンというところです。彼は幕末にアメリカから来た宣教師で聖書の日本語訳や初の和英辞典を編纂しました。ヘップバーンというと女優のオードリー・ヘップバーンが思い浮かびますが同じ苗字です。幕末ならオドレ・ヘボンと呼ばれたでしょうがイメージがガラッと変わりますね。
日本語のラテン文字表記はヘボン式が初めてではなく、安土桃山時代のポルトガル宣教師、そしてオランダの宣教師によって辞書が作られた際に使われています。幕末から明治になるとドイツ人やフランス人もそれぞれの言語で日本語を記述していて若干の違いがあります。
日本式のローマ字は田中館愛橘が日本語の音韻(五十音)を基礎に規則的になるように工夫したため、実際の発音とはズレがあります。そこで1937年の内閣訓令によりヘボン式と日本式を統一しようとしたのが訓令式です。訓令式ではヘボン式のsha,shu,shoがsya,syu,syoのように表記されます。現在では工学系の人たちの間では訓令式を用いる人がいますが、一般社会ではヘボン式の方が多いようです。ヘボン式は英語に近いので、英語を読む感覚なら読みやすく外国人にはわかりやすいようです。しかし日本人が英語を学ぶ際には障害になる面もあります。シはshiと書かれsiではないので、she,sea,Cがいずれもシーとなり区別ができません。日本語にない音をカタカナで代用しようとすると、rとlやbとvのように1つになってしまい、英語の発音体系とずれて誤解を生むことになります。一方でアルファベットが全然読めないというのも困ります。実際にロシア語のキリル文字や朝鮮語のハングル、アラビア文字、インド文字などは読めない人の方が多く、どうしても語学がまず文字学習になることから敬遠される傾向があります。ローマ字はそうした外国語教育対策と日本語の文字としての機能のはざまで苦悩した結果でもあります。

ローマ字

伊能忠敬

伊能忠敬

寛政12年閏4月19日伊能忠敬一行が第1次測量として自宅から蝦夷地に向けて出発しました。当時、伊能はすでに55歳と高齢でした。55歳といえば現代では働き盛りというイメージで定年も60歳からさらに延長されるような傾向にありますが、つい最近(1986年)まで55歳が定年でした。これが次々に引き上げられていったのは明らかに高齢者対策というか年金問題があります。江戸時代には還暦という行事もあり、そこそこ高齢化してはいたのですが、それでも高齢には違いないです。弟子3人と下男2人を連れての徒歩による測量旅で以後十次にわたる日本全国測量の旅の始まりです。伊能は文政元年(1818)4月13日に74歳で亡くなるまでほぼ20年にわたり地図作成に生涯をかけたわけです。伊能の生涯については教科書だけでなく、小説やドラマ、アニメ、漫画にもなっているので誰もが知っていますが、最近また映画になりました。「大河への道」が公開されます。この映画は解説によると落語家立川志の輔の落語が原作で、伊能忠敬が登場しない伊能忠敬物語だそうです。志の輔も出演するそうなので興味がわきます。
伊能忠敬については数多くの解説があるので、詳しくはそちらを検索していただくとして、ここでは伊能の測量法の解説をしたいと思います。
三角形の形を決める方法に1.三辺の長さ2.二辺と間の角度3.一辺と両端の角度という基本はごぞんじと思います。1.の方法は測量としては一番簡単なので今でもよく使われています。地面の広さを求めるのに、どんな複雑な形でも三角形に分けて、三辺の長さを測れば図形が決まり、あとは計算できます。三角形の面積は底辺×高さですから高さも測れば小学生の算数のレベルです。問題はそれが測れない場合もあります。地面の上に家が建っていれば実測は無理です。地図を作る場合はすべて平原ということはないので、別の方法が必要です。そこで2.の3.法則から角度を測り、計算によって面積を求めます。ここででてくるのが三角関数というものです。三角関数はあのsin,cos,tanで高校数学なのですが、ここで脱落した方も多いと思います。数学的な説明をなくして実用的には三角関数表を用いて計算すれば簡単です。この方法を用いれば平面の面積だけでなく山の高さを推定することもできます。伊能の測量法はこの三角測量法ではなく、導線法と交会法だそうです。導線法というのは簡単にいえば現地を歩いて、2つの棒(梵天)を立てて、その間の距離を測り、真北との角度を測量する方法を繰り返していきます。真北は北極星でわかります。その角度を測る道具が象限儀で映画やドラマではこの道具で角度を測っているシーンがでてきます。距離は巻き尺では追いつかないので、長い鎖や結び目を付けた縄を使います。状況により量程車という歯車の回転数から計算する道具も使っていました。この原理を使ったウオーキングメジャーやロードメジャーは今でも使われています。しかし導線法ではどうしても誤差が生じ積み重なると差が大きくなります。そこで修正する方法として交会法が用いられ、遠くの目標たとえば山の頂上などを設定し、測量地点から目標への角度を測定して誤差を修正していきます。その数値を元に図面に書くと目標は同一でなければならないのにずれが生じることがあります。そこで角度を元に図面上で平行移動して目標に合わせると距離と図形が修正されます。幾何学の基本ですが、絵がないとわかりにくいでしょうから、検索して図面を見てください。
伊能忠敬は数学者ではなく、元々は商人であり地主でした。隠居して老後の勉強として暦学(今でいう天文学)を勉強しているうちに、地球の大きさや緯度や経度が必要なことを知り、江戸から蝦夷地までの距離を知れば正確な緯度・経度がわかると考えたようです。地図を作ることは当初の目的ではなかったようです。伊能忠敬のすごいところは隠居後の仕事であったことで、今でも多くの定年後の第二の人生の理想的モデルとして尊敬されるのはそこでしょう。

伊能忠敬

博物館の日

博物館の日

5月18日は博物館の日です。1977年国際博物館会議が制定しました。今年のテーマは”The Power of Museums : Museums have the power to transform the world around us.”(「博物館の力 : わたしたちを取り巻く世界を変革するもの」日本博物館協会訳)となっています。この日にはいろいろな行事があるので普段とは違う博物館が見られるかもしれません。
博物館に関する制度に一般の関心は低く、いろいろな区別があることも知られていません。令和4年4月15日に博物館法の一部を改正する法律が公布されたのですが、マスコミも報じません。来年4月に施行されますが、博物館法は制定からすでに70 年が経過しており、当時は200館にすぎなかった博物館も5千館を超えるようになって、博物館に求められる役割も変化してきたことから法改正が行われました。改正点はいろいろありますが、とくに重要なのは「登録要件の見直し」です。改正前は博物館の設置者を地方公共団体、一般社団法人・財団法人・宗教法人・日本赤十字社に限定していたのを法人類型にかかわらず登録できることとし、設置者が博物館運営に必要な経済的基礎を有すること、社会的信望を有すること等を要件として定めるとなりました。まず博物館には3種類あり、博物館法上の博物館である「登録博物館」、それに準じた法制上の扱いを受ける「博物館相当施設」、博物館法の適用外となる「博物館類似施設」の3つです。文化庁によると平成30年時点で登録博物館は914、博物館総統施設が372、博物館類似施設が4,452あり、現在はさらに増えています。割合から見るとそれぞれ16%、6%、78%です。圧倒的に類似施設が多いのです。博物館法では美術館、動物園、植物園の一部が含まれていることはほぼ知られていません。また国立の博物館のうち独立行政法人の博物館は登録博物館にはなっていません。国立科学博物館や国立文化財機構所属の博物館たとえば東京博物館(東博)や京博、奈良博、九博なども登録博物館ではありません。同様に国立美術館機構の美術館たとえば東京と京都の近代美術館や西洋美術館、新美術館など有名な美術館でも国立の場合は第2類に分類されています。大阪の国立民族学博物館(民博)は人間文化研究機構を構成する大学共同利用機関で大学と同じ独立行政法人です。博物館を持った研究所という位置づけです。このような研究機関もたくさんあります。つまり一般に博物館と称していても法律上そして制度上バラバラで、その中に動物園や植物園も曖昧なまま含まれているのが日本の現状です。これは日本の縦割り行政の弊害の例といえます。
博物館は英語でmuseumといい、美術館はart gallery、動物園はzoo、植物園はbotanical gardenと別々の単語になっています。つまり元の概念が違うのです。国により文化が違うように制度も異なっており、アメリカやドイツには博物館に関する法律はとくになく、英国では図書館と同じ扱い、フランスでは文化遺産という考え方になっています。日本でも博物館法ができる以前から、神社仏閣の宝物殿や資料館のような施設はたくさんあり、現在でも記念館、文学館、科学館など博物館と名乗らない文化施設は数多くあります。とくに「ふるさと創生事業」や町おこしなどでハコモノが増える一方で、文化施設というより観光目的の施設も増えており、個人のコレクションとかミュージアムと自称する施設も増えています。そのこと自体は悪いことではないのですが問題は税金とか補助金、助成金との関わりがでてくることです。
また博物館法では学芸員の設置が義務付けられていますが、その学芸員の資格もいろいろ問題があり、大学教員並みの水準を要求される場合もあれば、説明員や飼育員と同等の待遇の場合もあります。動物園が教育施設なのか、文化施設なのか、観光施設なのか運営者もはっきり理解していないケースがほとんどでしょうし、実際上多面的であり分類は困難でしょう。ちなみにほぼどこの国にもあって日本にほぼ無いに等しいのが軍事博物館です。刀剣や武具は美術品扱いです。

博物館

世界電気通信および情報社会の日

世界電気通信および情報社会の日

1973年5月17日国際電気通信連合(ITU)が「世界電気通信の日(World Telecommunication Day)」を制定しました。1865年のこの日にITUの前身である万国電信連合が発足したことを記念したものです。2005年11月国連総会の会期中に開かれた世界情報通信サミットにおいて世界電気通信の日と同じを「世界情報社会の日(World Information Society Day)」とすることが決議され、国連総会で採択されました。翌2006年ITU全権大使会議において、2つの国際デーをあわせて「世界電気通信および情報社会の日」とすることが決議され、今日に至っています。

昔は電気通信は工学的な意味だけでしたが、現在では電気通信によって伝送される情報の重要性が高まってきており、情報通信と電気通信の境目が薄れてきているので統合されました。電気通信には大まかに分類して有線通信と無線通信がありますが、近年は無線通信が圧倒的に増えてきました。有線通信は安定度も高いのですが、信号を分岐する際にいろいろな装置が必要なことと、ケーブルが邪魔になります。無線通信はそうしたデメリットがないので普及していますが、問題は電波には限りがあることです。また距離が遠くなると電波が不安定になり届きにくくなります。有線でも同じですが、安定度と力はかなり違います。有線だとつないだ両端以外には信号が行かないので情報が盗まれる危険性は低いのですが、電波には両端がなく空中に拡散するため、当事者以外が容易に信号をとれるという弱点があります。そのため電波の割り当てという作業が必要で国家が管理しており、発信には認可が必要です。それで無線免許という制度があります。現在の放送はケーブルテレビを除き、無線電波によって成立していますから、政府の認証を得て放送しています。商業放送の場合は認証だけでなく使用料が課せられます。現在、その使用料を巡っての論争があるのですが、既得権益の問題もあり、なかなか議論が先に進んでいないようです。とくに放送法の改定にはNHKの受信料問題があって、技術的問題よりも政治的問題が障害になっています。

5月17日は世界高血圧デーつまり高血圧の日でもあります。日本では2007年から「高血圧の日」として実施されています。高血圧は今や多くの人が悩んでいる病気です。どこから高血圧と診断することは意外なことに国によって異なります。年齢や性別によっても異なります。血圧には上と下があり正常値は上が120-129、下が80以下というのが日本の基準です。高血圧にも段階があります。アメリカのCDCは正常値を120/80 mmHgとしており、意外なことに日本よりやや低いのです。しかし2017年以降のガイドラインは日本と同じです。

国際反ホモフォビアの日という聞きなれない記念日もあります。フランスの同性愛者活動家ルイ=ジョルジュ・タンが2005年に提唱したもので、1990年世界保健機関が同性愛を国際疾病分類から除外したことを記念しています。英名はInternational Day Against Homophobia, Transphobia and Biphobiaといい、LGBTの権利の侵害に対する認識を広め、関心を高めることを目的とした記念日です。Phobiaとは恐怖症のことで、高所恐怖症など多くの症状があります。日本人の外国人恐怖症もxenophobiaといいゼノフォビアあるいはクセノフォビアと発音されます。「反」とついていますから、LGBTを怖がってはいけない、という意味です。

生命・きずなの日でもあり、臓器提供したドナーの家族で作る「日本ドナー家族クラブ」が2002年に制定されました。5月は新緑の候で生命の萌え立つ季節であり、17日は十(とお)七(なな)で「ドナー」の語呂合せだそうです。こちらも大切な記念日です。

情報通信

結城合戦と鎌倉府滅亡

結城合戦と鎌倉府滅亡

本日は旧暦卯月16日望月です。月に一度の望月を眺めるという習慣もよいものです。もっともお天気次第なので、望月の日に満月がきれいに見えるとはかぎらないところに風情があります。それで十三夜とか十六夜という満月前後の月を楽しんだ昔の日本人は精神的な余裕がありました。月は昔も今も同じですから、昔を懐かしむには月を見るのが適しています。外国で見る月も形は同じですが、黒いウサギの部分は違います。外国旅行中に月を見る余裕のある人は少ないのですが、ディナーの後に見た空がたまたま満月だったりすると特別な想いになります。黒い部分だけでなく、大きさも色も違いがあります。空気が違うせいです。実際に月との距離が違うこともあるので、違いがより鮮明になります。英語ではrosy moon, blue moon, silvery moonなどの呼び名があり歌詞によく出てきます。日本でも月に関する歌がたくさんあります。

旧暦卯月16日にはあまり有名ではありませんが、結城合戦(ゆうきかっせん)がありました。永享12年(1440)に室町幕府と結城氏ら関東の諸豪族との間で起きた戦いです。永享7年(1435)に始まった鎌倉公方足利持氏と補佐役の関東管領・上杉憲実の対立から永享10年(1438)に永享の乱が発生、持氏は敗れて自殺、鎌倉府は滅亡しました。鎌倉府というのは鎌倉幕府ではなく、室町幕府が鎌倉地方を治めるために設置した役所です。この乱の後に6代将軍足利義教が実子を鎌倉公方として下向させようとしたのですが、永享12年(1440)3月持氏の残党や下総の結城氏朝・持朝父子が永享の乱で自殺した持氏の遺児を擁立し室町幕府に対して反乱を起こします。幕府方は総大将上杉清方や今川範忠・小笠原政康などの諸将や関東の国人などを派遣して永享12年7月29日氏朝らの立てこもった結城城を包囲しました。翌嘉吉元年(1441年)4月16日結城氏朝・持朝は敗北し討死し城は落城しました。持氏の遺児のうち春王丸、安王丸は義教の命を受けた長尾実景によって美濃で殺され、永寿王丸(後の足利成氏)は京都に送られました。結城合戦は永享の乱の延長線上の出来事ですが、合戦の規模は永享の乱よりも大きかったのです。
講談や映画で有名になった『南総里見八犬伝』は父親と一緒に結城側で戦った里見義実が、死を決意した父親と別れて落ち延びるところから始まります。『南総里見八犬伝』は江戸時代後期に曲亭馬琴(滝沢馬琴)によって著わされた日本文学史上最大の長編小説です。室町時代後期を舞台に安房里見家の姫・伏姫と神犬八房の因縁によって結ばれた八人の若者を主人公とし共通して「犬」の字を含む名字を持つ八犬士は、それぞれに仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の文字のある数珠の玉(仁義八行の玉)を持ち牡丹の形の痣が身体のどこかにあります。関八州の各地で生まれた彼らはそれぞれに辛酸を嘗めながら因縁に導かれて互いを知り里見家の下に結集します。八犬士は関東管領・公方連合軍との戦さ(関東大戦)を戦い、朝廷から停戦の勅使が訪れて和議が結び、里見家は占領した諸城を返還します。八犬士の一人犬塚信乃は捕虜となっていた成氏に村雨丸を献上し父子三代の宿願を遂げます。八犬士は里見義成の八人の姫と結婚し、城を与えられ重臣となります。やがて犬士たちの痣や珠の文字は消え瑞相も失われます。里見家第三代当主の義通も亡くなり高齢になった犬士たちは子供に家督を譲り富山に籠り仙人となります。里見家もやがて戦乱に明け暮れるようになり十代で滅ぶという物語です。ここに出てくる妖刀村雨丸は架空のものですが「ひとたび鞘から抜けば刀が露を帯び、人を斬れば村雨のごとく水が滴たたり、刃に血のりがつくことはなし」というセリフが有名になりました。八犬伝は古典歌舞伎からスーパー歌舞伎、小説や映画、テレビドラマにもなっています。漫画も数多くあり、コンピュータゲームにもなっていますから、日本の文芸に大きな影響を与えた長編物語といえます。

望月

阿弖流為

阿弖流為

京都の清水寺に参詣の折、本堂の清水の舞台の下というか、観覧の最後である音羽の滝をすぎて出口に向かう広い所の左手に「阿弖流為・母禮(アテルイ・モレ)の碑」があります。観覧の最後なので気が付く人は少ないのですが、「鬼滅の刃」のヒットの影響か最近の鬼ブームで人気も出ているようです。
延暦21年(802年)卯月15日アテルイとモレは坂上田村麻呂に降伏したとされています。アテルイは教科書にも少しだけ記述がありますが、それは坂上田村麻呂が桓武天皇から征夷大将軍に任ぜられたことによる敵方として紹介されるにすぎません。この征夷大将軍が後々江戸幕府まで将軍の役職の1つとして受け継がれたので、初代として名を遺したわけです。アテルイは本名を大墓公阿弖流為 (たものきみ あてるい)というのだそうですが、阿弖利為(あてりい)という記述もあるようで、諸説があります。音を漢字で書いたので揺れがあるのです。古文書ではよくこういう揺れがあります。アテルイは東北地方を支配していた蝦夷(えみし)の首領でモレが副首領でした。エミシとエゾは同じ漢字で表記するので混乱するのですが、エビスという読み方もあります。古事記の中の神武東征記では愛瀰詩と書かれており、古くからその存在が知られていました。エゾは現在のアイヌを指すとされ、エミシとエゾは同一という説はあの金田一京助が主張したのですが、エゾの表記は鎌倉時代からの文献にあることから、エミシとエゾについては諸説があります。
大和朝廷は古からエミシとの戦いがあり、桓武天皇は東北の地方豪族であった坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じて征伐を図ります。大和朝廷側からみれば征伐ですが、エミシ側から見れば侵略です。坂上田村麻呂は陸奥国に胆沢(いさわ)城を造営し、全国から集めた4000人をそこに住まわせました。いわば出城で現在の岩手県奥州市水沢に跡があります。城といっても城柵であり、周囲を土塁で囲み内堀を作ってその中を柵で囲ったものなので砦という方がイメージしやすいと思います。アテルイの降伏は胆沢城の完成前で、その後の150年間、東北支配の鎮守府の役割をしていました。
清水寺のアテルイとモレの顕彰碑は胆沢の人々により清水寺境内に1994年に建立されました。清水寺は坂上田村麻呂の建立とされていますが、清水寺の始まりを記した『清水寺縁起』によると、奈良の修行僧、賢心が夢で「北へ清泉を求めて行け」とお告げを受け、賢心は霊夢に従って北へと歩き、やがて京都の音羽山で清らかな水が湧出する瀧を見つけます。この瀧のほとりで草庵をむすび修行をする老仙人、行叡居士(ぎょうえいこじ)と出会ったのです。行叡居士は賢心に観音力を込めたという霊木を授け「あなたが来るのを待ち続けていた。どうかこの霊木で千手観音像を彫刻し、この観音霊地を守ってくれ」と言い残して姿を消したといいます。賢心は「行叡居士は観音の化身だ」と悟り、以後、音羽山の草庵と観音霊地を守りました。賢心が見つけた清泉は、その後「音羽の瀧」と呼ばれ、現在も清らかな水が湧き続けています。奈良時代末に清水寺の延鎮上人に鹿の狩りに来ていた坂上田村麻呂が出会い、殺生を戒められて改心して妻とともに観音に帰依して仏堂を寄進したとされます。このことから、清水寺は延鎮上人を開山、坂上田村麻呂を本願としています。
坂上田村麻呂は蝦夷征伐に向かう前にも清水寺に祈願しています。アテルイとモレは坂上田村麻呂に降伏して平安京に連行され、公卿会議にかけられます。彼らに現地支配させようという意見もありましたが、坂上田村麻呂の懇願にも関わらず、結局河内国で斬られます。戦いの現場同士の間には互いに尊敬のようなものが生まれるのですが、遠くの中央にいる政治家たちは後難を恐れるあまり原因は断ち切ってしまえ、という意見になり、それが多数になるのは古今東西の歴史が示すところです。大阪府枚方市の牧野公園に「伝 阿弖流為 母禮 之塚」碑がありますが、首塚とされていた丘陵は昭和28年の台風13号被害復旧のために重機で破壊されてしまったそうです。

アテルイアテルイ

分国法

分国法

旧暦卯月14日に今川仮名目録が制定されたそうです。東日本最古の分国法だそうですが、分国法そのものがあまり知られていません。学校で習うことはまずないのでしかたのないことですが、知っておくべき歴史の知識です。
分国法というのは各国ごとの規則で、幕府は全体的な規則だけを定め、あとは各守護大名がそれぞれに決めてよいことになっていました。一種の地方自治体制です。大永6年(1526年)今川氏親は33条からなる家法である『仮名目録』を定めました。隣国の甲斐では武田氏の分国法である『甲州法度次第』をその後に定めています。鎌倉幕府は既に御成敗式目(貞永元年1232年)を制定しており、その内容を参考にして作成されたといわれています。
御成敗式目は最古の武家法として教科書にも載っています。これだけだと全国統一的な法律のような誤解を招きますから、各国が家法のようにして領民にも知らしめていたことを知っておくことで武家社会の支配関係がよくわかります。内容は今の民法のようなものがほとんどで土地を巡る争いなどへの措置が細かく既定されています。詳細は下記の現代語訳を見てください。

https://shizuoka.veritas.jp/imakawa/kanamok.htm 条文の題名だけ挙げておきます。
第一条 名田の没収の禁止、年責増を条件とする名田の競望 第二条 土地境界線の争論
第三条 荒廃地の再開墾の境界争論 第四条 訴訟係属中の土地への私的強制執行
第五条譜代家臣の主人替え 第六条 逃亡した家臣の追求権の時効
第七条 不法住居侵入者の処理 第八条 喧嘩の法理と処罰
第九条 喧嘩の加担者の処罰 第十条 家臣の不法行為の主人の責任
第十一条 子供の喧嘩 第十二条 子供の刑事責任年齢
第十三条 知行地の売貫の禁止と許可の特例 第十四条 売却された土地に対する検地の禁止
第十五条 井戸・溝用地の借地契約 第十六条 他国人の家臣の知行の保護
第十七条 古文書を根拠とする知行権の主張の禁止 第十八条 借米債権の利息と弁済
第十九条 借銭債権の利息と弁済 第二十条 困窮した家臣の債権の特例強要の禁止
第二十一条 他人の知行地の差押 第二十二条 守護不入特権(省略)
第二十三条 駿府の守護不入特権の解消 第二十四条 海上・陸上の商品の運搬税の統制
第二十五条 国質の私的取立の禁止 第二十六条 難破船の所有権の帰属 
第二十七条 河川の流木の所有権の帰属 第二十八条 宗派の論争の禁止
第二十九条 寺浣の住職の相続 第三十条 他国との婚姻の禁止 
第三十一条 他国人の軍陣参加の禁止 第三十二条 今川館内での家臣の席次
第三十三条 他囲商人を家臣とすることの禁止

家臣のことから、子供の喧嘩に親が出るな、とか流木の所有権とか、宗教のこと、他国人の扱いなど、おおよその揉め事が想定されており、江戸時代の大岡裁判のエピソードのような裁判官の恣意が入らないように公平な裁定がなされるような法律になっていることに驚きます。これが16世紀にはあったわけで、当時の西洋では王様や司教が恣意的な裁定を下していたのと比べると随分合理的であったことがわかります。それが時代を下って江戸時代の武家諸法度になるとかなり制約的になり、取り締まりが目的になっていきます。規則やルールは一般的に最初は争いを納めるための基準であって比較的緩いものであったものが、だんだん厳しいものに変わっていき、生活を制限するようになります。一つには規則は廃止されるより追加されることが多くなるからです。学校の校則や官庁の認可規則などがその典型例です。今こそ自治について再考したいです。

今川義元

戦いの日

戦いの日

旧暦卯月13日は「巌流島決戦」の日であり、文禄の役の日でもあります。巌流島というのは通称で本当の島名は船(舟)島といい今は無人島です。ここで宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘し、負けた佐々木小次郎が通称佐々木巌流と名乗っていたので、巌流島と呼ばれるようになったそうです。普通なら勝った武蔵の名前をとって武藏島と呼びそうなものですが、この島に負けた佐々木小次郎の墓を建てたことから巌流島と呼ぶようになったそうです。
この戦いを有名にしたのは吉川英治の小説『宮本武蔵』です。そもそもの決闘の原因は何か案外知られていません。佐々木小次郎は剣術の流派・巌流を創設した剣豪で小倉藩の剣術指南役を務めていました。そこに二天一流を創設した宮本武蔵が新たな剣術指南役として雇われることになり、弟子たちの間でどちらが強いのか口論になり雌雄を決することになってしまいました。これもただの口論ではなく背景に政治的な思惑があったそうです。関ヶ原の戦いの後、小倉藩を治めることになった細川忠興は、天正15年の豊前国人一揆で豊臣軍と戦った佐々木家を懐柔する思惑があったようで剣術指南役として佐々木小次郎を登用しました。細川家の庇護の下で弟子を増やしていく小次郎に対して細川家の重臣たちはいつか反乱を起こされるのではないかと危機感を覚えるようになりました。そこで重臣たちは「一条寺下がり松の戦い」において一人で70名以上の吉岡一門を倒したことで名声がある宮本武蔵を召し抱えることにします。双方の弟子たちをけしかけ口論をさせ、そして決闘の藩命が下り、戦わねばならない状況を作り出しました。いわば重臣たちの陰謀だったのです。なぜこんな辺鄙な島を決闘の場所に選んだかというとどちらかが負けた場合に逃げられないようにするためでした。正にプロレスの鉄条網や電流ロープのような場です。この島でアントニオ猪木とマサ斎藤が血戦をしたのも、その故事になぞらえたからとされています。佐々木小次郎は剣豪らしく刃渡り三尺の備前長船長光(通称物干竿)を使用し、武蔵は船の漕ぎ手からもらった櫂(かい)の手元を削って刀身二尺五寸と一尺六寸の木刀にして使用したとされています。二天一流は二刀流ですから二本は正しいのですが、かなり作るのに時間がかかったことでしょう。小次郎の長光も現物が残っていないそうですし、この決闘はどこまで真実なのか怪しい点も多いです。小説を元にしたドラマや最近のアニメなどでは小次郎は青年美剣士になっていますが、当時すでに50歳過ぎの老人だったという資料もあるそうで、井上雄彦の漫画『バガボンド』では耳が聞こえない設定になっており、いろいろなアレンジがあります。武蔵が木刀を使用していた理由は、人を殺すことを嫌っていたからで、武蔵は数々の決闘でも木刀を使用したとされています。しかし結局は小次郎を殺してしまうのですから、意味がなかったことになります。しかし一説では一対一の戦いであった巌流島の戦いに宮本武蔵は弟子たちを巌流島に忍ばせていました。そして武蔵が佐々木小次郎を倒した後、弟子たちは起き上がってきた小次郎を袋叩きにして撲殺したそうです。なんとも卑怯な感じがしますね。そして小次郎の弟子たちは敵討ちとして武蔵を殺そうとします。武蔵は巌流島の対岸の門司城の城代沼田延元を頼って難を逃れます。こうなるともう決闘という美しい戦いではなく泥試合になってしまいます。事実は小説よりも醜い面があります。

もう1つの戦いである文禄の役は慶長の役とセットになっており、秀吉が明との戦いを目的に朝鮮半島に上陸させ、明の冊封国である朝鮮に服属を強要したが拒まれ、遠征軍をまず朝鮮に差し向けました。小西行長や加藤清正らの侵攻により朝鮮国王宣祖は首都・漢城(今のソウル)を放棄し明の援軍との連合軍でこれに抵抗しました。一旦休戦の後、4年後再び戦いとなり慶長の役になりますが、秀吉の死去により終結します。この戦争は当時世界最大規模の国際紛争でした。

巌流島

SDGsを分析する

SDGsを分析する

SDGsはなんとなく環境について考えること、という理解が広まってきました。しかしなんとなくモヤモヤした感じがしませんか。SDGsについての詳しい説明は政府、マスコミを始めあちこちで広報されていますから、ここでは別の視点から考えてみます。
まずこのキャッチフレーズを最初見た時に違和感がありませんでしたか?最後の小さなsは何なの?ということです。複数形のsを小さく書くという習慣は日本英語にはないのですが、とくにアメリカ英語にはよく出てきます。1980sは1980年代のことできちんとかけばnineteen eighties略してeightiesなのですが長いのと面倒なので米語では80sと書きます。少し前まではこういう書き方はなく、たとえば13歳から19歳までをteensといいますが、TEENsという書き方はしません。日本語では10代といえば10歳から19歳までを含み、〇代というのは十進法の桁のままですが、英語ではteenがつくのが13からなのでteensという表現があるわけです。日本語ではほぼティーンといういいますが、英語からの借用ならティーンズというのが正しいのです。小文字のsは複数形の語尾、言語学でいう拘束形態素で語ではないので語の末尾につけねばなりません。日本語の助詞つまりテニヲハは語なので「私は」のように語尾についても独立した語です。しかし省略しても意味が通じます。一方で〇代の代は助詞ではなく拘束形態素で独立した語ではないのですが、省略できません。日本語には代だけでなく、枚とか匹などのように数詞の語尾について意味を表すものがたくさんあり、それが日本語の特徴の1つにもなっています。一方で日本語には複数語尾というものはほぼ無いに等しいので、英語学習の時に非常に悩むことになります。日本語ではそもそも単数と複数をほぼ区別しません。一人でも三人でも人の方が重要で、一人だと単数、三人だと複数という概念が浮かびません。「ほら、馬がいる」では馬の数はわかりません。そういう言語は他にもあります。そこでSDGsでは小さいsをつけることで複数であることを最初から示しています。もしSDGとしたら単数ないし概念だと思われてしまいます。実際日本語訳語の「持続可能な開発目標」は抽象的です。たぶん外務省の誰かが訳したのでしょうが失敗でした。目標群とすべきところでした。
外務省の公式ページのJapan SDGs Action Platformには「17のゴール・169のターゲットから構成され,地球上の「誰一人取り残さない(leave no one behind)」ことを誓っています。」と説明されています。カッコの中の英語はそのままなので訳せなかったということなのでしょう。
Sustainableは最近、サステイナビリティとか言われるようになりましたが、ピンと来ない人が多いと思います。維持という意味なら日本英語だとkeepで「キープする」は定着しています。英和辞書を見るとsustainは「維持する、持続する」の他に「養う、扶養する」という意味もあり、さらには「支える、耐える、被る」などの意味もあってかなり意義が広い単語です。受験英語からすると扱いにくい「高度な単語」ということになります。「家計を支える」はsustain a familyですし、「敗北する」はsustain a defeatですから、日本語からは想像しにくい概念といえます。ではなぜ国連はこの単語を使ったのでしょうか。それは「誰が発音しても誤解が少ない」ということなのです。Sustainable Development Goalsは日本人がカタカナでサステイナブル・デベロップメント・ゴールズと発音すれば聞き間違えられる可能性はほぼないです。エスディーディーズの方がかえって誤認される可能性があります。日本人の有声子音は弱く発音されがちなので、STTと取られて聞き直されるかもしれません。文脈から理解される可能性はもちろんあります。英語は今では国際語になっており、それぞれの母語の人が発音するので微妙な発音の違いがあっても理解できるような単語を選んでいます。それが国際英語です。日本人にとって若干問題なのはテイとティが混じりやすいことで、よくテレビでサスティナブルといっているのを見かけます。

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