最後の遣隋使

旧暦6月13日にはいろいろな事件がありました。天宝15載(756)安禄山らの蜂起により唐の皇帝玄宗が愛妾・楊貴妃を伴って都落ち。天正10年(1582)山崎の戦いで羽柴秀吉が明智光秀を破る。光秀は敗走中に雑兵に刺殺される。どちらも悲劇的な結末です。延暦13年(794年)桓武天皇の命を受けた坂上田村麻呂が蝦夷征討に出発。戦いの幕開け。慶長20年(1615)江戸幕府が一国一城令を布告。あまり重要視されていませんが、実は堅実な幕府防衛体制で、幕藩体制を作る上で重要な決断といえます。
寛政10年(1798)本居宣長が約30年を費した『古事記伝』全44巻が完成。古事記は今も有名ですが、この編集作業がなければ世間が読むようなことにはならなかったでしょう。当時の『古事記』の写本を相互に突き合わせて、異同を厳密に校訂した上で本文を構築するという文献学的手法を用いました。古語の訓を附して、その後に詳細な註釈を加えるという構成になっていて、実証主義的かつ文献学的な研究でした。国語学の定説である上代特殊仮名遣も宣長によって発見されました。宣長は註釈をする中で古代人の生き方や考え方の中に連綿と流れる一貫した精神性、即ち「道」の存在を指し示すことで日本の神代を尊ぶ国学を確立しました。
この日の事件として推古天皇22年(614)最後の遣隋使として犬上御田鍬らが隋へ出発しました。隋は推古26年に滅び、唐になるので自動的に消滅したわけです。推古8年の第1回から、この第5回遣隋使まで2,3年おきに派遣されており、往復に1年近くかかったことを考えると、かなりの頻度で往復していたことがわかります。有名な小野妹子が「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや、云々」という国書を携えて行き、これを見た隋帝は立腹した、という逸話は有名です。煬帝が立腹したのは、天子は中華思想では1人で辺境の地の首長が「天子」を名乗ったことに対してであり「日出処」「日没処」との記述に対してではないということは案外知られていません。「日出處」「日沒處」は単に東西の方角を表す仏教用語でした。東西に上下関係はないのです。「海の西の菩薩天子が仏教を興隆させているので学ばせてほしい」としていて仏教を崇拝し菩薩戒を受けた文帝への仏教重視での対等の扱いを目指した表現で、譲位された煬帝を相手として想定していたのではなかったというの事実です。国としての対等外交を求めたというのは誤解で、同じ仏教者同士であり、いろいろ教えてください、という意味なのでした。聖徳太子を崇拝する人々が思い込みで、対等外交をした、というのは誤解です。勅使である小野妹子は返書を持たされて返され、煬帝の勅使として裴世清と一緒に帰国した妹子は返書を百済に盗まれて無くしてしまったと言明しています。これについて煬帝からの返書は倭国を臣下扱いする物だったのでこれを見せて怒りを買う事を恐れた妹子が返書を破棄してしまったのではないかという推測があります。しかし日本書記には裴世清が持ってきたとされる書があります。裴世清が持参した返書が「国書」で小野妹子が持たされた返書は「訓令書」ではないかという説もあります。返書を掠取した百済に対して日本が何ら行動を起こしていないという史実からすると、 聖徳太子、推古天皇など倭国中枢と合意した上で、「掠取されたことにした」という推測もあります。結局、冊封は受けないとする倭国側の姿勢は貫かれ、冊封を巡る朝鮮三国への厳しい態度と違い冊封なき朝貢を隋が認めたのは当時の高句麗を巡る軍事状況があったとみるべきかもしれません。

遣隋使