菅公忌

3月27日は旧暦2月25日で菅公忌です。菅公こと菅原道真公は承和12年〈845年〉6月25日に生まれ、延喜3年(903年)2月25日に九州の大宰府でお亡くなりになりました。享年59歳。藤原の時平の讒言により左遷されて、俸給や従者も与えられず衣食住もままならない状態で無念の死を遂げられました。長男の高視ら子供4人が流刑に処されました。菅公の死後、延喜6年(906年)、道真の嫡子高視は赦免され大学頭に復帰しました。延喜9年(909年)には藤原時平が39歳で病死したのは後に道真の怨霊によるものだとされました。延喜13年(913年)には右大臣源光が狩りの最中に泥沼に沈んで溺死したり、延喜23年には醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王が薨御したりしました。これらは道真の怨霊がなしたものだということになりました。怨霊を鎮めるため同年4月20日道真公は従二位大宰員外帥から右大臣に復され、正二位を贈られました。

その後の延長8年(930年)朝議中の清涼殿が落雷を受け、大納言藤原清貫をはじめ朝廷要人に多くの死傷者が出た上に、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御しました。これも道真の怨霊が原因とされ、天暦元年(947年)に北野社において神として祀られるようになりました。これが天神様の始まりです。

一条天皇の時代には道真の神格化が更に進み、正暦4年(993年)6月28日には贈正一位左大臣、同年閏10月20日には太政大臣が贈られ最高位となられました。よほど菅公の怨霊が恐ろしかったとみえます。

道真公は幼少より詩歌に才を見せ、11歳で初めて漢詩を詠んだ、とされています。貞観4年(862年)18歳で文章生となり貞観9年(867年)文章生のうち2名が選ばれる文章得業生となり、正六位下・下野権少掾に叙任されました。貞観12年(870年)官吏登用試験に合格し正六位上となりました。貞観16年には従五位下に、兵部少輔ついで民部少輔に任ぜられました。当時の朝廷の第一人者藤原基経も道真の文才を評価し度々代筆を道真に依頼しているほどでした。元慶元年(877年)式部少輔次いで文章博士を兼任するようになります。こうして朝廷における文人社会の中心的な存在となりました。

仁和2年(886年)讃岐守を拝任し式部少輔兼文章博士を辞して任国へ下向しました。道真公はこれを左遷と考えていたようです。仁和4年(888年)阿衡事件が発生し、基経が職務を妨害する事態となりました。この阿衡事件の後も厚い信任を受けていた橘広相が病没し、宇多天皇は代わる側近として道真を抜擢しました。寛平3年(891年)2月29日道真公は蔵人頭に補任されました。蔵人頭は天皇近臣中の近臣ともいえる職であり、紀伝道の家系で蔵人頭となったのは、道真以前は橘広相のみでした。さらに式部少輔、左中弁を兼務。翌寛平4年(892年)従四位下に叙せられ左京大夫となりました。寛平5年(893年)2月16日には参議兼式部大輔に任ぜられて公卿に列し左大弁を兼務しました。この年、敦仁親王が皇太子となりましたが、宇多天皇が相談した相手は道真一人であったそうです。この立太子に伴い道真は春宮亮を兼ねることになりました。

寛平6年(894年)遣唐大使に任ぜられますが、道真公は唐の混乱を踏まえて遣使の再検討を求める建議を提出しますが建議は結局検討されず、道真公は遣唐大使の職にありつづけました。結局内外の情勢により遣使が行われることはなく、延喜7年(907年)に唐が滅亡したため、遣唐使の歴史は終わります。寛平7年(895年)従三位・権中納言、権春宮大夫に叙任。昌泰2年(899年)右大臣に昇進して、時平と道真が左右大臣として肩を並べるようになりました。

このように天皇の信任も厚く、才能もあって、トントン拍子で出世されたのですが、それが周囲の嫉妬を買い、讒訴の原因となりました。現在では学問の神様ですが、出世の神様でもあります。その分、怨霊としてのパワーもすごかったのでしょうね。