江戸城無血開城

4月13日は旧暦3月13日で明治元年(1968)江戸城が無血開城となり官軍に明け渡された日です。これは西郷隆盛と勝海舟が薩摩藩の蔵屋敷で会談し江戸が戦場となることを避けるために江戸城の開城に合意した結果とされています。もしこの会談が決裂していれば、翌々日の3月15日には総攻撃が予定されていて、100万人都市であった江戸の町が火の海になったことは想像に難くありません。会談の場所である薩摩藩蔵屋敷跡は現在三菱自動車工業の本社ビルになっており、地下鉄三田駅あるいはJR田町駅の近くで碑があります。江戸城はその後、明治政府の所有となり現在は皇居と呼ばれています。まさかと思うのですが、皇居と江戸城は別物と思っている人がたまにいます。あの吉宗のドラマで姫路城が使われるため、江戸城はああいうものだと誤解しているのです。皇居には今、天守閣がありません。昔は立派な天守閣があったのですが、明暦3年(1657)の大火で焼失してしまい、修復された石垣の土台(天守台)だけが今も皇居東御苑に残っています。その土台の大きさから天守閣をイメージで想像するしかありません。
歴史に詳しい方はごぞんじですが、ざっくりと解説すると、そもそもこういう結果になったのは江戸幕府が衰退し、最終的に慶応3年(1867)の大政奉還により、江戸幕府が消滅、政権が天皇側に移ったことが始まりです。江戸城は江戸幕府の城ではなく徳川家の城で、徳川家までなくなったわけではないので、江戸城の所有権は徳川家のままです。当然明治政府は江戸城も返せと迫ったのですが、徳川慶喜はまだ政治の実権は自分がもっているという意識でしたから、当然拒否し、幕府軍と天皇側である薩摩長州連合軍と戦うことになります。これが鳥羽伏見の戦いです。幕府軍は敗北し、慶喜は江戸に家臣を捨てて逃げ帰ります。薩長軍は当然、江戸まで追いかけて最終的に徳川家の滅亡を狙います。そして3月15日に江戸総攻撃をかけるというところまで来ました。しかし江戸市民が大勢犠牲になることは目に見えているので、この西郷・勝会談となったわけです。無論、無条件で明け渡すのではなく、交渉に入った山岡鉄舟の努力で7か条の条件提示があり、慶喜の身柄を引き渡す以外の条件を幕府側が呑むことで武装解除や家臣の謹慎などが実現しました。戦争の結果、城を明け渡すことはそれまでにもあり、多くは城攻めによって奪い取られるのが普通ですが、話し合いによって明け渡したのは珍しい例です。軍事的な見方をすると、それだけ兵力に大きな差があったともいえます。江戸城無血開城の後は、幕府軍の残党と官軍との戦いは地域戦となり、江戸では彰義隊の戦い、そして東北地方で奥羽越列藩同盟との戦いや有名な白虎隊の会津戦争があり、最終的に蝦夷地(北海道)の五稜郭の戦い(函館戦争)で終結を迎えます。この1年あまりの一連の戦争を慶応4年(1868)干支でいう戊辰なので戊辰戦争と呼んでいます。鳥羽伏見の戦いの前には新選組の活躍があり、新選組副長の土方歳三は最後の函館戦争で討ち死にします。日本国内にも内戦は関ケ原や大阪夏冬の陣など全面戦争がありましたが、全土を巻き込んだ内戦は戊辰戦争だけだろうと思います。
昔聞いた話ですが、ある徳川家縁の方が、酔っぱらうとタクシーで皇居に乗り付け、大声で「ここは俺んちだ、返せー、ばかやろう」と怒鳴るのが常だったとか。領土とか家とか、家が没落して誰かに取られてしまうことがよくありますが、その家の人にしてみれば理不尽に思うのも無理はないでしょうね。

東御苑