役行者

役行者(えんのぎょうじゃ)は役小角(えんのおづぬ)とも呼ばれ、伝説の多い人物なので昔は文楽の題材にもなり、坪内逍遥の戯曲や近年では真幻魔大戦、魔界水滸伝、宇宙皇子などの小説にも登場しており、ごぞんじの方も多いと思います。役小角は修験道の開祖であり、飛鳥時代の実在の人物です。役(えん)というのもあまり見ない名前ですが、大和國葛城上郡茅原郷(現奈良県御所市茅原)の生まれで葛城流加茂氏の出身であり、同氏が地域の役(えき=租税の1つ)を管掌していたことから、役という氏を名乗ったのだそうです。エンという苗字は今でもあるらしいです。父の名が大角なので息子が小角です。17歳の時に元興寺(飛鳥寺)で孔雀明王の呪法を学んだとされています。孔雀明王の呪法は密教の秘伝で、日本に密教が伝来したのは最澄の唐からの帰国が805年とされていますので、小角が会得したのは今でいう密教ではなく、古神道と仏教が習合していく過程で、飛鳥時代の仏教の伝来以降にあった仏教の一部であると考えられます。その後、小角は葛城山で山岳修行を行い、熊野や大峰の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築きました。そして文武天皇3年(699)皐月24日に弟子の讒言により伊豆に流罪となり、2年後に大赦により戻りますが、箕面の天上ケ岳で入寂したと伝えられます。修験道が広まるのは平安時代からで鎌倉時代後期から南北朝時代に独自の立場を確立しました。後の江戸幕府は慶長18年に修験道法度を定め、真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派のどちらかに属さねばならないこととし両派に分けました。その流れが現在も続いています。明治元年の神仏分離令に続き、明治5年、修験禁止令が出され修験道は禁止されました。山伏は強制的に還俗させられ、廃仏毀釈により修験道の信仰に関するものもほとんど破壊された。修験系の団体の中には仏教色を薄めて教派神道となったものもあり、御嶽教、扶桑教、実行教、丸山教などがあり、神道にもかかわらず不動尊の真言や般若心経の読誦など神仏習合時代の名残も見られます。
また明治以降、修験禁止になっても修験道の気合術を民間療法に活かした修験浜口熊嶽、気合術の気合・合気を武術に活かした大東流合気柔術などが出ました。このように修験道は古くからあり、現在も形を変えて存在しています。
日本の仏教は飛鳥時代に渡来し、それぞれの時代に密教や禅などの外来の教えが来て、さらに独自に発展していったのですが、東アジアの仏教初期の教えからはかなり離れてきています。そして仏教が国教だった時代もあり、幕府による禁令や明治政府の廃仏毀釈、そして戦後の進駐軍による弾圧もあり、当初の形から大きく変わりました。しかし修験道はその修行スタイルのせいか人気があり、今も山伏の恰好で修行に励む人がいます。そして小角の伝説はその後もいろいろ付け加わってきて、超能力者として信仰の対象として人気もあるようです。出羽三山、恐山、熊野三山など多くの山が山岳修行の場となっていて、パワースポットとして観光名所にもなっています。日本の霊山はすべて修験道と関わりがあるといって差し支えないほどで、多くの人は宗教という意識がなく訪れています。修験道は神仏混淆という日本独自の宗教スタイルの原型でもあり、『文明の衝突』でハンチントンが「日本教」と呼んだ分類法が的を射ているのもうなずけます。他の宗教でも土着の宗教と混淆した例はいくつもありますが、日本のように長い歴史をもち独自の発展をした例は少ないと思われます。

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