牧氏事件

元久二年(1205)閏文月二十日、幕府内で完全に孤立無援になった北条時政と牧の方は出家し、鎌倉から追放され伊豆国の北条へ隠居させられることになった事件です。
時政はその後、二度と政界に復帰することなく建保三年(1215)、北条の地で死去。牧の方も夫の死後は娘を頼って上洛し、京都で余生を過ごしました。北条氏の第2代執権には義時が就任して北条氏は幕府内における地位を確固たるものとなりました。
その前の正治元年(1199)に源頼朝が死去した後、北条時政は有力御家人の梶原景時や頼家の外戚である比企能員一族を滅ぼして北条氏の地位を一段と高めてゆき、建仁三年(1203)二代将軍源頼家も廃して弟の源実朝を新将軍として擁立し自らは初代執権となりました。元久元年(1204)京の平賀朝雅邸で将軍実朝の妻坊門信清の娘(信子)を迎えるために上洛した御家人たちの歓迎の酒宴が行われ、その席で時政の後妻牧の方の娘婿である朝雅と時政の前妻の娘婿畠山重忠の嫡子重保との間で言い争いとなりました。周囲の取りなしで事は収まったものの、重保と共に上洛していた時政と牧の方の子政範が病で急死しました。
政範の埋葬と重保と朝雅の争いの報告が同時に鎌倉に届きます。元久二年(1205)重保と朝雅の対立を契機として、時政は畠山氏の討滅を計画します。このとき息子の北条義時は重忠とは義兄弟かつ友人関係であり、あまりに強引な畠山氏排斥を唱える父に対して反感を抱くようになります。しかし、父の命令に逆らえず武蔵二俣川にて畠山重忠一族を討ち滅ぼしました。人望のあった重忠を強攻策で殺したことは、時政と牧の方に対する反感を惹起することになりました。元久二年閏7月時政と牧の方は実朝を廃して、頼朝の猶子である平賀朝雅を新将軍として擁立しようとしました。政権を牛耳るためとはいえ、時政と牧の方のこのようなあまりにも強硬な策は一族の北条政子・北条義時らの反感を招きました。
政子・義時らは結城朝光や三浦義村、長沼宗政らを遣わして時政邸にいた実朝を義時邸に迎え入れ、時政側についていた御家人の大半も実朝を擁する政子・義時に味方したため、陰謀は完全に失敗します。時政本人は自らの外孫である実朝殺害には消極的で、その殺害に積極的だったのは牧の方であったとする説もあるそうです。そして翌二十日に時政と牧の方は鎌倉から追放されたわけです。時政が横暴であったことは確かですが、陰に妻の牧の方が糸を引いていたのも事実のようで、鎌倉幕府の正史「吾妻鏡」では北条の贔屓のため牧の方の陰謀を強調しているかもしれません。
鎌倉幕府は頼朝の死後、御家人たちの争いの連続でしたが、ついに内紛にまで発展していったわけです。この後、建暦三年(1213)北条義時を排除しようと企む泉親衡の謀反が露見。和田義盛の息子の義直、義重と甥の胤長が関係者として捕縛され、赦免を巡って北条氏と和田氏の関係は悪化、義盛は三浦一族の味方を得て打倒北条の決起をしますが、義村は直前で裏切って義時に密告、義時は義盛を破り和田氏は滅亡しました。そして三代将軍源実朝も頼家の子の公暁に暗殺されてしまいます。この暗殺の背景については諸説があるようです。

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