応永の外寇と倭寇(海乱鬼)

応永26年(1419)水無月二十六日、応永の乱の中で激しい戦闘がありました。応永の外寇は日本史の中では教えられることが少ないのですが、李氏朝鮮による対馬への侵攻のことで、糠岳戦争ともいわれ、朝鮮史では己亥東征と言うそうです。当時、対馬が倭寇の根拠地とみなされていて、たびたび倭寇に襲われた朝鮮側が征伐のために侵入した戦争です。倭寇というのは「日本の海賊」という朝鮮側、中国側の解釈ですが、実際には日本人だけでなく高麗人や中国人が混ざった海賊集団でした。海乱鬼(かいらぎ)ともいうそうで、ゲームや漫画の題材になっています。倭寇が日本人海賊というのは朝鮮・中国側の誤解で、そもそも盗賊や海賊が1つの民族集団から成っていることはなく、ある意味、実力主義の集団なので、いろいろな人種が混ざるのが普通です。実際に捕らえて調査したわけではなく、強奪されたり、戦闘になって殺された側の人々がそう思い込んでいた、というのが実情です。また盗賊集団側も1グループで統率されていることは滅多になく、いろいろな集団が混じっていて内部でも縄張りを巡る覇権争いがあるのが普通です。現在の反社会集団も同じ状況だそうです。
倭寇が日本の精鋭部隊と同じ装備で南北朝の争いによる統制の緩みに乗じて物資の略奪に参加したという説、長い戦乱で食糧を確保することに限界を感じた兵士達が近くに位置する高麗に頻繁に物資を求めに行ったとか、倭寇が数百隻の重装備で食糧を略奪してので、南朝方の菊池氏や肥前の松浦党が北朝との戦いのための物資調達をしたという説まであって、実態はまだよくわかっていないようです。
倭寇は元寇以前にも高麗から略奪していたのですが頻繁になったのは1350年からで倭寇のせいで高麗の沿岸に人が住まなくなる程だったらしいです。1389年に高麗は倭寇の根拠地を対馬と断定し倭寇船300余隻と海辺の家々を焼き捕虜100余人を救出した(康応の外寇)。高麗が李氏朝鮮になっても倭寇は朝鮮半島各地に被害を与え続け、対馬守護宗貞茂が対朝鮮貿易のために倭寇取締りを強化し、室町幕府足利義満が対明貿易のために倭寇を取り締まった事によって倭寇は一旦は沈静化していきました。しかし足利義持の時代になると日明関係は悪化していて、倭寇が再び活発化しました。京都では当初朝鮮軍を中国からの侵攻と誤解していました。朝鮮軍は227隻の船に1万7285人の兵士を率いて対馬に上陸、対馬の宗貞盛の抵抗により、百数十人が戦死、朝鮮軍は逃走したが船に火を掛けられて大敗を喫しました。この侵入以降、宗貞盛に日朝貿易の管理統制権が与えられ、対馬と朝鮮の通交関係の回復がなされ、その後、宗貞盛は李氏朝鮮と嘉吉条約を結び、朝鮮への通交権は宗氏にほぼ独占されるようになったという複雑な関係ですが、当時から対馬は日本の支配権が及んでいたことが明白です。
この前期倭寇に対して中国側が倭寇と呼んだのは後期倭寇のことで構成員の多くは私貿易を行う中国人でした。日明の勘合貿易が終わり、中国人が主体になって密貿易を行っていて交易と襲撃の両方、いわゆる武装海商です。活動地域は広く中国沿岸から、現在の台湾や海南島の沿岸にも進出し琉球王国の朝貢貿易船も襲撃したりして琉球王府に撃退されていたそうです。倭寇は略奪だけでなく密貿易もしており、室町幕府や明が交易をすれば密貿易、交易をしなければ貿易という商行為をしていたと考えられています。こうした国に属さない集団は世界各地にあり、反社会集団として武装している例は今も存在しています。英国のように海賊を積極的に利用した例もあります。

対馬