日米修好通商条約と捕鯨

安政5年(1858)水無月19日、日米修好通商条約Treaty of Amity and Commerce Between the United States and the Empire of Japanが日本とアメリカの間で結ばれました。先の琉米修好条約がConvention 出会ったのに対し、Treatyとなっている点に注目してほしいところです。日本語訳はどちらも条約としていますが、微妙なニュアンスの違いがあります。会議場をconventional center というようにconventionは会議の意味で、当事者が集まって合議し、合意して批准することをいいます。それに対しtreatyは国家間の取り決めのことです。例としてラムサール条約はconventionですがベルサイユ条約はtreatyです。英名にamityが入っていますが、親善とか友好という意味です。また英名では日本をempireとしており日本帝国としています。外交関係ではよくこうした言語の違いから来るニュアンスが問題になることがあります。
ところで日米修好通商条約ではcommerceつまり商業が入っていますが、これは関税の協定のことで、今日では不平等条約であったというのが定説ですが、この条約では関税自主権がありました。後の改定で奪われてしまいました。
日米修好通商条約は先に嘉永7年(1854)に結ばれた日米和親条約との違いに注目すべきです。この段階で米国が求めていたのは、当時の蒸気船は十分な燃料を積み込むことはできず補給のための寄港地として日本の港が必要でした。水や生野菜や肉類などの食料や薪の補給が必要であり、とくに北太平洋での鯨油を目的とした捕鯨を行う上で、国交がない状態では漂着した自国の捕鯨船員の引渡しも難しかったのです。それで、和親条約の前から、江戸幕府は異国船打払令から薪水給与令に改めたり、外国船が日本に寄港を望む場合には必要な食料や薪水を与え、速やかに退散させるように努めること、ただし上陸させるなといった対応をしていました。江戸幕府は米国の圧力に屈してやむなく開国に向かうのですが、米側の開港目的は捕鯨にあったわけです。日本でも伝統的に鯨漁があり、それは食用目的でしたが、米国の捕鯨は鯨油であり、肉は捨てていました。日本に寄港して水と薪を出せというのはそれほど大したことではなかったでしょうが、当時の日本は食肉文化がないので、肉集めに相当苦労したようです。牛は農耕に必要なので差し出せば農業ができなくなります。やむなく鶏などを差し出したようです。欧米人は猪や狸は食べませんから、肉といってもかなり偏っています。日本人からすると新鮮な肉は魚とか鯨でいいのに、と思います。
当時、鯨油が必要だった理由は機械の潤滑油として最適だったからで、産業革命以後、欧米は北大西洋の鯨を採り尽くし、太平洋まで進出してきました。そして日本近海まで鯨を追ってやってきたので、どうしても補給基地が必要で琉球や日本に開港を迫ったわけです。しかし英国がアヘン戦争以後、東アジア進出を目指し、フランスまで出てくる事態をみた米国はいざとなれば、米国が英国やフランスとの仲介に入ると約束して条約を結ばせました。その交渉人がタウンゼンド・ハリスです。ある意味、これが日米安全保障条約の最初という見方もできます。潤滑油はその後、石油系の物が普及し鯨油は不要になり捕鯨も中止されました。米国東部には捕鯨時代の歴史を示す博物館がいくつもあります。ペリー艦隊の旗艦パウハタン号のパウハタンというのはディズニーで有名になったポカホンタスの父親の名前で米国史上では勇者として有名ですが、日本では知られていないせいか、歴史関係の記述でもその解説はありません。

ハリス