記念日を考える

「この味がいいね」と君が言ったから、7月5日はサラダ記念日。
俵万智の有名な短歌ですが、短歌の世界だけでなく諸方面に衝撃を与えました。短歌は俳句と違い季語も不要ですし、和歌は俳句よりも歴史が古いにも関わらず、自由度が高いのが特徴的です。日本の歴史上もしきたりにうるさくなったのは武家社会になってからで、貴族社会は道徳も緩く、それが雅とされてきた感じがします。和歌の時代は恋愛がテーマの中心で、俳句になって禅のようなわびさびを重視し叙景的な抒情を謳うように変化したと思われます。現代のサラリーマン川柳は俳句の頸木から抜け出して、世情風刺のような狂歌、狂句の伝統を受けついていると思われます。

このコラムでも記念日をよく取り上げていますが、それは話のきっかけ、ネタのためです。記念日を作るのは外国にも見られますが、日本は記念日好きです。そして乱造気味なので、かえって意義が薄まっていく傾向も見られます。サラダ記念日のように記念日とはたいした意味のないことなのだ、という感性が受け入れられたのだと思われます。誰かの誕生日や結婚記念日を忘れて叱責されることがありますが、そういう人たちが故人の命日をきちんと覚えていて法事をするかというとそうでもないです。自分がしてもらうことはうれしいが、してあげるのは面倒、というのが普通の人の本音だろうと思います。中には自分の誕生日すら忘れることがありますが、日常生活に忙しいと生きていることさえ認識しなくなることがあります。生死は人間にとって一番大切なことのはずですが、それすら認識しなくなる、というのは異常といえます。宗教は死生観から始まるのですが、普段、生死を考えなくて済んでいることはとても幸せなことです。それを感謝することが宗教の根本であり共通点でもあります。それで教祖の誕生日や命日を記念日として、改めて初心、精神を取り戻すことになります。
記念日のほとんどは何かの始まりになっています。出発点を記念する、とは初心に帰るということです。ところが実際は時の流れに身をまかせて、初心を忘れることが多いです。それもまた人間の常であり、無常観でもあります。「方丈記」の賀茂真淵は「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と書いていますが、川の流れと同じく時の流れも止めることはできないのだから、こだわりを捨て諦観を持てという仏教精神を説いているともいえます。記念日はその正反対で、出発へのこだわりをもて、という思想です。

どちらかが正しいという二項対立でもなく、二者択一でもないと思います。日本人の感性としてはどちらも正しく、どちらでもない、という融通無碍が一番受け入れやすいのではないでしょうか。それが日本文化だともいえます。清濁併せ呑む、ということが嫌われる傾向になってきて、白黒をはっきりつける欧米化が進んできたのが昨今ですが、実は欧米で現在普及している多様化というのは逆の方向への発展であり、どれか1つではなく、いろいろあっていい、という思想です。日本では多様化を認めないのはおかしい、という議論がありますが、それは自己矛盾です。多様化の中にそれを認めないこともあってよいのです。サラダ記念日のようにこだわりを捨て、軽い受けとめができるような柔軟な精神をもっていたいものです。

記念日