国際寛容の日

11月16日はInternational Day for Tolerance寛容のための国際デーだそうです。定義は”Tolerance is respect, acceptance and appreciation of the rich diversity of our world’s cultures, our forms of expression and ways of being human.”(「寛容とは、世界の文化の豊かな多様性、表現方法、人間としてのあり方を尊重し、受け入れ、感謝することです。」ユネスコスクールhttps://www.unesco-school.mext.go.jp/events/international-day-of-tolerance-japan-11-16-2/)となっています。「1995年の国際寛容年を受けて、翌1996年に制定されました。」とのことです。「寛容な」という日本語に対応する英語はtolerantの他にopen-minded, permissive, lenient, generousなどいろいろあります。つまりは場面に応じて使い分けが必要な単語で、定義のような使い方が最も抽象的で無難ですが、具体性がないのが欠点ですが、そこは寛容に赦さねばならないのでしょう。そもそも国連がこうした決議をしなければならないのは世界の人々が寛容でないからです。平等を訴えるのは平等でないことがあるから、公正を訴えるのは公正でないことがあるから、といえます。日本人の場合、元々寛容な文化があり、今更訴えられてもどうしたら良いのか迷いませんか?日本社会では寛容かどうかは個人の資質としてとらえられることが多いと思います。寛容な人かどうかの判断です。強いていえば自分に対して寛容なのかどうかが問題でしょう。日本という国が世界の文化の多様性や表現方法、人間のあり方について他国にあれこれ言うという考えはまずないように思えます。多少隣国と揉めることはあっても他国のこととして干渉することは少ないと思います。ところが世界の多くの国では他国に干渉することが多いのです。他国を自国に従わせようとする国が多いので紛争や戦争が絶えないわけです。現在の世界がナショナリズムとグローバリズムが拮抗している状況で、ナショナリズムが自国中心になることはわかりやすいですが、グローバリズムが主張する国の価値判断を他国に押し付けているようなものになっていることはないでしょうか。グローバリストが寛容かどうか受け入れる前に検証の必要があると思います。寛容は自分に対して求めるべきもので、他人に求める時点で自分は寛容でなくなってしまいます。多様性の容認を押し付ける論理が自己矛盾になるのと同じです。多様性を認めない人もいることが多様性そのものです。多様性や寛容性といった抽象概念はなかなか理解がむずかしく具体例がないと判断できません。国連が決めたことだからと寛容性のない国や人を罰するようなことがあれば自己矛盾になります。しかしそれでは寛容な世界はなかなか形成されません。「寛容とは、普遍的な人権と他者の基本的自由を認めることです。」とユネスコスクールは説明しています。具体的にはどうなのでしょう。

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