日本武尊

景行四十年(110年) 神無月二日、日本武尊が東夷討伐に出発したとされています。日本武尊(やまとたけるのみこと)は『古事記』では倭建命と表記されています。神話上伝説的な英雄で、舞台や漫画、アニメなどにもよく取り上げられます。これらのフィクションと古事記や日本書記の記述がまぜこぜになって理解されており、歴史学者の中にも実在を疑う説もあって、曖昧になっているのが実態です。
歴史というのはそもそもが事実は少なく、多くは推定や定説という推測に基づいています。日本では文献による記述を中心とする考えが基本にあるので、文献による差があると必ず異説があります。文献による考証には限界があり、たとえば「〇年〇月〇日、都の××殿が落雷による火事で焼失。人々は△△の祟りと恐れた」という記述があったとします。日付については誤記や捏造を除けば他の文献との照合によりほぼ確定できますから、事実といえます。都については時代考証が必要です。××殿の火事も他の文献との照合でほぼ確定できますから、事実と考えられます。人々というのは曖昧です。記述者の周囲だけかもしれませんし、あるいは記述者の主観を人々と言い換えているかもしれません。祟りについては推測というか当時の信仰との関わりであり、現代的には事実とは認定しがたいでしょう。このように記述があるからすべて事実とはかぎりません。火事の原因も落雷かどうかは検証がむずかしいです。放火かもしれませんし、失火かもしれません。またこの文献の記述者はまた聞きを書いたかもしれません。噂かもしれません。あるいは祟りを強調したいがための捏造かもしれません。ほぼすべてが推論なので、異説がでても検証の方法がなかなかないのが普通です。よくタイムマシンがあれば確かめられるという人がいますが、タイムマシンそのものがVRであって本当にその時代に行ったかどうかは現状では実証の方法がないです。極端な言い方をすれば、歴史とはどう信じるかという問題なのですが、かといって事実でないなら信じないということにはなりません。要は歴史から何を学ぶかです。フィクションからは何も学べない、ということはなく、哲学書などは個人の思想という内心ですが、学ぶことは多いです。最近の傾向としてエビデンスつまり証拠による論証のみが真実であるという人が多いですが、エビデンスが未発見あるいは存在しない真実というのもあります。「それでも地球は回っている」というガリレオの有名な言葉が真実を物語っているように、はるか未来にしかエビデンスが発見されないことなどいくらでもあります。未来だけでなく過去についても同じことがいえます。歴史も科学も推論と論証によって成り立っていることをまず知るべきです。日本武尊伝説も人々が信じるなら真実となります。

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