壇ノ浦

元暦(げんりゃく)2年/寿永4年弥生24日壇ノ浦の戦いで平家は滅亡します。元号が二つあるのは天皇を巡る争いがあったからです。元暦は寿永の後から文治の前までで西暦でいう1184年から1185年までの短期間です。この時代の天皇は後鳥羽天皇で源氏と平家の争乱の時代でしたから、平家ではこの元号を使用せず寿永を引き続き使用していました。ところが元暦2年7月9日に大地震が発生し、京都でも被害が大きかったため翌月の8月14日に文治に改元されました。文治地震は壇ノ浦の戦いの約4ヶ月後に発生したため『平家物語』には「この度の地震は、これより後もあるべしとも覚えざりけり、平家の怨霊にて、世のう(失)すべきよし申ければ、心ある人の歎きかな(悲)しまぬはなかりけり。」(こんなに酷い地震は今後はもうないと思われるくらいで、これは平家の怨霊によってこの世が滅ぶのではないかと噂が流れ、心ある人は皆嘆き悲しんだ)とあり、相当酷いものであったことが伺われます。地震や疫病流行など自然現象のもたらす災害による改元が昔はよくありました。戦争が起こる時は地震や疫病、飢饉など自然災害の時期と重なることが多いです。そういう時は人心の一新を図るため改元が行われたのです。
壇ノ浦は現在の下関海峡で行われ、平知盛と源義経の水軍同士の戦いでした。当初は水軍戦に慣れた平家有利でしたが、潮の流れが反転し、義経軍はそれに乗じて猛攻撃を仕掛け、平氏の船隊は壊乱状態になり、やがて勝敗は決しました。『平家物語』は敗北を悟った平氏一門の武将たち、女性たちや幼い安徳天皇が次々に自殺してゆく、壮絶な平家一門滅亡の光景を描写しています。平家物語である平曲では琵琶の寂しげな音色と悲しい物語が一層、心に迫るものがあります。「祇園精舎の鐘の声」から始まる冒頭部分が有名ですが、この段もお勧めです。ただ昔は盲僧琵琶のものが多かったのですが、現在は筑前琵琶による、より派手な弾奏がほとんどです。盲僧の琵琶は4弦で持ち歩きしやすい小さな型ですから、響きも弱いのですが、筑前琵琶は5弦で型も大きいので迫力があります。
平知盛は建礼門院や二位尼らの乗る船に乗り移り「見苦しいものを取り清め給え」と自ら掃除をしてまわます。形勢を聞く女官達には「これから珍しい東男をごろうじられますぞ」と笑ったので、これを聞いた二位尼は死を決意して、幼い安徳天皇を抱き寄せ、宝剣を腰にさし、神璽を抱えました。安徳天皇が「どこへ連れてゆくの」と仰ぎ見ると、二位尼は「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございますよ」と答えて、海に身を投じました。しかし入水した建礼門院は助け上げられ、八咫鏡と神璽(八尺瓊勾玉)は回収されましたが、二位尼とともに入水した安徳天皇は崩御し、天叢雲剣も海に没してしまいました。世にいう三種の神器の1つはこの時に失われてしまったのです。今熱田神宮にある草薙の剣はレプリカということになっています。
壇ノ浦の戦いの前には屋島の戦いがあり、ここでは有名な那須の与一の扇の的を射る話があります。那須与一にはいろいろな伝説が各地に残っており、歴代の那須家当主が与一を名乗ったため、墓所が各地にあります。一方の扇の的を差し出した平家方の玉虫御前にもいろいろな伝承が残っています。これに限らず、平家の落武者の伝説は各地に残っていて、この源平の戦いがいかに重要であったかを物語っています。なお二組に分かれて戦うことを源平合戦といい、源氏の白旗と平家の赤旗から紅白戦という表現が広がりました。紅白歌合戦の合戦の由来は男女別ではなかったのです。

赤間神宮