大寒

大寒

1月20日は二十四節気の1つ大寒です。この節気が終ると春になります。今日はアホな漫才ネタを1つ。

「今日はオオサムやねえ」「アホか、ダイカンゆうんやで」
「まあどっちでもええがな。ところでオオサムは英米では秋なんやで」「嘘、いいなや」
「英語でオータムは秋のことやで。オータムコタム」「えらいこじつけや」
「ほんでもって、夏はサマーで日本は秋」「サマーのどこが秋や」
「サンマは秋の魚やろが」「なるほどなあ、って感心しとる場合やないわ」
「英語で春はスプリング」「スプリングゆうたらバネのこっちゃろ。どこが夏やねん」
「夏になったら、あちこちでプリン、プリンやろ」「あんたいつもどこ見てんねん」
「わたいプリン大好きや。デカプリン」「プリンの話はもうええわ、ほいで冬は?」
「冬はウインターや」「ウインターがなんで春なんや」
「ウインタ、ウインタで花見酒」「またえらいこじつけや」
「これでわかったやろ、季節は日本が先でアメリカが後や」「なんでや」
「日本は北半球でオーストラリアは南半球」「それは知ってる」
「南半球は季節が反対や」「そやね、日本が夏の時は南は冬」
「日本とアメリカは距離が遠い。日本は東洋でアメリカは西洋」「そうそう」
「だからアメリカの方が遅い」「なるほどなあ。ちょっと待てや」
「もうやめさせてもらうわ」

お寒いネタでございました。

四季

人間はアナログ

人間はアナログ

人間の感覚はアナログであることをきちんと理解しておくことは重要です。実は機械もほとんどがアナログです。コンピュータもデジタルなのは計算部分だけで、部品はアナログで動いています。そもそも電気はアナログなのです。コンピュータの心臓であるCPUは電気回路です。電気にはonとoffがあるので、それを1と0に割り当てて、2進法で計算させるという原理です。数字はデジタルで、普通に使う10進法の数字を2進法に変換し、その1つである1または0をbitといいます。このビットを集めて、たとえば8ビットを1つの単位と考えると、組み合わせは2の8乗つまり256通りになります。これだけあれば10個の数字とアルファベットといろいろな記号を割り当てることができます。そこでこの8 bitを1 byteバイトと設定して、数字や記号などの情報を処理するしくみです。現在GBとかMBといってるのはkキロが千、mメガが100万、gがギガで10億、tがテラで1京というように千倍になっています。ものすごい大量だということがわかります。

これはあくまでも論理と情報量の話です。ところが自然界には数字や記号のように区切ることのできないものがあります。それがアナログ情報で、むしろこちらの方が多いのが実情です。たとえば言語です。ある人が「おはよう」と言ったとして、オとハの音はつながっており、その音のつながりを聞いた人が頭の中でオとハに分離して認識しているのです。従ってその分離方法を学習していないと区切ることができません。これが外国語が聞き取れないということで、訓練することで区切ることができるようになり聞き取れるようになるわけです。

音楽も実際には音は連続していますが、譜面は音符という記号でできています。楽器を弾く人は音符に従って指定された高さの音を指定された長さで出すのですが、人により高さも長さも微妙に違いますし、そもそも高さも一定でなく揺れがあります。それが音楽の味になっているわけです。

ロボットの動きがカクンカクンとなるのは、人間の連続的な運動を記号化して区切り、その区切りに従って動かそうとするので、記号の切れ目で電気がオフとなります。ところが動かすモーターはピタっとは止れませんし、パッとは動き出せませんから、速度は山なりになり、最初はゆっくり、真ん中は速く、終わりはゆっくりにならざるをえません。そして区切りは停止します。これがアナログ情報をデジタル記号変換しアナログ運動に再変換した結果です。

それなら最初からアナログ情報でアナログ運動をさせればよさそうなものです。その技術がこれから開発されるものです。そうアナログの時代がもうじきやってきます。

アナログ

大津波の影響

大津波の影響

思いがけぬ大津波で被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。日本は10年前の東北大震災の記憶もあり、かなり慎重な対応でした。気象庁も想定外の事象で苦労されたことと思います。

私見ですが、この津波は悪いことばかりでなく、別の効果ももたらすであろうと思っています。今回の大津波はいわば太平洋という大たらいを揺らしたようなものですから、たらいの縁は波が大きくなり、環太平洋の湾岸の津波は想定外に大きかったといえます。もう1つの効果は海底から揺れたので、深海と浅海がかき回され、海中の模様が大きく変わったので、その影響が出てくると予想されます。まず深海の冷たい水と浅海の暖かい水が混ざったことで全体的な海水温がわずかに下がるだろうと予想されることです。これは風呂の湯をかき混ぜるのと同じで、表面の熱い湯が冷めます。

現在の気象の変化の原因は例のエルニーニョ、エルニーニャなどの温水塊が台風の源となる低気圧を発生させているのですが、それがなくなると台風の発生確率が減るかもしれません。

また海流が変わる可能性があり、漁場が変わる可能性もあり、豊漁になるか不漁になるかは予想がむずかしいのですが、海水がかき混ぜられることで水中の酸素量は増えるので、プランクトンの発生は促進されると予想され、豊漁の可能性も期待がもてます。

海水温の下降は現在問題となっている地球温暖化の速度を遅くする可能性もあります。温暖化で問題になっているのは大気の温度上昇なので、巨大な海が冷却すれば温度は一時的に下がるはずです。冷却水の温度が下がるので冷却効果は上がると予想されます。

一方、海上に浮遊するプラスチックはどこへ行くでしょうか。ハワイ沖とされているゴミの集積場は拡散されるでしょう。また海底に沈んだマイクロチップは海中に上昇してくるでしょう。魚が食べる確率は増えるかもしれませんし、一方プラスチックを食べるバクテリアの活動は盛んになるかもしれません。

これらの現象を現状のコンピュータでは計算できません。またデータが大きく変わるので今までの気候変更計算モデルでは対応できない可能性もありますから、新たなモデル構築も必要になってくるでしょう。テレビ報道では火山灰の影響、軽石の影響などネガティブな影響を強調して報道していますが、物事には必ず裏と表、良い面と悪い面があるものですから、必ずしも被害だけでなく恩恵もある、というのが私見です。

津波

視覚化

視覚化

色(しき)の話の続きです。最近はビジュアルという表現の意味がかなり拡大しています。ビジュアル系バンドのように「見た目」の意味にも使われます。本来は英語のvisualという形容詞なのですが、語源は見るという意味のラテン語で、同じように派生した単語にはvisit, visonなど見るという意味から連想できる語もありますが、wise, adviseのように見る意味からは連想できない語もあります。見るという意味から「わかる」という意味にも広がっていて、英語で、わかった、いう時I see.というのはここから来ています。わかるという意味がさらに広がってwise, wizardなどもありますが、こうなるともう訳がわかりませんね。文字もvがwになったのは、vとwは元々関係が深いことがわかります。

最近流行の視覚化はvisualizationの訳語です。「見える化」という表現もあるようです。わかりにくいことでも視覚化することでわかりやすくなる、ということで、たとえば感染者数の変遷が数字だけではわかりにくいのをグラフ化することで「急激に増えた」ということが理解しやすくなります。割りあいも%の数字より円グラフの方がわかりやすいのでテレビなどではよく使われます。

意外に思われるでしょうが、これはデジタルデータのアナログ化です。今はデジタル化が至上命題のような風潮ですが、実はデジタルデータは理解が難しい場合がありアナログの方がわかりやすいことがたくさんあります。たとえば「午後1時」という時刻はデジタルですが、「2時から3時までの1時間」はアナログです。デジタルを日本語にすると計数的、アナログは計量的です。英語の時間にmanyは普通名詞、物質名詞にはmuchと習ったと思いますが、これがデジタルとアナログの概念をわかりやすく説明しています。物質名詞は単数形しかない。しかしwaterが複数形になる、つまり計数的になることをごぞんじでしょうか。There are many waters in Japan.は「日本にはたくさんの湖、池などがある」と訳されます。湖や池などの水の塊は数えることができるということです。デジタルとアナログは相補的であって、どちらかを優先するものではない、ということを理解する必要があります。人間の語感はアナログで、運動や流体もアナログです。さらにいえば自然現象もほぼアナログです。デジタルデータのメリットは計算できるということで、現代のコンピュータがデジタルデータに特化しているにすぎません。一番簡単な数学としては分数はアナログ、少数がデジタルです。3分の1というアナログデータをデジタル化すると0.33…のように近似できますが、イコールではありません。円周率もアナログデータです。アナログは古臭いと思っている人がいますし、コンピュータ社会についていけない人がアナログ人間と思われていますが、人間は元々アナログであることを知ってほしいです。

したがって流行の視覚化とはデジタルデータのアナログ化であることも理解したいです。

円グラフ

色(しき)

色(しき)

色と書いてシキと読むと仏教用語になります。有名な空即是色の色です。色というのは「名に見えるもの」という意味だそうです。この語句が出てくる般若心経では「無眼耳鼻舌身意、無色声香味蝕法」とあります。これらはいわゆる感覚器官と感覚です。普通は五感であり、最後の意は心でその感覚は心の対象、ということになります。ここの説明は難しいので、とりあえず除外しておいて、実際に身体がある語感について考えたいと思います。

現代で色(しき)は視覚、声は聴覚、香は嗅覚、味は味覚、触は触覚と考えられていて、仏教用語とは考え方が違います。何千年も前の思想と現代思想を単純に比べても意味がないのですが、違いが目立つのは、身は今では皮膚、心は身体の一部ではない、ということになっています。また意は脳という器官であることがわかっています。

この感覚器官と感覚には優位性があり一般にはこの順です。視覚、聴覚、嗅覚など、どの感覚がなくなると生活に一番不便ですか?と聞かれると、人により差はありますが、視覚と答える人が多いのではないでしょうか。人間は2つの目で立体視できますが、耳は2つあっても1度に1つの音しか認識できません。空間認知はかなり難しくなります。動物によりどの感覚が優位なのかは異なりますが、人間は視覚優先のようです。ただ言語は聴覚利用が圧倒的なため、コミュニケーションにおいては聴覚の占める割合は大きいです。

最近のVRは装着器具が眼鏡であることから、視覚優先の技術だといえます。イヤフォンもついている器具がありますが、イヤフォンだけのVRは見たことがありません。最先端のメタバース機材では身体に着用して触覚を刺激するタイプもあるようです。遊戯施設のVRでは視聴覚と振動などで刺激するものもあります。そうしてみると触覚の優位性は3番目なのかもしれません。実際、嗅覚と味覚を再現する通信手段はまだないと思います。もし重要な感覚であれば人間は何があっても技術開発したでしょう。テレビ番組では食レポと称する言語つまり音声による説明をしています。またインスタ映えというように画像提示をする方法も広がっています。その結果、刺激を受けた人は「おいしそう」という想像による反応を示すことになります。VRを見た人が「~そう」という表現することはまずないと思いますから、VRは実感覚に近いのだと思われます。

仏教用語の色(しき)は目に映るものなのですが、無であり空である、と説明しています。この解説は難しいので別の機会に譲ります。この五感は英語では名詞でなく動詞で表現します。It looks, it sounds, it smells, it tastesのように自動詞で表現できますが、触覚の自動詞はありません。他動詞だとsee, hear, smell, taste, touchなどで表現できます。感覚は人間共通ですが、そこにも言語と文化が関わってきます。

五感

鏡開き

鏡開き

1月15日は関西地方の鏡開きです。関東では1月11日のところが多いようです。元は15日までが松の内で、関西は古い伝統を守っており、関東は新しい伝統に変わったということのようです。なぜ変わったのかは諸説あります。二十日正月といい、松の内が20日に明ける地域では20日に鏡開きをします。この20日は徳川家光が4月20日に亡くなったので、月命日である20日を避けるようになったから、という説があります。そうなると元は20日が松の内明けというのが元々のしきたりだった可能性があり、現状は地域によってバラバラということのようです。重要な行事のはずですが、地域差が大きいというのもおもしろいですね。

鏡開きというのは鏡餅を割って食べる日です。刃物で切ってはいけないとされています。めでたいものなので、切るのはタブーです。カチカチの餅を手で割るか木槌で打って割ります。鏡餅がなぜめでたいものかというと、歳神様の依り代(よりしろ)で元日においでになった年神様がお座りになっておられる場所です。鏡は神社のご神体にもなっているように太陽神である天照大神の象徴で、丸い餅を鏡に見立てています。神社によっては鏡餅そのものをご神体とするところもあるそうです。鏡開きで割った餅を配り、幸運のおすそ分けをするのが本来のお年玉で、食べれば幸運が身に入ることになります。それが子供にお金を渡すようになったとはずいぶん変化したものです。

雑煮も本来はこの割った鏡餅をいろいろな具材で煮たもののことで、とくに何かを指定している訳ではありませんから、例によって「ん」が付くものを入れます。大根、人参、蓮根などです。従って鏡餅のミニ版である丸餅が本来だったでしょうが、切り餅という簡便な方法に関東では変わっていったと考えられます。鏡餅は御供えでした。

現在では鏡開きの餅はぜんざいに入れて食べる地域が多いようです。ぜんざいや汁粉の小豆は赤く魔除けの意味があります。そこに縁起のよい鏡餅を入れて食べることで無病息災が叶うということです。従って、割れた餅の欠片も全部いただきます。

かきもちにして、火鉢に網を乗せて焼いて食べるという習慣がありました。かきもちは欠き餅が語源で、割った餅のことです。これを油で揚げたりして食べることもあり、いわゆるおかきです。似たようなお菓子にせんべいがありますが、煎餅と書き中国由来です。せんべいを油で揚げた歌舞伎揚げ、ぼんち揚げがありますが、これらは商品名で戦後に開発された新しいお菓子です。

まずは鏡餅を丁寧に割って、全部いただきましょう。そして松の内が終ります。

鏡開き

知・情・意

知・情・意

日本語研究の先駆者の一人に本居宣長がいます。彼は知・情・意のすべてに「こころ」という読みを与えました。普通、ココロといえば心ですが、それ以外のものにもココロという読みを与えたわけです。日本文化的にはなんとなく理解できますでしょうか。

これらを英訳してみると、intelligence, affection, intensionとなり、英語のニュアンスがわかる方なら、本居の分析がいかに的確であるかがわかります。現代風に説明するならばどれも脳の作用です。

脳の作用を英語世界(たぶん西欧社会一般)ではheart and mindに分けるのが伝統です。感性と悟性という訳もあります。精神をmindの訳語にしていますが、精神にはspiritの訳語もあり、英文解釈ではよく問題になります。近年話題になるマインドコントロールはあっても、スピリットコントロールはありえませんから、訳語連結語として精神制御はmind control しかありえないことになります。マインドとスピリットの違いは別の機会にするとして、今はheartもmindも心と訳されることが多いことに着目します。ハートは心臓という臓器を示すこともあります。マインドは脳の作用であって臓器としての脳そのものはブレインbrainです。日本語はアタマなので本来は区別していません。強いていえば首と頭の区別もしていません。このように事実を現実的に区分する方法は文化によって異なっています。まして頭の中に存在する抽象的な存在の区分はかなり違っていることが想像できます。

訳語は簡単に理解するには便利ですが、誤解の元にもなります。原語と訳語の意味のギャップに気が付かないまま納得してしまうと原語を読んだ時に誤解しやすいです。ここが翻訳の問題点です。日本では昔から訳による理解が広がっています。そのため翻訳することが重要な概念輸入でした。それで訳語が発達したという長所もあるのですが、反面誤解が増えるという短所もあります。諸外国では翻訳よりも原語のまま使用することが一般的です。ところが日本では訳語文化があるため、カタカナ語による借入も次第に日本語的解釈を加えて、さらにそれらを結合して日本独自の語彙を形成する傾向があります。それがニホン英語です。意味が同じであればカタカタ英語は立派に通用します。しかし意味が違うと誤解になります。たとえばアパートはどうにか通じますがマンションは通じません。

標題の知・情・意ですが、これらをココロと読んで理解できるヤマトゴコロが残っているでしょうか。もしかすると英語などに一旦翻訳しないと理解できないほどに欧米化しているかもしれません。改めて人のココロ、自分のココロを考えてみてはどうでしょうか。精神状態などという訳語に頼らずに。今の自分の心が知・情・意のどれなのかを。

本居宣長

事実、現実、真実(VRの続編)

事実、現実、真実(VRの続編)

あなたは事実と現実と真実の違いを説明できますか?できる方は哲学に詳しい方です。日本人の多くは深く考えずにどれも「本当」として理解していると思います。曖昧なままですね。これらの単語には共通点があります。2字漢語であること、後ろが実になっていることです。何か原因があると思いませんか?そこが理解の出発点です。

まずどれも訳語です。今は日本語の中に入っていますが、元は外国語だったわけです。英語ではそれぞれをfact, reality, truthといいます。幕末から明治にかけて多くの外来語が入ってきましたが、当時は漢語の素養のある人が知識人でしたから、漢語による造語で訳語を作成しました。有名なのは福沢諭吉で、今では完全に日本語化した語彙がたくさんあります。自由、社会、会社、資本などです。訳語でも簿記がbook keepingを意訳しただけでなく音もそっくりなのは芸術的でもあります。つまり当時の文明開化は蒸気機関や鉄道などの物だけでなく、訳語を通じて概念の輸入も行われたのです。当時の日本人知識層の理解力と創造力は大したものでした。そしてそれらの訳語が中国大陸や朝鮮半島にも伝えられたので今でも音が異なって使用され続けています。それは漢字が共通であったことが関係しています。この訳語という借入方法は昔からありました。

訳語ができた当初は概念も原語のまま理解されていたのですが、使用が増えて日本語化が進むにつれて、解釈も日本文化的になり原語の意味から少しづつ離れていくようになりました。改めて原語である英語の意味を解釈してみると、事実とは人の理解とは別に物理的に存在することであり、現実とはその事実を認識することで頭の中の存在です。真実とはその認識を信じることで、抽象度が一段階上がります。真実は多数が信じれば社会的に利便性があるため事実と異なることがありえます。天動説がその典型例です。しかし日本文化では事実と真実の混同がしばしばあります。なぜそうした混同が起こるかについては、これらの訳語を大和言葉に変換してみると意味構造がわかります。真実はマコトで、現実はアリノママです。事実はコトあるいはアリなのですが、普段はあまり使いません。そして3語の共通点である「実」はマコトです。つまり「コトとしてのマコト」「アルガママのマコト」「マコトのマコト」ということで、日本文化では存在よりも信じることが重要と考えていることがわかります。その結果、西欧では事実を示して正邪を争うことになりますが、日本ではマコトかどうかで結論が決まります。解決とは「みんなが納得」という心情的な一致になります。西欧では「事実を現実と認めた人が多数」が解決法であり、いわゆるエビデンスが重要になります。日本でも最近はエビデンス主義になりつつありますが、エビデンスとは事実ではなく現実化された事実のことです。従って事実は1つであっても異なるエビデンスが存在するわけで、その証拠としての能力が争われるわけです。この日本的な解釈法はいろいろな場面で登場しますので、順次解説していきます。

福沢諭吉

VR

VR

VRはバーチャル・リアリティ、仮想現実、という解説が一般的です。この解説を見た時すごい違和感がありました。バーチャルとは何のことだろうか、という疑問です。英語ではvirtualというのを知ってなお疑問が増しました。私の知っているvirtualは「実質上、事実上」という意味であり、仮想という訳語とは合わないのです。実態を知ってから、英語でなぜvirtual realityというのかわかりました。

まず重要なことはfactとrealityの違いを知るべきです。訳すなら事実と現実です。この違いを知るには人間の認知という過程に関する知識が重要です。事実というのは人がどう思うとも、あるいは存在を知らなくてもそこに存在するものです。現実というのは人が存在を認知していることで、いわば頭の中における存在です。リアルrealというのは、本物と同じでなくても、本物のような感じがする、ということです。1つの例えですが、考古学の発見である土器や化石は専門家がそうだと認めているから価値があるのであって、地面の中に埋もれている時は事実としては存在しますが現実にはなっていません。そもそもrealityそのものが事実ではなく、人の認識上の存在です。

たとえばこの文も事実としてはガラス面の下の極小の光点の多数です。それを文字として認識していて、さらにその文字連鎖を言語として認識している、という何重もの認識が重なったものです。本も紙の上のインクの染みです。

さらに事実上の現実として認識するということは、現実ではないということで、確かに脳が過去の経験と照らして作り上げる新たな認識です。「現実のような気がする」ということです。その意味では仮想というのは誤訳だと思います。仮想というのは現実または事実がないものをあるものと仮定することです。仮想敵国という表現がそれを示しています。「現実にあると誤認させる技術」というのが正しいのでしょうが、マーケット上、否定的なニュアンスがあって避けたかったかもしれません。

VR眼鏡を初めて装着して画像を見た時、私は眩暈がしました。脳が混乱したのです。たぶん視覚だけが強く刺激され、認識が追い付けなかったのだと思います。最近は慣れましたが、実際の音を聞く場合と人工音では似たような感覚があり、たぶん聴覚認識が過敏なのかもしれません。その過敏さが外国語学習には役立ちましたし、方言調査などでも役立ちました。視覚が敏感だとVRについていけないかもしれませんが、それは1つの能力だと思って大切にした方がよい、と私は思っています。バーチャルとは実際に存在しないものを存在していると感じるという点では幽霊に似ているかもしれません。幽霊を信じるか信じないか、それはあなた次第です。

VR

成人の日

成人の日

今年は1月10日が成人の日です。日なのですから固定しておくのが本来だと思います。従来は1月15日が成人の日でしたが、連休を作るために移動させるようになりました。その連休のため、オミクロン株蔓延の対策をしなければならなくなっているのは滑稽な話です。しかし笑ってもいられません。動かしていいなら、いっそ3月にするか今年はなしにしたらどうなのでしょうか。実際、成人式を中止している自治体もあるのです。旅行業界もキャンセルに困っています。休日を中止して困るのは誰でしょう。医療関係者はもうずっと休日なしで働いています。役人も対策で休日出勤している人も多いでしょう。実に不合理だと思いますが、誰も言い出しませんね。

成人の日はこの歳に20歳になる人が大人になることを祝う日です。しかし実際には、選挙権を始め大人としての権利は誕生日を起点に獲得します。その選挙権は18歳からで、酒たばこギャンブルは20歳とチグハグです。被選挙権は衆議院25歳、参議院30歳のままで、これも不合理です。民主主義の本位からすれば選挙権と被選挙権は一致しているのが合理的です。被選挙権年齢だけ高いことの合理的説明はありません。思考力を要因とするなら高齢者に上限がないのも不合理です。「高齢でもしっかりした人がいる」のが理由なら「低年齢でもしっかり人」大勢います。外国人に広げる前にまずこちらを議論すべきではないでしょうか。18歳に下げる時も根拠がはっきりしないまま、人口減少だとか、年金負担者を増やすためとか、不合理な理由で決められてしまいました。

そもそも20歳に決まったのは明治29年です。当時は財産や性別で権利が制限されていました。富国強兵政策の一部であったことは明白な事実です。それ以前は元服といい、儀式がきちんとあって、服装も変わりました。何となく武士の元服ばかりが知られていますが、時代劇のせいかもしれません。女子も髷が変わり鉄漿(おはぐろ、かね)を塗りました。武家の男子は髷を変え、烏帽子を被るようになります。この儀式の後見人がいわゆる烏帽子親で西洋のゴッドファーザーと同じく名付け親になったりして一生面倒を見ることになります。元服の元は首のこと、服は着るという意味なので、本義は「冠を付ける」ということで加冠ともいうそうです。

元服は年齢も大まかで、男子は親が決めます。女子は結婚がその時期であるのが普通でした。服装が変わり後見人もついて、社会的扱いも変わり、責任をもつ成人となったわけです。自覚が重要だったわけです。成人であるかどうかは物理的な年齢で決めるのではなく、自覚をもたせ責任をもつ代わりに権利を与えるという意味をほぼ失った現在、成人の日まで政治の都合で移動するようになったのは残念でなりません。正装することは悪くないのですが、酒飲んで暴れるのでは却って害があるように思います。

成人式