榎本武揚と蝦夷共和国

慶応四年=明治元年(1968)葉月十九日江戸幕府海軍副総裁榎本武揚は幕府全艦隊8隻を率いて江戸から箱館に向けて出航しました。この中には咸臨丸も含まれています。咸臨丸は他の1隻とともに房総沖で台風のため沈没しました。途中仙台で会津戦争で敗走した残党などを吸収して総勢二千数百名となり10月20日に鷲ノ木に後、数日で五稜郭を攻略し、箱館を占領しました。12月15日には蝦夷地全島平定の祝賀祭(蝦夷地領有宣言式)が催され、榎本を総裁とする仮政府の樹立を宣言しました。これが蝦夷地共和国です。自称という誤解もありますが、事実としては「共和国(リパブリック)」という表現を使ったのは同年11月英仏軍艦艦長に随行し榎本と会見した英国公使館書記官アダムズで彼が1874年に書いた著書 History of Japan において、箱館政庁を “republic” と紹介しています。彼が1874年に書いた著書 History of Japan において、箱館政庁を “republic” と紹介しています。戊辰戦争時、英仏蘭米普伊の6か国は局外中立の立場をとっており、榎本らは国際法の交戦団体としては認められませんでしたが、英仏からは「事実上の政権 De Facto」に認定されています。
独立国としての認定は今日の世界でも曖昧のままで、独立軍との紛争中の国は当然認めませんが、その国と対立している国々が認めることが多いです。イスラエルを未だに認めない国もありますし、台湾は中国が未だ独立を認めていません。ウクライナ紛争の原因となったウクライナ東部の独立は認めている国もあります。明治政府は独立国とは認めなかったので、その見解が未だに生きているということになります。
蝦夷共和国には幕府伝習隊の教練をしていたフランス軍事顧問団から副隊長ジュール・ブリュネ大尉ら5人がフランス軍籍を脱走して蝦夷政権に参加しており、海軍からの脱走者2人軍歴を持っていた横浜在住の民間人3人合計10人のフランス人が蝦夷政権に参加していましたから、それなりに国際的な組織でもあったわけです。
明治元年10月30日箱館占拠の通報が東京に届くと明治新政府は津藩・岡山藩・久留米藩計約1,000名を海路で青森に送り、11月19日には旧幕府軍追討令が出され函館戦争が始まりました。宮古湾海戦に敗れた共和国(旧幕府)軍は陸上でも敗戦し戊辰戦争は終結します。榎本武揚ら生き残った幹部は東京で投獄されますが、明治5年に釈放され、榎本は開拓使に任官、北海道鉱山検査巡回を命じられました。榎本はロシア帝国との樺太の国境画定交渉には駐露特命全権公使に任命され交渉にあたり、同時に日本最初の海軍中将に任命されました。その後、逓信大臣、文部大臣、外務大臣などの要職について活躍、明治41年73歳で病没します。反乱軍の大将で犯罪人であったにもかかわらず、出世していったのはよほど榎本が有能であったという証です。

五稜郭