木崎原の戦い

木崎原(きざきばる)の戦いをごぞんじでしょうか。歴史ファンなら知ってますが、教科書には載らないことが多いのと九州での地方の戦いなので余り知られていません。この戦いは九州の桶狭間と呼ばれ、少数が多数に勝利した戦さです。そこには知略と作戦がありました。元亀三年皐月四日、日向国真幸院木崎原(ひゅうがのくに、まさきいん、きざきばる)(現在の宮崎県えびの市)において伊東義祐と島津義弘の間でおこなわれた合戦です。大軍(3000人という説が有力)を擁していた伊東側が少数の兵力(300人程度)しか持っていなかった島津側に敗北を喫してしまいました。しかし桶狭間の戦いとは異なり島津軍も兵力の8割以上が討死にしました。この戦いをきっかけとして伊東氏は衰退し始め後の「高城川の戦い(耳川の戦い)」の遠因ともなりました。「木崎原の戦い」は島津側の呼び方であり、伊東側からは「覚頭(加久藤)合戦」と呼ばれているそうです。この結果、島津が九州における勢力を伸ばすきっかけにもなりました。
伊東軍は半数の1500を島津義弘の居城である飯野城の押さえとし、残る半数を義弘の妻子が籠もる加久藤城を囲みました。加久藤城の守備兵は僅か50です。知らせを受けた飯野城の島津義弘の手勢も300。しかし飯野城を発した義弘は50の兵を本地口に留めると、残りの230を率いて加久藤城に向かいます。そして二八坂に至ると60を加久藤城の救援に向かわせ40を南の白鳥山麓に埋伏させ、130の兵で二八坂に布陣します。かなり細かく分散させたわけです。一方の伊東勢は加久藤城の外郭を破りそれで城を攻略したと勘違いしたこと、また島津義弘勢の接近もあって白鳥山へ陣を移そうとしました。加久藤城北方には伊東軍である相良義陽軍500が二手に分かれて接近していましたが、あらかじめ義弘が置いていた偽の兵を大軍と見誤り引き返してしまいます。白鳥山方面に向かった伊東軍は飯野城の押さえと合流して3000となりました。 しかしあらかじめ義弘が言い含めていた白鳥権現の氏子300余名があたかも島津勢であるかのように鉦を鳴らし喚声を上げたため、伊東祐安は島津の伏兵の出現と勘違いし、あわてて白鳥山から離れました。平家が水鳥の羽音に驚いて伏兵と勘違いしたとされる富士川の戦いに似ています。もしかすると義弘はそのことを知っていたかもしれません。そこを島津義弘の本隊130が突撃をかけます。とはいえ伊東軍は3000で兵力差は明らかでした。しかし島津の突撃の鋭さは伊東軍を切り裂き、頃はよしと見ると義弘は一転退却して逃げます。島津軍が逃げたことで態勢を立て直した伊東軍は追撃をかけ木崎原に至ります。これが義弘のねらいでした。突如伊東軍の背後を白鳥山麓に潜んでいた40の伏兵が襲い伊東軍を混乱させ、続いて加久藤城の援軍に向かった兵60と加久藤城の兵50が伊東軍を攻撃します。さらに一旦逃げていた義弘の島津軍が反転して動揺する伊東軍を再び突き崩して伊東祐信を討ち取りました。これを「釣り野伏」先方と言い島津の得意技でした。この思わぬ島津の反撃に伊東軍は大混乱に陥り退却を始めますが、そこを本地口に留まっていた50の島津軍がさらに追い討ちをかけ伊東軍は敗走するに至りました。10倍の敵を破るという常識を覆す戦いをやってのけた島津義弘ですが、味方の死傷者も8割に及ぶという満身創痍の勝利ではありました。
兵力差が大きいのに兵力を分散することは大きなリスクになるのですが、こうした知略があれば勝つこともあります。あちこちに兵を伏せておき、突如現れるという、いわゆるゲリラ戦で、現代でも米軍相手にベトナム、アラビア半島などで実践され勝利とまではいかなくても米軍が撤退を余儀なくされています。大軍は小回りが利かないのと、指揮官の誤認が出やすくなります。企業においても大企業の弱点がそこにあり、中小企業の勝機がそこにあります。ランチェスターの法則でいう8対3は正面対決が前提の艦隊戦のような局地戦においてのみ有効なのです。こうした戦術は昔も現代も基本は変わりません。そこに歴史に学ぶことの重要性があるともいえます。

木崎原