ジェームズ・ビドル

ジェームズ・ビドルという名前をごぞんじでしょうか。野球選手としてご存じの方もおられると思います。彼とは同姓同名の歴史上の人ですが、それほど歴史に埋もれてしまった人物です。弘化3年(1846)閏5月26日に浦賀に入港したアメリカ人海軍軍人で、ペリーの前にやってきました。ビドルは戦列艦・コロンバスおよび戦闘スループ・ビンセンスを率いて、日本に向かってマカオを出港し、弘化3年閏5月26日に浦賀に入港したのですが、直ちに日本の船が両艦を取り囲み、上陸は許されませんでした。ビドルは望厦条約(ぼうかじょうやく。1844年、清とアメリカの間で結ばれた条約)と同様の条約を日本と締結したい旨を伝えます。数日後、日本の小舟がコロンバスに近づき、幕府からの正式の回答を伝えるために、日本船に乗り移って欲しいと申し出ました。ビドルは躊躇したものの、同意します。ビドルが日本船に乗り込もうとしたとき、通訳の手違いから、護衛の武士がビドルを殴り、刀を抜くという事態が発生しました。ビドルはコロンバスに戻り、日本側は謝罪します。結局、幕府からの回答は、オランダ以外との通商を行わず、また外交関係の全ては長崎で行うため、そちらに回航して欲しいというものでした。ビドルは「辛抱強く、敵愾心や米国への不信感を煽ること無く」交渉することが求められていたため、それ以上の交渉を中止し、6月7日、両艦は浦賀を出港しました。その際、帆船のため、風が無く浦賀から出られなくなるという事態に陥り、曳航してもらったという事態も起きました。なお、ビドルが来訪するであろうことは、その年のオランダ風説書にて日本側には知らされていたのだそうです。ビドルはコロンバスを率いて太平洋を横断し、12月にはチリのバルパライソに到着した。米墨戦争の勃発に伴い、翌1847年3月2日にはカリフォルニアのモントレー沖に移動した。そこで、太平洋艦隊と合流し、先任であったビドルは太平洋艦隊の司令官となったという輝かしい戦績があったのですが、日本との折衝に失敗したため、日本史には名が残りませんでした。ビドル来日の7年後、マシュー・ペリーが浦賀にやってきます。そして日本の開国に成功しました。ペリーはビドルの失敗を研究し、砲艦外交によって日本を開国させたのでした。(ウィキペディアより)
日本からするとペリーは敵でビドルはよい交渉相手だった可能性もあります。日本は頑なに鎖国を続けようとしたため、平和交渉よりも侵略を招き入れたという結果になってしまいました。外圧に弱い日本という構造はここから形成されたのかもしれません。もっとも当時、アヘン戦争を巡る状況についての情報は入っていたでしょうし、アヘン戦争でイギリスに敗北した清がイギリスと南京条約を結び、その内容は関税自主権の喪失、治外法権などを定めた不平等条約であったわけですから、日本もいずれこうなるかもしれないという恐怖心はあったでしょう。それが攘夷運動につながるわけです。望厦条約はマカオ郊外の望厦村において、イギリスに南京条約で認めた内容とほぼ同様のことを定めた修好通商条約がアメリカとの間で結ばれたものです。いわば便乗です。さらに清はフランスとも黄埔条約を結び欧米列強の中国進出が本格化していったのです。幕府のままの体制だと日本も同じ運命を辿った可能性もあったといえます。薩長がイギリス、幕府がフランスをバックにした戊辰戦争は欧米によって引き起こされた内戦という見方もできます。明治維新後、結ばれた条約は不平等条約でしたから、その後の日本が必死の努力で改正していけたのは奇跡的かもしれません。

帆船