ヴァルプルギスの夜

ヴァルプルギスの夜

4月30日はヴァルプルギスの夜の日です。この日を知っている人は北欧とドイツ北部の習慣に詳しい人です。簡単な説明としては5月1日がMay Dayでその前日の夜のことで、ハロウインや追儺とよく似た風習です。メーデーは労働者の祭典という理解が日本では広がっていますが、北欧やドイツでは春の祭典の日で、夏至祭や冬至祭の真ん中の春の日で、秋の日が11月1日でサアオインと呼ばれています。日本の春分や秋分と考え方は同じですが、日本とは気候が違うので春の始まりというか夏の始まりと冬の始まりという日にお祭りをするのです。ヴァルプルギスの本来の意味は「死者を囲い込むもの」だそうで、北欧神話の主神オーディンがルーン文字の知識を得るために死んだことを記念するものとされています。その夜は死者と生者との境が弱くなる時間なので、かがり火を焚き、生者の間を歩き回るといわれる死者と無秩序な魂を追い払います。それが翌日の光と太陽が戻るメーデー(五月祭May Fair)を祝うことにつながります。北欧のヴァイキングたちが春を祝った風習がヨーロッパに広まることでヴァルプルギスの夜の祭りとなったそうです。
ドイツの伝承ではヴァルプルギスの夜は魔女たちがブロッケン山で集い彼らの神々とお祭り騒ぎをすることになっているそうで、ブロッケンというのはあのブロッケン現象の由来になった山の名前です。ブロッケン山は中央ドイツ北部にあるハルツ山地の最高峰でブロッケン現象による自然現象と魔女の酒宴がヴァルプルギスの夜に催されることで有名になりました。ちなみにブロッケン現象とは見る人の影の周りに虹に似た輪が現れる現象で最初にこの自然現象が報告されたのがブロッケン山なので、この名前があります。日本でも見られる気象で、ご来迎とは本来、こういう環状の虹が見えることをいいます。
ゲーテの『ファウスト 第一部』での場面は「ヴァルプルギスの夜」と呼ばれ、第二部での場面は「古典的ヴァルプルギスの夜」と呼ばれています。それを下敷きにしたメンデルスゾーンの『最初のワルプルギスの夜』という楽曲もあります。ドイツでは知られた習慣なので、アドルフ・ヒトラーとヨーゼフ・ゲッベルスらの側近数名は1945年の4月30日から5月1日にかけてのヴァルプルギスの夜に自殺しているそうです。ヒトラーらがその日は悪魔崇拝のうえで重要な日であると信じていたからだという説もあります。
現代のヴァルプルギスの夜はどちらかというと酒を呑んで大騒ぎをする感じです。焚火をあちこちで焚くので異様な興奮があるのでしょう。フィンランドではアルコールの消費量が異様に多く、また大学生たちが下品ないたずらをするようです。翌日の五月祭は家族でピクニックといった健康的な娯楽中心なのですが、一部の学生たちは徹夜でバカ騒ぎをして翌日まで持ち越すということもあるようです。日本でも昔は春の花見で酒を呑んで騒ぎ、喧嘩するようなことがよくありました。前日から騒ぐことはなかったですが、冬の我慢の季節が過ぎて開放的になるのは古今東西同じなのかもしれません。
フィンランドの隣国エストニアではドイツ文化の影響からヴァルプルギスの夜は魔女の会合と酒宴の夜であると考えられていて、現在も一部の人々は魔女の出で立ちに着替えてカーニヴァルの雰囲気を漂わせて街頭に繰り出すのはハロウインと同じです。

ヴァルプルギス

昭和の日

昭和の日

4月29日は昭和の日で休日、というかゴールデンウイークの初日です。最初は昭和天皇誕生日で、それがみどりの日になり、みどりの日が5月4日に移ったので昭和の日になりました。「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」と祝日法に定められています。そして移動させられたみどりの日は「自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ」という定義のまま押し出されたかっこうです。要するに根拠がはっきりしないまま、休日だけを確保したという政治的理由であることは明確です。昭和時代も戦前は天長節と呼ばれていて、皇后陛下の誕生日である地久節とセットになっていました。それが戦後、天皇誕生日となり皇后誕生日は廃止されました。このあたりに政府の天皇に対する考えと、祝日に関する考えが伺えます。
日本を除く諸国では、祝日は独立記念日の他は宗教行事か、軍事行事あるいは特定の人の誕生日です。日本だけが宗教性と軍事色を消し、天皇を除く特定の人の誕生日を祝日としない特殊な政治体制になっています。そもそも昭和の日にしろ、みどりの日にしろ、ゴールデンウイークを作るために設定されたとしか思えないご都合主義的な法律で、意義は後付けであることが明白です。それならいっそ4月30日、5月1日、5月2日も祝日にすればいいものをそこは平日扱いにするため、そこに土曜日や日曜日が来るため毎年変則的になります。一方でハッピーマンデーとかいう代休を設定したため、月曜日休みが増えて学校は困るという実態があります。学校側からすると、4月に入学があり、2週間してようやく落ち着いた頃に長い休みが来るので、学生生徒の気分が勉学に維持しにくくなります。会社でも同じことが起き、五月病が発生します。国全体として見るとあまり利があるようには思えません。なぜこんな不合理なことがいつまでも続くのか不思議な現象です。
そもそも本来は5月5日の端午の節句しかなく、そこに昭和時代に天長節が加わってきました。戦後になって5月3日の憲法記念日が加わり、さらに5月1日のメーデーで会社は実質上休み、学校も一部教員が参加するため自習になったりしていました。昔、土曜日は半ドンといい午後から休みでしたから、4月29日の天皇誕生日から5月5日までの1週間が休みの日やら、自習の日やら、午後休みの土曜日や日曜日が来て変則的な1週間が毎年ありました。当時は振替休日もなかったので、毎年カレンダーが変則的という不都合があり、整理して連休にしたということなのですが、目的は休みを増やして観光産業を盛んにしようという政策が中心でした。ゴールデンという表現も日本英語です。その政策の延長線上に振替休日制度ができ日曜日と休日が重なった時は月曜日にするという不合理な政策があり、さらに祝日を動かして連休を多くするという休日増加政策になりました。
しかし今の時代は、休日に仕事をしなければならない人も多く本当に国民の役に立っているのか再考すべき時期だと思われます。メーデーも形骸化しつつあり、労働者でも参加する人が激減しています。
そして有給休暇制度や育児休暇などが徐々に促進されつつあり、大企業と零細企業や非正規労働者など労働者間の差が大きくなってきています。諸外国並みに宗教行事や軍事行事のような政治より強い力による祝日の方が、国民全員の祝日になると想像されます。

ゴールデンウィーク

サンフランシスコ条約と日本の独立

サンフランシスコ条約と日本の独立

サンフランシスコ講和条約は1951年9月に第二次世界大戦・太平洋戦争後に関連して連合国諸国と日本との間に締結された平和条約で、通称がサンフランシスコ講和条約です。サンフランシスコ平和条約ともいいます。日本とアメリカとの安全保障条約(安保)も同時に署名されました。発効が1952年4月28日ですから、本来この日が日本の独立記念日です。しかし日本人のほとんどはそう考えていません。それは1945年8月15日の終戦で太平洋戦争が終わったという認識でいるからで、その後のアメリカ軍占領時代は日本には主権がなかったことは無視されています。この条約を批准した連合国は日本国の主権を承認したということなので国際法上はこの条約により日本と多くの連合国との間の戦争状態が終結したことになります。ソビエト連邦は会議に出席したのですが、アメリカ軍の駐留に反対する姿勢から条約に署名せず現在に至っています。インドネシアは条約に署名しましたが議会の批准はしませんでした。中華民国(現在の中国とは別)とインドは出席しませんでした。その後日本はインドネシア・中華民国・インドとの間で講和条約を締結しました。条約の詳細を学校では習いませんが現在につながる重要な案件がたくさんあります。領土の放棄または信託統治への移管として以下が承認されています。
1.台湾(フォルモサ)・澎湖諸島(ペスカドレス)の権利、権限及び請求権の放棄
2.朝鮮の独立を承認。済洲島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対する全ての権利、権原及び請求権の放棄
3.千島列島・南樺太(南サハリン)の権利、権限及び請求権の放棄
4.国際連盟からの委任統治領であった南洋諸島の権利、権限及び請求権の放棄
5.南極(大和雪原など)の権利、権限及び請求権の放棄
6.新南群島(スプラトリー諸島)・西沙群島(パラセル諸島)の権利、権原及び請求権の放棄
7.南西諸島(北緯29度以南。琉球諸島・大東諸島など)・南方諸島(孀婦岩より南。小笠原諸島・西之島・火山列島・沖ノ鳥島・南鳥島をアメリカ合衆国の信託統治領とする
意外に戦前の日本の領土が広かったのと、現在の本土以外はほとんど接収されてしまったこと。そして現在問題の竹島と尖閣諸島はここに含まれていません。一方で南西諸島や琉球、小笠原諸島はアメリカから返還されています。返還というのは正確ではなく信託統治領を解除したわけです。現在中国が侵略している新南群島や西沙諸島は以前の日本の支配下にあったものだったのです。一方でソ連はこの条約に署名していないので、現在の日本が主張する北方領土は千島列島に含まれるのかという議論があると同時に南樺太についてもソ連との条約が成立していないので、四島に限るのではなく南樺太や千島列島全域についても議論すべきという意見があります。幕末から明治にかけて日本とロシアの間で何度も樺太と千島列島の交換をしているので、どれが固有の領土といえるのかも議論のまま現状のソ連の実効支配が続いています。
朝鮮の独立については韓国が1945年8月15日、北朝鮮は1948年9月9日となっていて同時ではありません。単純に同時に南北に分かれたわけではありません。
今年で「独立後」70周年なのですが、そういう機運がないのも不思議なことです。

戦争終結08

春土用戌の日

春土用戌の日

旧暦弥生27日は春土用の戌の日です。夏土用の丑の日に鰻を食べるということは有名ですが、なぜなのかを知っている人は少ないです。まず土用が年4回、季節の変わり目にあることは以前説明しました。その土用の中で、春土用は戌の日、夏土用は丑の日、秋土用は辰の日、冬土用は未の日に特定の色の食べ物を食べるとよい、とされています。色の話を先にしますと、青春、朱夏、白秋、玄冬をごぞんじでしょうか。青春は有名で、白秋は詩人として有名なのですが、実は季節と色と動物がセットになっています。動物は青龍、朱雀、白虎、玄武で龍と鳥と虎と亀です。これを四神と呼びます。これらにさらに方位が加わり、四神は青龍が東、朱雀が南、白虎が西、玄武が北を守護しています。干支はさらに時間にも割り当てられており、子が0時ないし24時、午が12時です。それで昼の12時前が午前、12時後が午後となるわけです。また十二支は月にも割り当てられており、1月は寅から始まります。子ではないことに注意してください。すると弥生3月は辰、水無月6月が未 長月9月が戌、師走12月が丑になります。陰陽五行説では正反対のことを相克といい、対立や矛盾を意味し、互いに相手に勝つ関係にあることで、木は土に,土は水に,水は火に,火は金に,金は木にそれぞれ勝つとされています。そこで各土用で体調に気をつけなければならない時には相克の物を食べることで陰と陽を打ち消す必要があると考えます。春の土用では弥生の辰の相克は長月の戌、同様に夏の土用は未の相克の丑の日、秋の土用は辰の日、冬の土用は未の日が決まります。これで春はいのつく食べ物、夏はうのつく食べ物、秋はたのつく食べ物、冬はひのつく食べ物という謎が解けます。文章だとわかりにくいのですが、検索して干支図を見てください。時計の文字盤のようになっていて意味がすぐにわかります。こういう時はアナログの方がわかりやすいです。次に色ですが、これも相克なので、春は白、夏は黒(玄)、秋は青、冬は赤(朱)ということがわかります。相克を組み合わせると春は白くてイのつく食べ物となります。白くてイのつくものとしてイカが一番多いのですが、実は鰻は冬の方がおいしいのと同様、イカも夏の方が旬です。無理してイカを食べなくても、白いものならたくさんあります。豆腐やごはん、うどん、パン、餅などの炭水化物、牛乳やヨーグルトなどの乳製品、大根、かぶ、もやし、白菜、たまねぎなどの野菜もあります。リンゴも皮をむけば白いです。じゃがいも、さといもなどの根菜類も白いです。シラスは文字通り白いですが、タラ、タイなど白身の魚もいろいろあります。デザートにはホワイトチョコやバニラアイス、白玉、雪見大福などがあります。さらにかまぼこや肉まん・あんまん、ゆでたまごなども白い食べ物です。イのつくものはインドカレー、いなり寿司、いぶりがっこ、芋煮、炒り卵、いくら丼、石狩鍋、いたわさ(しかも白い!)、出雲蕎麦、稲庭うどん(これも白い!)、石焼芋、石焼ビビンバなど、デザートにはいちじく、いちご、いよかんなど。魚ならイセエビ、イワシ、イシダイ、イナダ、イワガキ、岩ノリなどもう豊富です。変則的ですが焼肉のイチボとか、イベリコ豚の生ハムなどもおいしいです。意外にたくさん選択肢がありますので、お好きなものを。
この日は哲学の日でもあります。普段馴染みのない分野ですが、白いものを食べながら、たまにはデカルトとかカントとか西田とか読んでみるのも頭の栄養になり、土用の過ごし方としてはよいと思います。

ヨーグルト

世界知的所有権の日

世界知的所有権の日

4月26日は世界知的所有権の日World Intellectual Property Dayです。知的財産が日常生活で果たす役割についての理解を深め、発明者や芸術家の社会の発展への貢献を記念するために、世界知的所有権機関 (WIPO) が2000年に制定した記念日だそうです。またこの日に会わせて「世界知的所有権機関を設立する条約」が発効しました。内容は「中小企業支援機関マップ」「テクノロジー・ブランド・農作物・文化および先住民族知識」「ドメイン紛争解決」などですが、そもそも日本ではWIPOについてほとんど知られていない状況です。世界知的所有権機関及び世界各国で種々の記念行事が開催され、特に中国では大々的なキャンペーン等が行われ知的財産を保護する姿勢を内外にアピールしていますが、実施となると疑わしいところです。一方、日本では「世界知的所有権の日」を記念する行事は盛んではないです。日本でも特許などの争いは多いのですが、アイデアを尊重する気風は強くないと思われます。形にならないと価値がない、と考えている人が多いでしょう。ましてアイデアに投資するという考えもないように思われます。よく社内でアイデア募集というのが行われますが、採用されて利益が出て初めてわずかな賞金が出る、という程度です。実際、ノーベル賞をもらえるレベルの発明で会社がかなり利益を上げてもボーナス程度ですから、訴訟になるのも無理はないです。頭脳の海外流出の原因は日本の企業側にあり、個人のモラルに責任転嫁するのはおかしな風潮です。アイデアが知的所有権の対象であり資産であることを理解しないと日本の知財は流出し、知力が失われていくだけ、ということに気づかないと日本はますます遅れていくだけです。その知財を生み出すのは教育なので、そこにも投資すべき、ということにも気が付いてほしいです。

さて、別件ですが、この日は海上自衛隊の日です。1952年(昭和27年)海上自衛隊の前身である海上警備隊が創設されたことにちなんで2013年(平成25年)に制定された比較的新しい記念日です。この日は各基地において自衛艦を信号旗などで飾り立てる満艦飾が行われます。その様子から、洗濯物が物干し竿や物干しロープにびっしりと下がって翻る様子を満艦飾という表現がありました。満艦飾はいろいろな祝日にも行われ、在日米軍はアメリカ独立記念日とクリスマスに、そして天皇誕生日にも満艦飾と電灯艦飾を行なうそうで、海軍同士互いに敬意を払う習慣があります。海上自衛隊は外国からは海軍Japan Navyとみなされています。日本の海上警備を行う警察活動は海上保安庁の管轄であり外国から見ると沿岸警備隊Japan Coast Guardで諸外国では軍隊の扱いですが、日本では国土交通省の管轄というのも不思議な制度です。日本の常識は世界の非常識の1つといえます。
有名な海軍カレーですが、船の勤務は単調なので曜日を忘れないために金曜日にカレーを出すようにした、というのは俗説で、本当は土曜日に出していました。理由は昔は土曜日が半ドンで午後は休みのため早く出られるように簡単に食べられるカレーを出したということだそうです。やがて土曜日も休みになったので、それが金曜日に移ったというのが事実だそうです。昔の海軍の歌に「月月火水木金金」というのがありますが、それだと週2回カレーが出ることになるので、金曜カレーというのは変だとずっと思っていましたが、ようやく謎が解けました。海上自衛隊で金曜日の昼食にカレーライスが出るになるのは昭和60年(1985年)ごろ以降のことだそうです。

知的所有権

DNA Day

DNA Day

4月25日はInternational DNA Dayです。1953年4月25日ジェームズ・ワトソン、フランシス・クリック、モーリス・ウィルキンス、ロザリンド・フランクリンと同僚らが『ネイチャー』にデオキシリボ核酸(DNA)の構造を論文として出版したことを記念して、アメリカの上院と下院の決議により祝われました。しかしこれは1回限りの祝い事と宣言され毎年の記念日とされなかったのですが、2003年以降はアメリカ国立ヒトゲノム研究所(NHGRI)の主催で4月25日より少し早い4月23日(2010年)、4月15日(2011年)、4月20日(2012年)にDNAの日が祝われているそうで、けっこうバラバラのようです。日本ではDeNAという同じ発音の野球チームないしゲーム会社が知られていますが、コロナ禍のせいでDNAもけっこうニュースに上がってきて、多少混乱しています。
DNAの正式名称はdeoxyribonucleic acidでデオキシリボース(五炭糖)とリン酸と塩基 から構成される核酸という定義です。しかし化学に疎い一般人には何のことだかわからないので、二重らせん構造の立体模型から想像していると思われます。そしてこれが遺伝情報を伝える物質だと理解していることと思います。それでかまわないのですが、せっかくのDNAの日なので、もう少し踏み込んでみましょう。
そもそも核酸とは何か。原子核と同じ核という表現が使われるので放射能と関係があるような誤解も生まれそうです。核兵器とか核拡散防止のような用語があるので連想するのも無理ありません。核酸は原子核とは関係がなく、英語のnuclearの訳語として核を当てていることと、本語の核が本来は種の外の硬い部分を指す言葉だったのが入り混じってわかりにくくなっています。なまじ漢字の意味がわかる分、混乱も起きやすいわけです。別名のヌクレイン酸にすれば誤解は減るかもしれません。もっとも酸は塩酸や酢酸などの酸と同じなので酸っぱい感じを連想するかもしれませんがこれも誤解です。「核酸とは塩基・糖・リン酸から成るヌクレオチドが長い鎖状に結合した高分子物質で、糖の部分がデオキシリボースであるデオキシリボ核酸( DNA )とリボースであるリボ核酸( RNA )に大別され,生物の増殖をはじめとする生命活動の維持に重要な働きをする」と定義されています。重要なのは塩基の部分でアデニン、グアニン、シトシン、チミン、ウラシルがあり、それぞれ A, G, C, T, U と頭文字をとっています。この塩基が連続して連なっている図は見たことがあるかもしれません。
ウイルスにはDNAをもつものとRNAをもつものがあり、現在パンデミックを起こしている新型ウイルス(COVID-19)はRNA型です。そこでmRNA(mはメッセンジャ)を人間の細胞に入れると細胞内のリポソームという物質があるたんぱく質を作り出し、それがこのウイルスへの抗体となるしくみです。本当はもっと複雑なしくみなのですが、ここではこの程度にざっくりと説明しておきます。ワクチンというと従来は毒性を弱めた菌そのものを注射して自然免疫の抗体を作らせるという理解だと思いますが、それが生ワクチンです。mRNAワクチンはそれとはまったく異なるもので遺伝情報だけを入れるタイプです。遺伝子を注射するタイプのワクチンもあり、最近組み換えたんぱくによるワクチンも承認されるようで、体質に合わせて選択できるようになってきています。DNAが遺伝情報であることが知られて遺伝子だと古いような感覚かもしれませんがDNAには遺伝情報をもっている部分ともっていない部分が存在し,遺伝情報をもっているDNAの一部が遺伝子ということも知っておいてください。

DNA

壇ノ浦

壇ノ浦

元暦(げんりゃく)2年/寿永4年弥生24日壇ノ浦の戦いで平家は滅亡します。元号が二つあるのは天皇を巡る争いがあったからです。元暦は寿永の後から文治の前までで西暦でいう1184年から1185年までの短期間です。この時代の天皇は後鳥羽天皇で源氏と平家の争乱の時代でしたから、平家ではこの元号を使用せず寿永を引き続き使用していました。ところが元暦2年7月9日に大地震が発生し、京都でも被害が大きかったため翌月の8月14日に文治に改元されました。文治地震は壇ノ浦の戦いの約4ヶ月後に発生したため『平家物語』には「この度の地震は、これより後もあるべしとも覚えざりけり、平家の怨霊にて、世のう(失)すべきよし申ければ、心ある人の歎きかな(悲)しまぬはなかりけり。」(こんなに酷い地震は今後はもうないと思われるくらいで、これは平家の怨霊によってこの世が滅ぶのではないかと噂が流れ、心ある人は皆嘆き悲しんだ)とあり、相当酷いものであったことが伺われます。地震や疫病流行など自然現象のもたらす災害による改元が昔はよくありました。戦争が起こる時は地震や疫病、飢饉など自然災害の時期と重なることが多いです。そういう時は人心の一新を図るため改元が行われたのです。
壇ノ浦は現在の下関海峡で行われ、平知盛と源義経の水軍同士の戦いでした。当初は水軍戦に慣れた平家有利でしたが、潮の流れが反転し、義経軍はそれに乗じて猛攻撃を仕掛け、平氏の船隊は壊乱状態になり、やがて勝敗は決しました。『平家物語』は敗北を悟った平氏一門の武将たち、女性たちや幼い安徳天皇が次々に自殺してゆく、壮絶な平家一門滅亡の光景を描写しています。平家物語である平曲では琵琶の寂しげな音色と悲しい物語が一層、心に迫るものがあります。「祇園精舎の鐘の声」から始まる冒頭部分が有名ですが、この段もお勧めです。ただ昔は盲僧琵琶のものが多かったのですが、現在は筑前琵琶による、より派手な弾奏がほとんどです。盲僧の琵琶は4弦で持ち歩きしやすい小さな型ですから、響きも弱いのですが、筑前琵琶は5弦で型も大きいので迫力があります。
平知盛は建礼門院や二位尼らの乗る船に乗り移り「見苦しいものを取り清め給え」と自ら掃除をしてまわます。形勢を聞く女官達には「これから珍しい東男をごろうじられますぞ」と笑ったので、これを聞いた二位尼は死を決意して、幼い安徳天皇を抱き寄せ、宝剣を腰にさし、神璽を抱えました。安徳天皇が「どこへ連れてゆくの」と仰ぎ見ると、二位尼は「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございますよ」と答えて、海に身を投じました。しかし入水した建礼門院は助け上げられ、八咫鏡と神璽(八尺瓊勾玉)は回収されましたが、二位尼とともに入水した安徳天皇は崩御し、天叢雲剣も海に没してしまいました。世にいう三種の神器の1つはこの時に失われてしまったのです。今熱田神宮にある草薙の剣はレプリカということになっています。
壇ノ浦の戦いの前には屋島の戦いがあり、ここでは有名な那須の与一の扇の的を射る話があります。那須与一にはいろいろな伝説が各地に残っており、歴代の那須家当主が与一を名乗ったため、墓所が各地にあります。一方の扇の的を差し出した平家方の玉虫御前にもいろいろな伝承が残っています。これに限らず、平家の落武者の伝説は各地に残っていて、この源平の戦いがいかに重要であったかを物語っています。なお二組に分かれて戦うことを源平合戦といい、源氏の白旗と平家の赤旗から紅白戦という表現が広がりました。紅白歌合戦の合戦の由来は男女別ではなかったのです。

赤間神宮

マルコーニと著作権

マルコーニと著作権

4月23日は国際マルコーニデイでかつ国際図書・著作権デイです。一見関係なさそうに見えますが、今日の情報化時代では深い関係がでてきました。マルコーニの名前は工学系の人は誰でも知っていますが、文系の人は知らないかもしれません。無線技術を高めた人で、1885年4月23日に、自宅の窓からモールス信号で2.4kmの無線通信に成功したことが世界初の無線通信だったことを記念して国際マルコーニデイが制定されました。今日の家電で無線を使っていないものはほとんどがない位ですし、スマートフォンやテレビなどの公共電波やリモコンなど身近に通信技術が使われています。一般の人々にとって、目に見えない電波がどうして作用しているのか不思議ですね。電波通信技術はマルコーニが発明したのではなく、すでにヘルツ、テスラなど今は別の分野で名前が知られている人々の発明をうまく組み合わせて性能を高めて行ったいわば実験家というのが正しい評価かもしれません。実際、現代の科学技術も一人の発明は少なく、いろいろな発明や技術を組み合わせて高度化したものです。マルコーニも多くの技術の特許をもった反面、数多くの特許争いに巻き込まれています。特許というのは特定の技術に対して国家が知的財産権を保証するものですが、一方で軍事技術のように国家が秘匿し公開しない場合もあるので、政治や外交とも絡み複雑な関係になります。

著作権はその名の通り本の出版に関する権利で、ユネスコが1995年「読書・出版・著作権(知的財産権)保護の促進」に関する国際デイを定めました。「書籍とその作者たちに敬意を表する」記念日で「読書の楽しみを特に若い人々に伝えるとともに、人類の文化的・社会的進歩に果たした人々のかげかえのない貢献への敬意を新たにすること」が目的とされています。この目的で見る限り当時は印刷による図書が想定されていたのですが、近年、電子技術の発達により、電子書籍や書類の電子的複製が容易になったことで、著作権と知的財産権の境界が曖昧になってきました。すでにラジオやテレビなどの電波媒体による作品があり、音楽の著作権の問題もあったのですが、インターネットという媒体が出現したことで、通信媒体による作品の問題が加わってきました。そうした事情もあって日本の著作権法もたびたび改正されてきました。令和3年にも改正が行われ令和4年から実施されていますのでご注意ください。実際に利用される場合には必ずご自分で最新のものを確認してください。令和3年改正では図書館関係の権利制限規定の見直しと放送番組のインターネット同時配信等に係る権利処理の円滑化が中心となっています。図書館では従来、来館しての閲覧が中心でしたが、コロナ禍でのニーズのこともあり、通信での利用がしやすくなりました。一方で勝手に拡散するリスクもあるので、その手続きや手段が厳密化されます。放送番組のインターネット同時配信についてはこれまで様々なハードルがありました。たとえばテレビ番組も映像の著作物として保護されます。テレビ番組を無断で公衆に放送することは著作権侵害になります。しかしサブスクリプションサービス等で同時配信する場合にも著作権者の許諾が必要なのが原則です。そこで放送事業者が同時配信をしやすくする法改正がなされました。NHKplusやTVerが同時配信できるようになったのはそのためです。
電波通信と著作権法が直接に関わってきた例です。

著作権

薄葬令

薄葬令

大化2年(646)弥生22日に薄葬令が出されました。日本史の時間にもたぶん習いませんが、大化の改新の1つです。大化の改新については中臣鎌足と中大兄皇子、大海人皇子によって起こされ、豪族を中心としたこれまでの政治が天皇中心の政治へと移り変わったということを学校で習います。それ以外の項目については習うことは少ないので、年号と三人の名前だけ覚えることになり、それぞれが藤原鎌足、天智天皇、天武天皇になるということだけ覚えることになってしまいます。
実際に改革されたといわれているのは天皇を次々と擁立したり廃したりするほど権勢を誇っていた蘇我氏を皇居において蘇我入鹿を暗殺して滅亡させた乙巳の変(いっしのへん)に始まり、初となる元号の使用、男女の法の制定、仏法興隆、十師の任命、国博士および内臣・左大臣・右大臣の新設、私地私民の売買の禁止、飛鳥から難波長柄豊碕宮(前難波宮)への遷都など様々な改革が進められ、翌年(646年)改新の詔も発布されました。
改新の詔はヤマト政権の土地・人民支配の体制(氏姓制度)を廃止し、天皇を中心とする律令国家成立を目指す内容となっていて、その中にこの薄葬令が含まれています。これは身分に応じて作ってよい陵墓を制限し人馬の殉死殉葬を禁止、天皇の陵にかける時間を7日以内に制限するという趣旨です。これによりそれまで盛んであった前方後円墳などの大きな墳墓が作られることがなくなり古墳時代が終わったことを意味します。
しかし完全に終わるのではなく、朝廷の権力が及びにくい東北地方ではしばらく墳墓が作られたようです。やがて仏教の浸透とともに火葬が導入されるようになり、707年に崩御した文武天皇は火葬の後に中国風の八角墓に葬られ古墳が終了します。火葬はそれ以前から日本に入ってきており、飛鳥時代に仏教とともに入ってきたという説が有力らしいのですが、古墳の中には火葬にされた人骨も出土するので、諸説があるというのが実情です。火葬と仏教の関係は釈尊が入滅後に火葬にされたとされていることが根拠のようです。
薄葬令で墳墓の造営はなくなっても、火葬がそのまま普及することはなく、普及したのは江戸時代のようです。火葬にはかなりの薪が必要ですから、それは贅沢なので貴族だけに限られていて、庶民は土葬だったようです。江戸時代でも田舎は土葬のままで、土葬は戦前まで続いていました。現代では火葬が当たり前のように思われていますが、仏教以外の宗教、たとえばキリスト教などは火葬をしませんし、神道や儒教でも火葬はしません。明治時代、仏教を禁じ神道を重んじた廃仏毀釈の時には火葬禁止令が出たほどです。しかし土葬墓は広い土地が必要で都市部での墓地不足になり明治8年(1875)に火葬禁止令を解除することになりました。またコレラなど指定伝染病患者の土葬が禁止され、公的な火葬場の設置や重油使用や設備も改善し火葬が増えていきます。現代の一部には散骨なども出てきていますが、これは火葬が前提であり、また埋葬法にも触れるのですが、これも墓地不足で埋葬が高額になることや家単位の墓への抵抗感があるのかもしれません。
埋葬という習慣はネアンデルタール人からあったということで、他の動物には見られない人間としての特徴の1つとされています。埋葬は死体を目の前から見えなくするという抽象的な行為であり、野ざらしにすることはどの民族にも共通の禁忌となっています。散骨といえど埋葬と同じく目の前から見えなくすることは同じで、人は形態は異なっても、遺体に処置を施して目の前から隠すと同時に儀式を行うことは避けられないことを示しています。

大化の改新

キリシタン禁令

キリシタン禁令

慶長17年(1612)弥生20日にキリシタン禁令が公布されました。キリシタンを漢字で書くと切支丹で、これは古いポルトガル語のChristanからきています。ポルトガルの宣教師がキリスト教を日本に持ち込んだ戦国時代から明治の初めごろまで使われてきました。切死丹あるいは鬼理死丹という書き方もありましたから、夜露死苦みたいなものかもしれません。今風の読み方だとクリスタンになるはずですが、昔は子音をすべてイ行にしていました。少し前までinkはインキ、strikeはストライキで未だに残っているものもあります。greenも昔の英語辞書にはギリーンと読み仮名が振ってありました。ウ行にすると原語に近いと誤解している人が多いですが、母音がないのが子音字の読み方ですから、イでもウでも同じことです。現代日本英語は子音にウを付けるのが流行りで、zedやbedなどは今でも子音を無声化してそれにオをつけるので、ゼット、ベットとなって定着しています。バテレンは伴天連と書きますが、カトリック神父のポルトガル語padreパアドレをこう書いたのが起源だそうです。伴天連追放令は慶長15年(1587)7月24日で秀吉により先に公布されました。なぜ追放したのかは解説が多いのでここでは省略しますが、そもそも宣教師は何をしに日本に来たかを改めて考えたいと思います。
カトリックの修道僧は能力により概ね4つの集団に分けられます。神学という教義を研究する学問集団、民衆への説教をする能弁な説教集団、重要な食物であるパンと葡萄酒を作る職人集団、海外に出向いて布教する布教集団です。職人集団として有名なのがドン・ペリニヨン、あの超高級シャンパンの通称ドンペリはこの人の名前がついています。彼が直接シャンパンを作ったわけではなく、たまたま放置しておいたワインが発酵して発泡ワインになったことを記念してモエシャンドン社が名前を冠したのです。今でも欧米の修道院に行くと自家製のパンとワイン、たまにオリーブ油やワイン酢も売っている店が併設されていることがあります。
日本にやってきたのは布教集団の宣教師で、わざわざ地の果てのようなところにまで来るのは植民地主義の本国の先兵としての意味がありました。実際、布教が進んで改宗者が増えたところで、キリスト教徒が反乱を起こし、それに乗じて本国から軍隊がやってきて占領するというパターンが世界的にありました。とくにアジア諸国のように仏教という強力な宗教がなかった南北アメリカ大陸では、このパターンが有効に働きましたから、結果的に植民地となり欧州の言語・宗教・文化がそこを支配するようになりました。北米が英語圏、中南米がスペイン語圏なのは植民した時代と国が異なるからです。しかし欧州文化が純粋なまま伝承されることは少なく、民族が混血化するのと同時に言語や文化や宗教も混淆化して現在に至っています。南北アメリカは宗主国とは違ったまま発展し独自に近く変化しています。
こうした情報は当時の日本にも入ってきたということです。織田信長の時代は単純に異国のものということで素直に受け入れていたのですが、豊臣秀吉の時代になると情報が豊富になってきて、警戒心も強くなりました。秀吉は明にまで行こうとしていた位ですから、当然アジア諸国の情報をもっていました。山田長政がシャム(タイ)に行った位で南蛮貿易により現地情報が入っていました。切支丹禁令や伴天連追放は悪行のように思うのは欧米の価値観であり、そのまま受け入れていれば明治維新を待たずに日本は植民地となり西欧化したことが想像されます。歴史にIFはありませんが。

キリシタン