キリシタン禁令

慶長17年(1612)弥生20日にキリシタン禁令が公布されました。キリシタンを漢字で書くと切支丹で、これは古いポルトガル語のChristanからきています。ポルトガルの宣教師がキリスト教を日本に持ち込んだ戦国時代から明治の初めごろまで使われてきました。切死丹あるいは鬼理死丹という書き方もありましたから、夜露死苦みたいなものかもしれません。今風の読み方だとクリスタンになるはずですが、昔は子音をすべてイ行にしていました。少し前までinkはインキ、strikeはストライキで未だに残っているものもあります。greenも昔の英語辞書にはギリーンと読み仮名が振ってありました。ウ行にすると原語に近いと誤解している人が多いですが、母音がないのが子音字の読み方ですから、イでもウでも同じことです。現代日本英語は子音にウを付けるのが流行りで、zedやbedなどは今でも子音を無声化してそれにオをつけるので、ゼット、ベットとなって定着しています。バテレンは伴天連と書きますが、カトリック神父のポルトガル語padreパアドレをこう書いたのが起源だそうです。伴天連追放令は慶長15年(1587)7月24日で秀吉により先に公布されました。なぜ追放したのかは解説が多いのでここでは省略しますが、そもそも宣教師は何をしに日本に来たかを改めて考えたいと思います。
カトリックの修道僧は能力により概ね4つの集団に分けられます。神学という教義を研究する学問集団、民衆への説教をする能弁な説教集団、重要な食物であるパンと葡萄酒を作る職人集団、海外に出向いて布教する布教集団です。職人集団として有名なのがドン・ペリニヨン、あの超高級シャンパンの通称ドンペリはこの人の名前がついています。彼が直接シャンパンを作ったわけではなく、たまたま放置しておいたワインが発酵して発泡ワインになったことを記念してモエシャンドン社が名前を冠したのです。今でも欧米の修道院に行くと自家製のパンとワイン、たまにオリーブ油やワイン酢も売っている店が併設されていることがあります。
日本にやってきたのは布教集団の宣教師で、わざわざ地の果てのようなところにまで来るのは植民地主義の本国の先兵としての意味がありました。実際、布教が進んで改宗者が増えたところで、キリスト教徒が反乱を起こし、それに乗じて本国から軍隊がやってきて占領するというパターンが世界的にありました。とくにアジア諸国のように仏教という強力な宗教がなかった南北アメリカ大陸では、このパターンが有効に働きましたから、結果的に植民地となり欧州の言語・宗教・文化がそこを支配するようになりました。北米が英語圏、中南米がスペイン語圏なのは植民した時代と国が異なるからです。しかし欧州文化が純粋なまま伝承されることは少なく、民族が混血化するのと同時に言語や文化や宗教も混淆化して現在に至っています。南北アメリカは宗主国とは違ったまま発展し独自に近く変化しています。
こうした情報は当時の日本にも入ってきたということです。織田信長の時代は単純に異国のものということで素直に受け入れていたのですが、豊臣秀吉の時代になると情報が豊富になってきて、警戒心も強くなりました。秀吉は明にまで行こうとしていた位ですから、当然アジア諸国の情報をもっていました。山田長政がシャム(タイ)に行った位で南蛮貿易により現地情報が入っていました。切支丹禁令や伴天連追放は悪行のように思うのは欧米の価値観であり、そのまま受け入れていれば明治維新を待たずに日本は植民地となり西欧化したことが想像されます。歴史にIFはありませんが。

キリシタン