黒船来航

嘉永六年(1853)水無月三日、マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が江戸湾入り口の浦賀沖に停泊し、一部は測量と称して江戸湾奥深くまで侵入した事件が起きました。7年前、ジェームズ・ビドルが来航したのですが、開港に失敗し、その結果を理解したアメリカは、今度は最初から脅す戦略に出たのです。そのこわもて外交の結果、幕府はペリー一行の久里浜への上陸を認め、そこでアメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され、翌年の日米和親条約締結にという結果になりました。日本ではおもに、この黒船事件から明治維新における大政奉還までを「幕末」と呼んでいます。
ビドルが来日した時の階級はcommodoreで日本では代将と呼んでいますが、准将と呼ぶこともあります。ペリーも同じく代将でした。海軍の階級では将官の一番下が少将で、佐官の一番上が大佐で、その間の階級です。海軍は純粋の階級の他に実行部隊の指揮をするための職階があります。艦長は原則大佐が指揮を執りますが、艦隊の場合、その中の一人が艦隊司令官となります。そこで「司令官たる大佐」を「艦長たる大佐」よりも上位に位置づける必要があり、将官ではないが「司令官たる大佐」に将官の代理として代将の職位或は階級が設けられていて、それが代将です。特にアメリカ合衆国の場合は19世紀まで海軍将官に任命するには議会の議決が必要となるという手続の煩雑さがあったために、艦隊の指揮官を代将に任じる場合が多かったのです。もう1つ海軍には提督(admiral)というのがありますが、これは職位で艦隊総司令官のことですが、若干敬意が込められています。そのためペリー提督とすることもあります。大まかにいえば陸軍と空軍が将軍、海軍が提督だと思えばよいです。陸軍と海軍では歴史が違うので、呼び名も異なっています。その意味では空軍は陸軍よりです。
黒船の来日以降、日本が戊辰戦争という内戦に向かって国内分裂していきます。現代風の見方をすれば、米海軍が侵入してきて、米国と不平等条約を結ぶことになりました。幕府は米国とは戦わずして屈服した訳です。しかしその後、生麦事件をきっかけに文久三年(1863)薩摩と大英帝国が戦争します。薩英戦争の結果、薩摩が善戦し和睦に至った結果、双方が実力を認めて、以降、薩摩と英国は接近していきました。同じ頃、長州も米・仏・蘭・英と戦争をします。それが下関戦争です。
結果は長州が四国連合艦隊に惨敗し、賠償を払うことになりました。長州は幕府の命に従っただけと主張して莫大な賠償金を幕府に押し付けました。この戦争で長州は攘夷が不可能であることを悟り倒幕へと運動していきました。客観的に見れば、当時の日本は欧米列強と局地戦を展開し、敗れた地域同士で内戦が起き、英国を背景とした薩長が幕府政権を倒したクーデターと見ることもできます。列強側も一枚岩であった訳ではなく、米国本土で英仏が戦い、英米は独立戦争とその後の北米の領土を巡る英米戦争があり、お互いに領土を巡る植民地戦争を戦っていた訳ですから、世界中のあちこちで戦争が起きていた時代というのが正しい歴史観です。
日本では戊辰戦争という内戦にしか関心を持たない人が多いですが、黒船事件は世界の植民地戦争の1つとして日本もその対象になった、というのが事実です。それまでの鎖国が不可能になり、今でいうグローバル化がここから始まったといえます。黒船というと「外圧」という見方が浸透していますが、外国が圧力をかけてくるのは当たり前のことだったのです。

ペリー