大雨時行

旧暦文月五日は大雨時行という七十二侯の1つです。たいうときどきにふる、と読みます。昔の大雨は今のような集中豪雨ではなく、夕立程度だったようです。夕立はユダチとも読み、歌にも歌われています。「夕立は馬の背を分ける」といい、局部的に降ることを意味しています。一度に激しく降る様子を「篠突く雨」という表現が講談や落語には出てきますが、篠とは篠竹のことで、細い竹が真っすぐ生えますから、篠竹が束になって刺さってくるような雨という形容です。この時期にたまに降る雹(ひょう)は白雨(はくう)ともいい、周囲が白くなって前が見えないほど激しく降る大雨のことです。葛飾北斎の富岳三十六景の『山下白雨』という浮世絵が有名です。この絵では白い雨が描かれておらず富士山の裾野に雷光が力強く描かれていて、富士山の上は晴れていても裾野は大雨になっている様子が描かれ、その対比が富士山の大きさを象徴しているとされています。
大雨とは関係ありませんが、建久5年(1194年)文月五日、禅の布教禁止処分が出されました。久2年(1191)、2度目の渡宋を終えて南宋より帰国した栄西は九州北部を中心に禅の布教を開始しました。筑前国筥崎の僧良弁は禅が広がるのを恐れ、弘通を停止するよう朝廷に働きかけ、建久6年、関白の九条兼実は栄西を京に呼び出し、大舎人頭の白河仲資に「禅とは何か」を聴聞させ、大納言葉室宗頼に傍聴の任にあたらせた。その結果、京では禅を受容することは難しいものと判断されたのでした。背景には南都北嶺(奈良興福寺と比叡山延暦寺)からの攻撃があったからです。禅は当時の中国(宋)からもたらされた、いわば新興宗教であり、伝統宗派から見れば異端であったわけです。栄西は『興禅護国論』(こうぜんごこくろん)を表し、禅に対する誤解を解いて、最澄の開いた天台宗の教学に背くものではないとする禅の主旨を明らかにしました。栄西はこの書において戒律をすべての仏法の基礎に位置づけるとの立場に立ち、禅宗はすべての仏道に通じていると述べて、念仏など他の行を実践するとしても禅を修めなければ悟りを得ることはできないと主張しました。栄西は生涯を天台宗の僧として生き、四宗兼学を説いた最澄の教えのうち、禅のみが衰退しているのは嘆かわしいことであるとして、禅宗を興して持戒の人を重く用い、そのことによって比叡山の教学を復興し、なおかつ国家を守護することができると説いたのです(wikipedia参照)。禅宗では座禅を重視しますが、今日の天台宗でも座禅は重要とされているのは栄西の功績といえます。栄西が開いたのは臨済宗ですが、道元が伝えた曹洞宗と、江戸時代に隠元(あの隠元豆の由来の人)が開いた黄檗宗をまとめて禅宗と呼んでいます。禅宗は欧米でなぜか人気があり、仏教といえばZenと思う人が多いのですが、これはどうやら鈴木大拙の英語版『Zen Buddhism and Its Influence on Japanese Culture』(邦訳『禅と日本文化』)(1938)が普及したせいでしょう。宗教書の英訳はただ英語力があるだけでは不可能で、深い理解がないと意味が伝わりません。多くの英米人が感銘を受けるには内容があったということです。

山下白雨