阿弖流為

京都の清水寺に参詣の折、本堂の清水の舞台の下というか、観覧の最後である音羽の滝をすぎて出口に向かう広い所の左手に「阿弖流為・母禮(アテルイ・モレ)の碑」があります。観覧の最後なので気が付く人は少ないのですが、「鬼滅の刃」のヒットの影響か最近の鬼ブームで人気も出ているようです。
延暦21年(802年)卯月15日アテルイとモレは坂上田村麻呂に降伏したとされています。アテルイは教科書にも少しだけ記述がありますが、それは坂上田村麻呂が桓武天皇から征夷大将軍に任ぜられたことによる敵方として紹介されるにすぎません。この征夷大将軍が後々江戸幕府まで将軍の役職の1つとして受け継がれたので、初代として名を遺したわけです。アテルイは本名を大墓公阿弖流為 (たものきみ あてるい)というのだそうですが、阿弖利為(あてりい)という記述もあるようで、諸説があります。音を漢字で書いたので揺れがあるのです。古文書ではよくこういう揺れがあります。アテルイは東北地方を支配していた蝦夷(えみし)の首領でモレが副首領でした。エミシとエゾは同じ漢字で表記するので混乱するのですが、エビスという読み方もあります。古事記の中の神武東征記では愛瀰詩と書かれており、古くからその存在が知られていました。エゾは現在のアイヌを指すとされ、エミシとエゾは同一という説はあの金田一京助が主張したのですが、エゾの表記は鎌倉時代からの文献にあることから、エミシとエゾについては諸説があります。
大和朝廷は古からエミシとの戦いがあり、桓武天皇は東北の地方豪族であった坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じて征伐を図ります。大和朝廷側からみれば征伐ですが、エミシ側から見れば侵略です。坂上田村麻呂は陸奥国に胆沢(いさわ)城を造営し、全国から集めた4000人をそこに住まわせました。いわば出城で現在の岩手県奥州市水沢に跡があります。城といっても城柵であり、周囲を土塁で囲み内堀を作ってその中を柵で囲ったものなので砦という方がイメージしやすいと思います。アテルイの降伏は胆沢城の完成前で、その後の150年間、東北支配の鎮守府の役割をしていました。
清水寺のアテルイとモレの顕彰碑は胆沢の人々により清水寺境内に1994年に建立されました。清水寺は坂上田村麻呂の建立とされていますが、清水寺の始まりを記した『清水寺縁起』によると、奈良の修行僧、賢心が夢で「北へ清泉を求めて行け」とお告げを受け、賢心は霊夢に従って北へと歩き、やがて京都の音羽山で清らかな水が湧出する瀧を見つけます。この瀧のほとりで草庵をむすび修行をする老仙人、行叡居士(ぎょうえいこじ)と出会ったのです。行叡居士は賢心に観音力を込めたという霊木を授け「あなたが来るのを待ち続けていた。どうかこの霊木で千手観音像を彫刻し、この観音霊地を守ってくれ」と言い残して姿を消したといいます。賢心は「行叡居士は観音の化身だ」と悟り、以後、音羽山の草庵と観音霊地を守りました。賢心が見つけた清泉は、その後「音羽の瀧」と呼ばれ、現在も清らかな水が湧き続けています。奈良時代末に清水寺の延鎮上人に鹿の狩りに来ていた坂上田村麻呂が出会い、殺生を戒められて改心して妻とともに観音に帰依して仏堂を寄進したとされます。このことから、清水寺は延鎮上人を開山、坂上田村麻呂を本願としています。
坂上田村麻呂は蝦夷征伐に向かう前にも清水寺に祈願しています。アテルイとモレは坂上田村麻呂に降伏して平安京に連行され、公卿会議にかけられます。彼らに現地支配させようという意見もありましたが、坂上田村麻呂の懇願にも関わらず、結局河内国で斬られます。戦いの現場同士の間には互いに尊敬のようなものが生まれるのですが、遠くの中央にいる政治家たちは後難を恐れるあまり原因は断ち切ってしまえ、という意見になり、それが多数になるのは古今東西の歴史が示すところです。大阪府枚方市の牧野公園に「伝 阿弖流為 母禮 之塚」碑がありますが、首塚とされていた丘陵は昭和28年の台風13号被害復旧のために重機で破壊されてしまったそうです。

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