宝治合戦と三浦一族の滅亡とその後

宝治元年(1247)水無月五日、鎌倉で起きた幕府内の内乱が宝治合戦です。この合戦に負けた三浦氏は滅亡し、北条が幕府の執権として完全掌握することになる事件です。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』ではどうやら承久の変で終わるようなので、以後の御家人同士の内部分裂と北条氏の支配までは行かないようです。以前のコラムに書きました和田合戦は建暦3年(1213)で和田義盛の反乱ですが、北条義時の時代ですから、大河ドラマにも出てくると予想されます。三浦の反乱である宝治合戦は義時ではなく息子の泰時の時代で、三浦も義村ではなく、泰村の時代ですから、たぶんドラマでは描かれないか、最後のナレーション程度でしょう。それよりも教科書にでてくる承久の変が重要で、後鳥羽上皇のキャストが発表されているので、ラストでしょう。
鎌倉時代は合戦続きなので、一度順番を整理しないと関連がわかりません。西暦順で
1199年:梶原景時の変: 梶原景時対御家人66名。幕府内部に権力闘争の最初の事件。
1201年:建仁の乱:景時の庇護にあった城長茂が越後の親戚と倒幕を図る。
1203年:比企能員の変:2代将軍源頼家の外戚比企能員が北条時政により滅ぼされた。
1205年:畠山重忠の乱:畠山重忠が北条時政の策謀により、北条義時に滅ぼされた。
1213年:泉親衡の乱:御家人泉親衡が頼家の遺児千寿丸を鎌倉殿に擁立し執権北条義時を打倒しようとした陰謀。和田合戦の前哨戦。
1213年:和田合戦:泉親衡の謀反の折に和田義盛の息子の義直、義重と甥の胤長が捕縛される。和田義盛は同族の三浦義村と北条氏を打倒するための挙兵をしたが、土壇場で義村は裏切り、和田一族は将軍御所を襲撃し敗戦。
1221年:承久の乱:後鳥羽上皇が北条義時に対して討伐の挙兵。後鳥羽上皇は隠岐に流され、鎌倉幕府は朝廷を監視する六波羅探題を京都に置いた。
1247年:宝治合戦:執権北条氏と有力御家人三浦氏の対立。三浦一族が滅ぼされた。事件は得宗専制政治が確立する契機となった
1272年:二月騒動:北条氏一門の内紛。8代執権・北条時宗が鎌倉で北条氏名越流の名越時章・教時兄弟、京で六波羅探題南方で時宗の異母兄北条時輔が討伐された。
1274年:文永の役:第1次元寇。クビライは6回、日本へ使節を派遣したが服属させられず武力侵攻を決断した。神風説は否定され元軍の苦戦による撤退が事実。
1281年:弘安の役:第2次元寇。この時は台風により元軍は大損害。日本軍の勝利。
1285年:霜月騒動:時宗の死後、9代貞時の時代に安達泰盛と平頼綱の対立が激化、安達が滅ぼされた。頼朝没後に繰り返された北条氏と有力御家人との間の最後の抗争で、有力御家人の政治勢力は壊滅し得宗家被官(御内人)勢力の覇権が確立した。
1293年: 平禅門の乱:得宗家の内管領平頼綱が主君の北条貞時によって滅ぼされた。
1324年: 正中の変:後醍醐天皇と腹心の日野資朝・日野俊基が、鎌倉幕府に対して討幕を計画したが、資朝は佐渡国(新潟県佐渡市)へ遠流となった。
1326年-1328年 : 安藤氏の乱:津軽でエゾの蜂起があり蝦夷代官職の安藤氏が討たれた。エゾ蜂起の原因は得宗権力の拡大で収奪が激化したからとされている。
1331年-1333年 : 元弘の乱:後醍醐天皇と、北条高時を北条得宗家の全国的内乱
以上のように鎌倉殿の13人は北条だけが残り、その後も元寇のような外国との戦争も含めて天皇との争いがあり、幕府内部の争いもあって、戦乱続きの時代でした。

三浦一族の墓