旧暦大晦日

1月31日は旧暦の12月29日で月齢28.4と聞いてピーンと来る方は相当旧暦に詳しい方です。翌日2月1日が旧暦1月1日で月齢29.4つまり新月です。新月については明日のコラムに回すとして、旧暦だと明日が元日、今日が大晦日ということになります。

29日なのに大晦日?と思った方、旧暦の仕組みを知る良い機会です。12月31日が大晦日になったのは明治になって西洋のグレゴリオ暦を採用したからです。大晦日とは一年の最後の日なので、旧暦つまり太陰太陽暦では年により、12月30日になったり、29日になったりします。今年は12月29日です。

1月(ひとつき)が30日だったり31日だったりするのはグレゴリオ暦で1年を365日と設定したことによります。旧暦は月の満ち欠けが基本でそれが月齢です。月齢は太陽との関係で計算するのですが、新月とは完全に月が消える、つまり太陽と月が同じ方向に一致した瞬間ですから、月も太陽も動いていて、一日の何時になるかは毎回ずれます。新月から次の新月までが1月ですから、月齢はどうしても端数になり、小数点で表示することになります。それで満月だとだいたい15前後、新月が30前後ということになります。そして月の始めが新月になります。

現代ではこんなアバウトな暦では困ると思いますが、昔は月の満ち欠けで満潮・干潮のように潮が変わるので、それに合わせて漁業をしたり農業をしていたのです。それなりに合理性があったわけです。「夏も近づく八十八夜」は有名な茶摘み歌ですが、これは旧暦正月元日から数えて88日目ということになります。30で割るとおおよそ3か月後、3月末ということになります。新暦と旧暦ではおおよそ1カ月の差がありますから、新暦4月末、連休の頃が茶摘み時ということになります。こんな計算をしなくても旧暦カレンダーを見れば一目瞭然で、昔は農家には旧暦がありました。

日本ではもう旧暦を使う人はまずいないと思いますが、旧正月はまだ残っている地域があります。中国や韓国など東アジアでは旧正月は結構盛んで、中国式に春節と呼んでいます。ベトナムだとテトです。昔の習慣を残している国はけっこう多いのです。日本は敗戦によりすっかり戦前の文化習慣をなくしてしまったので習慣も変わってしまいました。

私見ですが、1年に2度大晦日や正月があるのも良いのではないでしょうか。子供はもちろん喜びます。お年玉が2度来ます。暮れに年賀状を忘れた人も、寒中見舞いでお返しなどせずに、旧正月年賀状を出せばよいです。新正月に休めなかった人もこの期間に休めばいいですし、観光地も潤います。できれば旧暦風の正月を復帰させたいですね。

春節

合理主義への誤解

合理主義とは読んで字の如く、理性に合うということです。よく似た音で功利主義というのがあり、これは読んで字の如く利の功名ではなく、平たくいえば結果オーライの考え方です。正確には帰結主義といいます。功利主義と似たようなのが利己主義。これは自分さえよければ、という考え方で、よく知られています。

このように〇〇主義というのは基本は英語のismであり、考え方、思想のことです。意外に思われるかもしれませんが、キリスト教もChristianismと呼ばれ、仏教はBudhismであり、直訳すればキリスト思想、仏陀思想ということです。共産主義はcommunismで社会主義はsocialismで統一的に解釈できますが、民主主義はdemocracyでismではありません。他にcracyがつく英語としてはbeaurocracy官僚制度があり-cracyは主義ではなく制度なのです。政党としての民主党はdemocrats、対抗する共和党はrepublicansで共和主義はrepublicanismです。こうしてみると、主義と訳されたり、制度と訳されたりする政治用語は思想や宗教とも絡む複雑な歴史と背景があるのです。日本人がこうした欧米の理念を学ぶ時、日本語の世界だけで考えていると誤解が生じる危険があります。

合理主義はrationalismの訳で功利主義はutilitarianismまたは主唱者の名をとってBenthamismです。英語の名詞rationは配給のことですが、そこから派生した語ではなくrationaleが形容詞になってrationalとなると理性的という意味になり、そこから理性主義つまり合理主義がrationalismという語になりました。rationはレイションですが、rationaleはラショナルで発音も違います。語源を知らないと「配給主義」という誤訳になりそうです。

合理主義は日本で間違って節約と勘違いされる場面がよく見られます。昔、国鉄や官業では合理化という名の下、首切りや人員整理が行われました。今でもリストラという形でこの手法が残っています。リストラも本来は再構築という意味のrestructuringが来たのですが、これは完全な和製英語というか、日本式の誤用で、英語ではダウンサイジングです。つまり規模の縮小のことですから、それに伴う人員整理というのは合理的です。それで合理化と呼んだのでしょうが、いつのまにか首切りという意味に変わってしまいました。

本来の合理化は縮小とは限りません。理性的な判断なので拡張も現状維持もあるのです。ここに多くの日本の経営者の誤認があるように思えます。利益が少なくなったからすぐに縮小しかない、コストカットという短絡的な判断が理性的かどうか、熟考するべきです。功利主義でも結果が大切です。縮小の結果、人材や資源を失ったという結果的に失敗になった例も数多いと思います。

人員整理

トリアージ

トリアージというのは災害時の治療の優先順位のことですが、この思想は日本人にはなかなか理解できないようです。重傷者から治療していくことにはあまり抵抗はないようですが、黒判定つまりもう死亡と同様で回復の見込みがない場合に最低限の治療しかしない、実際にはほぼ放置される、という選択に抵抗感があるようです。

防災訓練などでは、準備用品などには丁寧な説明がありますが、トリアージについては説明者にも心理的抵抗があるようで、詳しい説明はないことが多く、色分けし優先順序が赤、黄色、緑の順になるという説明だけで終わることが多いです。見込みのない黒について解説することには抵抗があるようです。

これは少しでも多くの命を救うための合理的判断で、欧米では抵抗なく受け入れられるのですが、日本では事情が違うようです。戦争時の軍では普通に行われていたのですが、長く戦争体験がない日本では心情的に合理性だけでは受け入れにくくなったようです。

江戸時代は火事が多かったそうですが、火事になると木造家屋が密集している江戸の町では、風下の家を壊して延焼を防ぐという方法が一般的でした。火消しが鍵の付いた棒をもっているのは、打ちこわしのための道具でした。また長屋などはあえてがっしりした造りにせず、簡単に壊れるような建て方をしていました。大店では土で作った蔵を建て火が回らない防火壁の役割をするようになっていました。これも合理的な選択肢です。

避難の際は要援護者から優先して避難し、援護者が一緒に避難するのが鉄則ですが、先のいくつかの震災では、介護者や消防団の人が大勢被災しました。もう逃げられないとわかった時、介護している人を捨てて自ら逃げるという選択をしなかったからです。

航空機の避難ガイドでも、酸素マスクが下りた時、まず自分にマスクをつけて、それから子供にマスクをつけるよう指示しています。心情的に子供を優先しがちですが、そうすると共倒れになる危険があります。

これが自助を優先し、共助がその次、公的な公助が最後というのは、順序の問題で速さもその順番なのですが、理解がまだ浸透していないようです。改めて避難ということを合理的に考えてみることが大切です。

ワクチン接種の優先度もトリアージと同じ原理なのですが、それぞれの利害の主張が目立ちます。合理的判断は日本人は苦手なのかもしれません。

トリアージ

防災文化

日本は「災害大国」で頻繁に災害に見舞われます。そのせいで災害対策が進んでおり、震度5程度の地震があっても建物の崩壊や死者が非常に少なくなってきています。諸外国でこの程度の地震があると家が崩壊し何百人も死亡者がでるというニュースをみます。地震だけでなく毎年来る台風や大雨などによる被害への対応も見事だと思います。

これは防災が徹底してきたことの成果ですが、この防災という概念に相当する英語はぴったりする訳語がみつかりません。辞書にはdisaster preventionとありますが直訳です。外国の防災マニュアルにはEvacuation Guideline 避難ガイドと書いてあることが多いです。避難と防災は似ているようで違う概念です。

防災とは災害を防ぐという意味ですが、自然災害など防ぐことは不可能で不可避です。災害による被害をいかに少なくするか、ということなので、最近は減災という言い方もしますが、これもちょっと語感がずれています。実際の防災で説かれているのは、被害に備えて準備しておくことで、防災グッズは避難の際に必要なものを平時のうちに準備しておくものということです。避難時用品なのですが、なぜか防災グッズという用語が官民で使わわれています。

防という字を使う語は防風、防塵、防火など、そうさせないような工夫をすることを意味しますが、これならpreventと同義になります。英語では災害時はまず逃げることが強調されますから、避難ガイドの中に避難方法とか日頃準備しておく物などがリスト化されています。内容的には日本の防災とよく似ていますが、前提となる概念が異なるのはやはり文化的な影響があると思われます。

この防災という概念はパンデミックのような場合にも日本は防疫という体制をとり予防に力を入れる手法になります。それがクラスター対策とか濃厚接触者という考え方になります。決して間違ってはいませんが、欧米だと治療による死亡減少が目標になります。それがワクチンに対する期待の違いとなります。日本ではワクチンの予防効果を期待する人が多いと思います。医師が重症化を避けるためと説明してもマスコミもほぼ聞く耳をもたない情況です。三密回避というのも明らかに感染予防法で、マスクも自分がかからないためにする人が多いと思います。人にうつさないためにしている人はまずいないでしょう。欧米でマスクをしない人が多いのは習慣の問題もありますが、自分が感染していないならマスクは不要と思う人が多いからです。同じ感染防御でも対象が自分か他人かが逆なのです。日本的な防災意識が悪いわけではなく、結果を見ると欧米よりも感染率が低いので効果はあったといえます。ただ文化という行動規範の違いは知っておきたいです。

防災

赤字と黒字

会計では赤字と黒字は重要です。語源は手書きで数字を記入していた時代、マイナスを赤いインクで書いて注目することから、赤字というようになった比喩表現です。現代なら何色の文字でもよいのですが、昔は墨も黒と赤しかなかったので、その習慣が続いたのですが、今でも修正や点数付けには赤色が用いられます。赤と黒は古今東西、対比色として利用されてきました。トランプカードの模様、ルーレット、小説の題、男女の例えなど、比喩が多く使われています。

黒字を英語ではfavorable赤字をunfavorable といい、意味は好ましい、好ましくないということです。赤字会計が好ましくないことは当然ですね。会計報告書では赤字で表示することもありますが、印刷の便宜上、数字の先頭に△や▲をつけることで表示する習慣です。所得や利益では-記号をつける場合もあります。

損益計算書はProfit & Loss Statementといい、文字通り利益と損失を書いた書類ということで、損失が赤字となります。利益は黒字のままなので、暗に「黒字が当たり前」ということを述べていることになります。ちなみに収支計算書はBalance Statementですが、statementの代わりにsheetということもあり、日本ではこちらの方が使われることが多いようです。収支計算でも利益が計上され、損失を赤字で記します。こちらが純利益なので、会社の財務状況を概観する時はここが問題視されます。PLとBSの違いは実は重要なのですが、会計に詳しくない人は違いを理解していませんから、ほぼPL的な思考をしています。いわゆる小遣帳や家計簿は収入と支出を書いて残高を確認するので、収支計算といえばそうなのですが、残高を利益と考えている人はまずないと思います。ここに一般人の会計意識と会計人の会計意識の乖離があると思えるのです。

小遣帳や家計簿では残高ゼロはあっても赤字による損失という感覚はなく、前借などの負債という感覚になると思います小遣帳は会計でいうと現金出納です。この出納という用語も古いですね。役所以外では使わないでしょう。現金取引だけならこれで十分な管理ですが、現代はクレジットという名の信用取引、サブスクという名の月賦販売も多くなっています。実は信用取引は戦前まで普通にあり、掛けとかツケと呼ばれていました。それが借金のほとんどでした。現代社会で、クレジットやサブスクがツケなのだということをどれほど意識しているか疑問です。これは預金という制度のせいかもしれません。昔はツケ払いも現金取引で払えなくなると夜逃げという自己破産だったのです。給与も昔は現金支給であったのが口座振込になって取引実感がないのが原因かもしれません。預金残高は現金残高と同じ資産なので、その意味では日本人のほとんどは「資産家」なのです。そうなると資産と負債の収支が赤字が黒字かにもっと注意しないといけないのです。

黒字赤字

楽天と厭世

楽天家というのは楽天市場の利用者のことでないことはもちろんです。英語でオプチミストと言い、反対語はペシミストです。ペシミストの訳語は厭世家です。厭世的というのは今ではあまり言われなくなり、否定的な意味が強いですが、古来はけっこう好まれていました。厭世の類語に遁世というのがあり、世捨て人という表現もありました。世間に背を向けた孤独の生き方がカッコイイと評価されていたのです。有名人としては菅原道真、兼好法師、鴨長明、西行などの古典文学作者、近代では太宰治、夏目漱石などが挙げられます。漱石の評価には異論があるかもしれません。厭世家には自殺という結果がつきまとうので、どうしても否定的な評価になってしまいがちです。
哲学者としては、ショウペンハウエル、フロイト、ニーチェなどが有名です。私見ですが、ニーチェは悲観論ではありますが、それほど厭世主義的かどうかは疑問があります。「ツァラトゥストラはかく語りき」などを読むかぎり、反キリスト教的でありキリスト教国では否定的にとらえられると思いますが、仏教的な立場からするとむしろ肯定的な側面が読み取れます。もちろん異論もあると思いますので、まずは読んでみてください。ちなみにツァラトゥストラとはゾロアスターにことで、極めて宗教的な作品ですが、日本では文学としてよりも交響誌音楽として有名だと思います。
太宰治も読み方によっては生きることの大切さを説いているとも解釈できると思います。破天荒な私生活と結果から否定的な見方をされがちですが、自殺を思う人には共感があって参考になるとお勧めになっている人も見かけますから、悲観論も悪い面だけではないと思います。

現代はプラス思考、積極的姿勢、前向き、上昇志向など肯定的価値観がもてはやされる社会です。その反面、マイナス思考、消極的、後ろ向きなどの否定的価値観をもつことはいけないこと、という評価になります。こうした価値観は人により異なるものですし、相対的な行動なので、普通に積極的な人でも、周囲がもっと積極的な人ばかりの集団では消極的とみられがちです。そして積極的な集団は競争や闘争を好みます。その結果、競争巧者や闘争力が強い人が勝者となり賞賛されることになります。勝者がいれば敗者がでるのが道理ですから、元々上昇志向の強い人の敗北感は普通よりも強くなります。そもそも上昇志向の人は敗者を排除する思想ですから、自らが敗者となることは自己否定になります。そういう人が増えているのが現代社会です。この思想的偏りは是正すべきでしょう。

この思考方法の欠点は勝利を絶対視することであり、勝負は時の運と悟って、相対的な価値観であることを知れば敗北感も減ります。それを楽天的と呼ぶかどうかは微妙です。楽天家は自分は絶対に負けないと信じている人の方が多いと思います。同様に厭世は悪だと考えることも再考してみる必要があると思っています。

積極的

相対と絶対

相対・絶対という概念は簡単ですが、応用が結構難しいです。最適は相対的概念なのですが絶対的に応用している人がいます。最近は「多様化」が流行ですが、多様化は相対的でしょうか絶対的でしょうか。現在の風潮では多様化することが絶対的に正しいと考えている人が多数です。それは価値観です。価値観が相対的な人は稀有で普通は受け入れるか受け入れないかの二者選択でしょう。ところが自分が心理的に受け入れることができる人かどうかの判断は相対的です。Aさんの方がBさんより受け入れやすいというのが普通です。自分の価値観が絶対的な物差しなので、それを基準にして相対的に判断できるわけで、物差しがないとか、物差しが違うと判断ができなくなります。例えばA店のラーメンとB店の餃子はどちらがおいしいですか、という質問には答えられないと思います。同じ食べ物でないと比較できないです。しかし例えば日本酒が大好きという人にとって、C社のビールとD社のビールのどちらが好きですかと聞かれても困るでしょう。

価値判断と似ているのが政治的思想とか宗教観で、これは相対的であることはまずないです。自分の信条に合うものだけがよくて、他のものはよくない、という排他的なものです。ただしこれは自分の範囲内であれば問題はないのですが、他人にまで拡大すると社会問題になります。

勝負も絶対的なもので、勝と負が絶対的にあり、引き分けは相対的になります。勝負によって引き分けがない競技も多いです。裁判も勝敗が明確で、和解という勝敗を明確にしない判断もありますが、それは民事訴訟の場合で、死刑判決に相対性はありません。おはぎではないので「半殺し」はありえないのです。生死もきちんと区別されています。

政治思想でも共産主義や宗教主義や王政は絶対的なもので、民主主義は相対的です。一方、思想や文化は多数が併存しており選択は相対的ですから、統一思想や単一文化は存在が困難になります。それで文化複合主義と民主主義は同じ相対的価値観なので親和性が高いわけです。絶対的政治体制である共産主義や王政では思想の統一、宗教の統一は不可欠で排他的にならざるをえません。

そもそも相対か絶対か、という命題は選択の問題ではなく、どちらも存在します。善と悪も悪があるから善があるわけで、生死も生があるから死がある、という概念なので、この相対する概念を相対とみるか、絶対と見るかで考え方が違ってきます。それが哲学的命題でもあります。
哲学的問題は簡単には解決できないので、一般人はまず相対と絶対がある、ということを理解し、現在はどちらの価値観で判断しているかを見極めると、意外に悩みが解決することがある、という知恵を学んでみてください。「生きるべきか死ぬべきか」というハムレットの名言は原語ではTo be or not to be.で直訳なら「存在するべきか、存在しないべきか」とか「あるがままか、変えるべきか」とか訳すべきでした。現代訳なら「このまま生きていくか、別の道を選ぶか」みたいな訳の方がハムレットの心情がわかりやすいと思います。そしてこれは相対的な選択ではなく絶対的な選択なのです。

ハムレット

最適化の問題点

近年は何かというと適正化というキーワードが使われます。これは主としてコンピュータ用語で、パソコンではデフラグにより高速で使いやすい状態にすることを意味します。最適化ともいいます。元は英語のoptimaizationで、これは派生語なので動詞のoptimizeが本来の元です。日本語は名詞中心なので、optimizeを「最適化する」のように逆の派生をしています。英語のoptimizeの類義語としてoptimist楽天家、optimism楽天主義があります。楽天家というと何となくノー天気な人みたいなイメージがありますが、これは翻訳のアヤみたいなもので、楽天主義も最適主義と言い換えると随分ニュアンスが変わってきます。

英語の大本はラテン語のoptimusで最善という意味です。反対がpessimusです。それでoptimistの反対がpessimistですが、日本語は本来楽観主義者、悲観主義者という訳語が正しくニュアンスを伝えていたのですが、楽天家という訳の反対語である厭世家はあまり広がっていないのと同時にニュアンスが否定的に思えます。このあたりに日本文化の特徴が表れています。最善の反対語は最悪ですからpessimusは最悪の意味です。そうなると原語に忠実な訳なら最善主義、最悪主義というのが正しいのですが、善悪という概念には仏教的なニュアンスが残るので、楽観、悲観というモノの見方に意訳しているのです。しかし楽天家と厭世家という人物評価にまで延長すると、価値観が含まれるようになってニュアンスも大きく異なってきます。

最適化には反対語がありません。最善化の反対語は最悪化です。ここに最適化という用語に罠が仕掛けられています。どういう罠かというと、本来は相対的概念であったものを絶対化しているということです。たとえば駅伝を考えてみます。どの区間にどの選手を当てるかというのは監督が選手の体調などを考えて選びますから、比較による相対的判断です。しかし優勝タイムや区間賞タイムの新記録は絶対的記録であって過去との比較はあっても、その時点では比較しません。優勝は他校のタイムとの相対ですが、新記録は絶対です。従って選手選択は最適化がありますが、優勝校の最適化はありえません。同じ競技の中に総体と絶対があるので、概念の混同が起きやすいのです。最適には条件があります。

パソコンでは使用していく中でさまざまなゴミ(フラグメント)が発生し、それが演算の邪魔になることがあるので、随時ゴミ取りをします。それがデフラグメント略してデフラグですが、それを最適化と呼ぶ習慣になりました。転じて他の世界もこの比喩を用いて、たくさんの選択肢から最善と思われるものを選ぶことを最適化というようになりました。問題は何を最善と判断するかは条件の判断が基準になります。それは価値判断であり相対的なものなので、それが正しい選択なのかどうかは結果を見るまでわかりません。

デフラグ

%表示はアナログ

%による表示はデジタルだと思っている人がいます。%は英語のper centで、perは割り合いを示す/の意味です。割り算の記号です。3分の2を2/3と書くのは2を3で割るという意味で、/は分数の記号でもあります。分数がアナログであることは以前に説明しました。セントcentは100という意味でcenturyは100年、1 centは1ドルの100分の1です。パーセントは「百で割ると」という記号で/100を記号化したのが%です。日本語訳は百分率といい、その意味を正確に反映しています。ある数の全体に占める割合を示すのに、すべてを百分率にして示すと比較に都合がよいのです。たとえば内閣の支持率で、毎回2351人中633人、2041人中601人のように示しても支持率が上がったのか下がったのか直観的にわかりません。そこで27%、29%のように表示すると支持率が上がっていることがわかります。しかし実人数は633人から601人に下がっています。これは調査人数が2351人から2041人と少なくなったことが影響していると考えられます。

もし調査人数が毎回同じであれば、単純人数比較でよいのですが、実際には同じ人を毎回揃えて調査することは不可能に近いです。調査対象者が病気や死亡、引越しなどで変化することもあります。調査人数の変動を平均化するための計算方法の1つが百分率表示です。原理的には千分率や万分率もあるのですが、実際に使われることは稀です。たとえば最近話題の新型コロナ(この名称も変えるべきです)による病床占有率も%表示で、それを指標として「まん延防止対策」の発動も決められています。しかし考えてみると、50床しかない地域の30%と20,000床の地域の30%では意味合いが全然違います。

多数決原理でも7人中4人と7,651人中の3,826人では同じ1人違いの過半数でも意味合いが全く違います。半数という概念もアナログの概念です。

このように現実世界ではかなりアナログ概念が浸透しているのですが、デジタル化=数値化という誤った概念誘導が見られ、その1つが%です。%は百分率つまり「母数を100とした割り合い」なので、まず母数が100以下では意味が弱いこと、また母数に大きな差がある場合には比較する指標としては正しくないということです。その差を埋める1つの技法が統計的検定で、いろいろな技法があります。自分で全部計算しようとするとかなり面倒な方程式を解くことになるのですが、今はExcelなどを利用した簡単な方法がありますから、いつか利用してみてください。

自分で統計的検定を利用する機会は少ないかもしれませんが、まずは%という数字のマジックにかからないようにすることが大切です。たとえば利益率、視聴率といった割り合いがよく示されますが、せめて母数をチェックすることをお勧めしたいです。

パーセント

統計による人工知能

AIブームの昨今ですが、かなり誤解も広がっています。AIはartificial intelligenceつまり人工知能の訳語です。そのため人間の知能を真似たもの、というところまでは合っています。問題は人間の知能のごく一部を利用したものであることで、実際には人間のその方面の知能の能力をはるかに超えています。しかし人間の知能のほんの一部であることは認識しておくべきです。

現在のAIの基本技術はdeep learning深層学習の技法です。深層学習理論の解説は結構難しいのですが、超簡単にいえば統計的な確率の集積です。AI学習が膨大なデータを必要とするのはそのせいです。反対にいうと膨大な量の処理は得意です。人間でいうと経験的知識がそれに該当しますが、人間の場合は比較的少ない量からでも学習します。しかしそのため人により同じ経験をしても得られる知見に差がでてきます。AIは確率の集積なので、機械の個体差に比較的揺れが少なく誰がやってもそれほど差はでませんが、人間の経験による知見と異なることがしばしばあります。そこが人間社会にとって便利な点で、最近は盛んに利用されるようになりました。

もう1つはAIは記憶量がものすごいのと忘れないので、知識量は増える一方で確率は高くなる一方です。人間には記憶の限界があり、適宜忘れるようになっています。その代わり世代によって受け継がれて遺産となっていきます。しかし時間がかかります。人間には歴史という知的な集積がありますが、AIは瞬時の判断なので歴史的集積を一気に取り入れて判断するという特徴があります。

AIは人間を超えるか、みたいな議論を時々見ますが、これは論理的には意味がありません。AIは人間を支援するためのシステムで競争相手ではないからです。現在のAIは人間なしに動くことができません。深層学習には必ず「教師データ」という模範データが必要で、集めたデータと模範データとの差を集積して統計的な結論をだす論理構造なので、模範データ次第で結果に差が出てきます。つまり最初からある仮説が設定されており、その仮説に従って作業していく手法を先験的手法a prioriといいます。日本ではアプリオリといいますが、英語ではアプライオライという方が多いです。それに対し、先験情報なしにデータを集積していく方法を帰納法inductive approachといいますが、完全に先験なしということは理論的にありません。データを集める段階で何らかの仮定があるからです。その偏りを是正するには莫大なデータを集めることで少し修正されます。それがAIです。結果的にAIが導き出した結論は人間の先験的仮定を崩すことも多いので、研究者にとっては便利な方法ということになります。人間はどうしても過去の経験に拘り、偏りを持ちやすいのでAIがその欠点を補っているといえます。

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