ヤマトタケルとクマソ

2022年11月6日は旧暦神無月十三日で、wikipediaによると景行天皇27年(97年)に景行天皇が息子の小碓皇子(後の日本武尊)に熊襲討伐を命じた日だそうです。日本武尊といえば、一昨日の酉の市のコラムで紹介したように、東征の帰路、武蔵野国南足立郡花又村で戦勝を祝したのが酉の市の起源とされていますから、東征と熊襲征伐は違いますが、日本史伝説のヒーロー日本武尊について検索しました。
古事記と日本書記では日本武尊の記述に違いがあるようですが、広く知られているヤマトタケルの話はロマンチックな記述の多い古事記が元になっているようです。今は完全に封印されてしまった戦前の日本史の教科書では、日本武尊父である天皇に忠義を尽くした人であり、妃のオトタチバナヒメ(弟橘姫)は古来の日本女性の献身のたとえとされていました。実在については例によって諸説がありますが、卑弥呼と邪馬台国の話が外国(魏)の歴史書の一部に記述があることに比べると、日本の歴史書である古事記と日本書記に記述され、また伝承に基づく神社が各地にあることから、信憑性はより高い、というか歴史ロマンとして尊重すべきと思われます。古代史というのはどこの国でも文書による記述が基盤であり、日本が古事記や日本書記を基盤として語ることは自然なことだと思われます。
日本武尊の父である景行天皇は第12代で景行元年(71年)即位され、大碓尊(おおうすのみこと)、小碓尊(おうすのみこと、後の日本武尊)の兄弟(双子とも)が生まれます。そして都を纒向日代宮(奈良県桜井市)に遷されました。現在、纒向遺跡は邪馬台国との関連と「初期ヤマト王権の都市」という書き方が紹介される傾向にありますが、近くに景行天皇陵もあり普通に信じてよいと思います。この周辺は古代遺跡も多いので、歴史ファンなら一度は行ってみたいものです。景行12年、熊襲が叛乱を起こし天皇自ら征伐に向かわれ平定します。しかし景行27年、再び熊襲が叛乱し、今度は皇子の小碓尊(日本武尊)を使わして平定します。「小碓命が九州に入ると、熊襲建の家は三重の軍勢に囲まれて新築祝いの準備が行われていた。小碓命は髪を結い衣装を着て、少女の姿で宴に忍び込み、宴たけなわの頃にまず兄建を斬り、続いて弟建に刃を突き立てた。誅伐された弟建は死に臨み、「西の国に我ら二人より強い者はおりません。しかし大倭国には我ら二人より強い男がいました」と武勇を嘆賞し、自らを倭男具那(ヤマトヲグナ)と名乗る小碓命に名を譲って倭建(ヤマトタケル)の号を献じた。倭建命は弟健が言い終わると柔らかな瓜を切るように真っ二つに斬り殺した。」(wikipedia)ここにヤマトタケルの名前の由来がでてきます。不思議な話ではありますが、古代史というのはこういうロマンがおもしろいと思われませんか。

日本武尊