独立記念日

7月4日はアメリカの独立記念日です。アメリカでは独立記念日Independence Dayと呼ぶことよりもJuly Fourth あるいはFourth of Julyと呼ぶことの方が多いです。わざわざ日付で呼ぶのは、それくらい重要な日という意味です。お祝いなので“Happy Birthday, America”と言う人が多く、国家は歌いにくいのでBeautiful Americaという第二国歌ともいわれる歌いやすい歌が多く歌われます。また花火を上げて、飲んで騒いでという祭り気分なのもアメリカ的です。アメリカではクリスマス、感謝祭と並ぶ行事で前後を含めた1週間休みを取る人も多いです。この日は日本の米軍基地も解放され、米国フードも振る舞われるので日頃警戒の厳しい基地内を見学できる良い機会です。
アメリカ独立宣言はイギリスによって統治されていた北米13植民地が独立したことを宣言する文書です。1776年7月4日大陸会議によってフィラデルフィアで採択されたことを記念して独立記念日としています。独立宣言は、「基本的人権と革命権に関する前文」、「国王の暴政と本国(=イギリス)議会・本国人への苦情」に関する28ヶ条の本文、そして「独立を宣言する結語」の3部から成っています。なぜこの独立宣言が重要かというと基本的人権・国民主権という思想が盛り込まれていることにあります。「全ての人間は平等に造られている」とし、不可侵・不可譲の自然権として「生命、自由、幸福の追求」の権利を掲げた前文は、アメリカ独立革命の理論的根拠を要約していて、日本国憲法にも盛り込まれています。アメリカの独立宣言の思想は名誉革命を理論的に正当化したジョン・ロックの自然法理論の流れを汲んでいます。
福澤諭吉はその著書『西洋事情』で「千七百七十六年第七月四日亜米利加十三州独立ノ檄文」としてアメリカ独立宣言の全文を和訳して紹介しました。そして冒頭はのちの『学問のすゝめ』初編冒頭に引用され、人々に広く知られるところとなりました。
アメリカの独立宣言は明治時代の民権運動や太平洋戦争後の日本の民主主義にも大きな影響を与えてきたといえます。日本だけでなく、ベルギー、ニュージーランドの独立宣言にも影響しているそうです。
日本を除くほぼ世界中の国に独立宣言がありますが、どうして日本にはないのでしょうか。「独立したという歴史がない」というのが回答ですが、逆にいえば植民地時代がなかったということでもあります。一時期米軍の占領下にあり、主権がなかった時期はあったのですが、武力で奪い返したわけでなく、独立という感じがしないからでもあります。建国記念日というのはありますが、独立記念日ではないです。反対に日本支配から逃れた国は自軍の武力による回復でなくても独立記念日としています。日本人に支配・被支配という概念がないわけではなく、古来、内戦は何度もあり政権交代も起きていますが、外国支配の歴史はほとんどないため、独立という概念が薄いのでしょう。この独立independentという語の意味も実感がないみたいで、反義語のdependentが依存ですが、依存することの違和感もあまりないようです。これは親子関係にも影響があり、日本の親子関係は相互依存的なことが外国人からよく指摘されます。それは文化なので他人がとやかくいうことではないのですが、国家的な依存関係は重要な意味をもちます。日本の外交はとかく依存関係重視に見えますが、他国には通用しないことを外交官はこの機会にもっと学習すべきではないでしょうか。

星条旗

宝治合戦と三浦一族の滅亡とその後

宝治元年(1247)水無月五日、鎌倉で起きた幕府内の内乱が宝治合戦です。この合戦に負けた三浦氏は滅亡し、北条が幕府の執権として完全掌握することになる事件です。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』ではどうやら承久の変で終わるようなので、以後の御家人同士の内部分裂と北条氏の支配までは行かないようです。以前のコラムに書きました和田合戦は建暦3年(1213)で和田義盛の反乱ですが、北条義時の時代ですから、大河ドラマにも出てくると予想されます。三浦の反乱である宝治合戦は義時ではなく息子の泰時の時代で、三浦も義村ではなく、泰村の時代ですから、たぶんドラマでは描かれないか、最後のナレーション程度でしょう。それよりも教科書にでてくる承久の変が重要で、後鳥羽上皇のキャストが発表されているので、ラストでしょう。
鎌倉時代は合戦続きなので、一度順番を整理しないと関連がわかりません。西暦順で
1199年:梶原景時の変: 梶原景時対御家人66名。幕府内部に権力闘争の最初の事件。
1201年:建仁の乱:景時の庇護にあった城長茂が越後の親戚と倒幕を図る。
1203年:比企能員の変:2代将軍源頼家の外戚比企能員が北条時政により滅ぼされた。
1205年:畠山重忠の乱:畠山重忠が北条時政の策謀により、北条義時に滅ぼされた。
1213年:泉親衡の乱:御家人泉親衡が頼家の遺児千寿丸を鎌倉殿に擁立し執権北条義時を打倒しようとした陰謀。和田合戦の前哨戦。
1213年:和田合戦:泉親衡の謀反の折に和田義盛の息子の義直、義重と甥の胤長が捕縛される。和田義盛は同族の三浦義村と北条氏を打倒するための挙兵をしたが、土壇場で義村は裏切り、和田一族は将軍御所を襲撃し敗戦。
1221年:承久の乱:後鳥羽上皇が北条義時に対して討伐の挙兵。後鳥羽上皇は隠岐に流され、鎌倉幕府は朝廷を監視する六波羅探題を京都に置いた。
1247年:宝治合戦:執権北条氏と有力御家人三浦氏の対立。三浦一族が滅ぼされた。事件は得宗専制政治が確立する契機となった
1272年:二月騒動:北条氏一門の内紛。8代執権・北条時宗が鎌倉で北条氏名越流の名越時章・教時兄弟、京で六波羅探題南方で時宗の異母兄北条時輔が討伐された。
1274年:文永の役:第1次元寇。クビライは6回、日本へ使節を派遣したが服属させられず武力侵攻を決断した。神風説は否定され元軍の苦戦による撤退が事実。
1281年:弘安の役:第2次元寇。この時は台風により元軍は大損害。日本軍の勝利。
1285年:霜月騒動:時宗の死後、9代貞時の時代に安達泰盛と平頼綱の対立が激化、安達が滅ぼされた。頼朝没後に繰り返された北条氏と有力御家人との間の最後の抗争で、有力御家人の政治勢力は壊滅し得宗家被官(御内人)勢力の覇権が確立した。
1293年: 平禅門の乱:得宗家の内管領平頼綱が主君の北条貞時によって滅ぼされた。
1324年: 正中の変:後醍醐天皇と腹心の日野資朝・日野俊基が、鎌倉幕府に対して討幕を計画したが、資朝は佐渡国(新潟県佐渡市)へ遠流となった。
1326年-1328年 : 安藤氏の乱:津軽でエゾの蜂起があり蝦夷代官職の安藤氏が討たれた。エゾ蜂起の原因は得宗権力の拡大で収奪が激化したからとされている。
1331年-1333年 : 元弘の乱:後醍醐天皇と、北条高時を北条得宗家の全国的内乱
以上のように鎌倉殿の13人は北条だけが残り、その後も元寇のような外国との戦争も含めて天皇との争いがあり、幕府内部の争いもあって、戦乱続きの時代でした。

三浦一族の墓

半夏生

水無月四日は半夏生(はんげしょう)です。二十四節気ではなく雑節の一つなので知る人ぞ知る季節です。七十二候の1つ「半夏生」(はんげしょうず)から作られた暦日で、かつては夏至から数えて11日目としていました。理科的には黄経100度の点を太陽が通過する日で、太陽暦の7月2日頃です。夏至や冬至、春分、秋分と考え方は同じですが、きっちりした時点ではないのですが、季節的にいろいろな変化がみられるので、伝統的な行事もあります。この頃に降る雨を「半夏雨」(はんげあめ)「半夏水」(はんげみず)と言い、大雨になることが多いとされています。気象庁の天気予報には梅雨しかないので、梅雨前線がどうの、という解説になっていますが、昔の人の経験則はすごいものだと感心させられます。
半夏生という変わった名の由来は半夏という薬草から来ているそうで、烏柄杓(からすひしゃく)というのが和名だそうです。ヘソクリとも呼ばれるそうで、地方により、ヒャクショウナカセ(百姓泣かせ:鹿児島県)、カラスノオキュウ(烏のお灸:群馬県)の方言名もあるそうです。この草を漢方薬に使うため、根茎を掘って薬屋に売って小銭をためたというところからきているのだそうです。
農家には大事な節目の日で、この日までに「畑仕事を終える」「水稲の田植えを終える」目安です。この日から5日間は休みとする地方もあるそうです。田植えは人力の集約作業なので、一気に休まずしなければなりません。その後の休憩の日々です。この日は天から毒気が降るいう迷信もあり、井戸に蓋をして毒気を防いだり、この日に採った野菜は食べてはいけないとされたりしたそうですが、それはカビが多くなる時期だからかもしれません。
日本各地に残る風習の例としては、三重県の熊野地方や志摩地方の沿岸部などでは、ハンゲという妖怪が徘徊するとされ、この時期に農作業を行うことに対する戒めともなっているそうで、早く終わりなさい、ということの伝承だと考えられます。昔は鬼や妖怪が警告の印だったわけです。
奈良県香芝市周辺では「はげっしょ」と言い、農家では小麦を混ぜた餅を作り黄粉をつけて食べる風習があるそうです。田植えを終えて農作業を無事に終えたことを田の神様に感謝し、お供え物をして共に食したことが由来だそうです。黄粉餅は楽しみのおやつでした。関西では蛸を食べる習慣があるそうで、日本コナモン協会では、たこ焼きをはじめタコのお好み焼・焼きそば、唐揚、タコ天うどんなどを促進する「蛸半夏生キャンペーン」を行っているそうです。讃岐ではうどんを食べる習慣があり、1香川県製麺事業協同組合が7月2日を「うどんの日」に制定しているとのこと。業界は何にでも便乗する商法です。本来の意味もきちんと伝えてほしいですね。福井県大野市では江戸時代の大野藩藩主がこの時期に農民に焼き鯖を振舞ったという逸話があり、現在も大野市を中心とした地域では半夏生に焼き鯖(半夏生さば)を食べる習慣があるそうです。長野県小川村では、芋汁を食べるとか。どれも田植えの労を労う意味があったと思われます。永平寺では大布薩講式行われ、サイトによると正式には『菩薩戒大布薩式』といい菩薩戒を受けた人は15日と晦日に戒法を犯さなかったかどうか懺悔式『布薩』をするのですが、一年間の反省の総括をするのが『大布薩』なのだそうです。法要の前には香湯風呂という薬草を解いた湯につかり身を清めます。

半夏

黒船来航

嘉永六年(1853)水無月三日、マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が江戸湾入り口の浦賀沖に停泊し、一部は測量と称して江戸湾奥深くまで侵入した事件が起きました。7年前、ジェームズ・ビドルが来航したのですが、開港に失敗し、その結果を理解したアメリカは、今度は最初から脅す戦略に出たのです。そのこわもて外交の結果、幕府はペリー一行の久里浜への上陸を認め、そこでアメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され、翌年の日米和親条約締結にという結果になりました。日本ではおもに、この黒船事件から明治維新における大政奉還までを「幕末」と呼んでいます。
ビドルが来日した時の階級はcommodoreで日本では代将と呼んでいますが、准将と呼ぶこともあります。ペリーも同じく代将でした。海軍の階級では将官の一番下が少将で、佐官の一番上が大佐で、その間の階級です。海軍は純粋の階級の他に実行部隊の指揮をするための職階があります。艦長は原則大佐が指揮を執りますが、艦隊の場合、その中の一人が艦隊司令官となります。そこで「司令官たる大佐」を「艦長たる大佐」よりも上位に位置づける必要があり、将官ではないが「司令官たる大佐」に将官の代理として代将の職位或は階級が設けられていて、それが代将です。特にアメリカ合衆国の場合は19世紀まで海軍将官に任命するには議会の議決が必要となるという手続の煩雑さがあったために、艦隊の指揮官を代将に任じる場合が多かったのです。もう1つ海軍には提督(admiral)というのがありますが、これは職位で艦隊総司令官のことですが、若干敬意が込められています。そのためペリー提督とすることもあります。大まかにいえば陸軍と空軍が将軍、海軍が提督だと思えばよいです。陸軍と海軍では歴史が違うので、呼び名も異なっています。その意味では空軍は陸軍よりです。
黒船の来日以降、日本が戊辰戦争という内戦に向かって国内分裂していきます。現代風の見方をすれば、米海軍が侵入してきて、米国と不平等条約を結ぶことになりました。幕府は米国とは戦わずして屈服した訳です。しかしその後、生麦事件をきっかけに文久三年(1863)薩摩と大英帝国が戦争します。薩英戦争の結果、薩摩が善戦し和睦に至った結果、双方が実力を認めて、以降、薩摩と英国は接近していきました。同じ頃、長州も米・仏・蘭・英と戦争をします。それが下関戦争です。
結果は長州が四国連合艦隊に惨敗し、賠償を払うことになりました。長州は幕府の命に従っただけと主張して莫大な賠償金を幕府に押し付けました。この戦争で長州は攘夷が不可能であることを悟り倒幕へと運動していきました。客観的に見れば、当時の日本は欧米列強と局地戦を展開し、敗れた地域同士で内戦が起き、英国を背景とした薩長が幕府政権を倒したクーデターと見ることもできます。列強側も一枚岩であった訳ではなく、米国本土で英仏が戦い、英米は独立戦争とその後の北米の領土を巡る英米戦争があり、お互いに領土を巡る植民地戦争を戦っていた訳ですから、世界中のあちこちで戦争が起きていた時代というのが正しい歴史観です。
日本では戊辰戦争という内戦にしか関心を持たない人が多いですが、黒船事件は世界の植民地戦争の1つとして日本もその対象になった、というのが事実です。それまでの鎖国が不可能になり、今でいうグローバル化がここから始まったといえます。黒船というと「外圧」という見方が浸透していますが、外国が圧力をかけてくるのは当たり前のことだったのです。

ペリー

半導体

6月30日はトランジスタ記念日です。トランジスタといっても覚えている人は高齢者のみで、しかも意味を知っている人は数少ないと思います。トランジスタ・ラジオがソニーの人気商品でしたし、トランジスタ・グラマーという表現が死語になって久しいので、今では何のことかわからない人がほとんどだと思います。トランジスタは半導体の一種で発明者はこれでノーベル賞をもらったくらいの大発明でした。現代でも話題になる半導体とは何なのか理解している人は意外に少なく、産業の米だとか、これがないと製品が作れないとかで大騒ぎしています。
半導体の前にまず導体を理解しましょう。導体は英語ではconductorといいます。この語の訳はたくさんあって、車掌さんとか指揮者という意味もあります。導体というのは伝導体というのが正しく、電気などをよく通す物体のことです。熱をよく通す熱伝導体というのもあります。電線は中に銅線が入っていることが多く銅は良電気伝導体です。日本では雷除けという意味で避雷針というのを英語ではlightening conductorまたはlightening rodといいます。日本では雷をthunderとしかいいませんが、英語ではむしろlightening、ピカッの意味が中心です。
良電気伝導体、略して良導体に対して、ほぼ電気を通さないのが不導体または絶縁体といい英語ではinsulatorといいます。そして半分電気を通すのは半導体で英語ではsemiconductorといいます。日本語は英語の訳語です。電気を通さないことを電気抵抗(electrical) resistanceといいます。電流と電圧と抵抗の関係はオームの法則なのですが、中学で今はあまり習わないみたいですので、理解していない人が多いようです。良伝導体の金属と不伝導体を貼り合わせると、その組み合わせで電気が通ったり通らなかったり、あるいは流量を調整できるようになります。乱暴な簡略化ですがそんな感じで理解すると先に進めます。
電気を通したり、通さなかったりすることをスイッチングといいますが、要するにオンオフのことです。また電流量を調整することで増幅や減衰をコントロールできます。
最初にこの制御をする機器としては真空管が使われました。真空管は今でもマニアの間で人気ですが、中を真空にしたガラス管の中に陽極と陰極の電極を入れて電子の流れ=電流を制禦する装置で音を増幅したり、減衰したり、流れを一定(整流)したりオンオフをするものです。問題はすごい熱を発することで、初期のコンピュータは大量の真空管を使ったため、ものすごい熱量を発し、触るとヤケドするので大変だったという話を聞きました。ラジオでも3球とか5球と真空管の数を表していました。それがトランジスタの発明により、熱をあまり持たなくて小さな半導体になったことで、多くの機械の軽量化、小型化が実現しました。材料は初期にはゲルマニウムが多く、ゲルマニウム・ラジオという名称もありました。ラジオも持って歩けるほど小さくなったのがトランジスタ・ラジオです。その後、ウオークマンへと発展していく先駆けでした。日本は多くのトランジスタ製品を輸出することで儲かったのです。しかしその後、ダイオードが発明され、さらに半導体を組み込んだ集積回路integrated circuit=ICが発明され、集積化は発展して小型化高性能化の競争になりました。現在、半導体といっているのはこの集積回路のことです。LSI,VLSIとなるにつれ、製造技術競争になり生産者が限られてきたことで供給の偏りが問題になってきています。

トランジスタラジオ

水無月

今日は水無月朔日(みなづきついたち)です。新暦だと6月がもう終わるのに、旧暦では6月が始まるという1ヵ月遅れのわけです。6月は梅雨で雨も多いのになぜ水無し月なのか疑問を持たれる方も多いと思います。水無月の無(な)は無いといういみではなく、「~の」という意味だという説があります。古語の「な」にはいろいろな用法があるのですが、上代語では格助詞として連体修飾語を作る機能があります。たとえば「港=水(み)な門(と)」「まなこ=目(め)な子(こ)」「源=水(み)な元(もと)」掌=手(た)な心(こころ)」など現代にも残っている語があります。それと同じ用法であり、水(み)な月(つき)は「水の月」という説です。それでいうと神無月も「神の月」という解釈でないと一貫性がないような気もします。一方で、田んぼに水を引くので他地域は水が無くなるから、という説もありますが、これは文字から想像しただけのような気がします。結論は根拠不明です。
別名で水張月というのもありますから農業と深く関わっていることだけは確かです。他の異名として晩夏、季夏というのがあり、旧暦では卯月から水無月が夏とされているので、卯月が初夏、水無月が晩夏ということになります。実際の季節を考えると6月末には梅雨明けし、7月は夏ですから、水無月が晩夏というのも当たっています。
季節の季はスエとも読み、終わりのことです。季節というのも本来は移り変わりの節目の意味です。それで季夏という異名もあります。鳴神月というのもあり、まさに雷(神鳴り)が多い月でもあります。昔は水無月に田植えをする時期だったのですが、日本の稲作は次第に早生になり、今では5月にするところが増えました。理由は早生の方が新米として高い値がつくこと、また台風の前に刈り取れること、そして農家が兼業になり連休が作業に都合のよいことがあります。それに合わせた品種改良もありました。そのため旧暦を利用する必要もなくなってきたのも事実です。
しかし旧暦の季節感は日本の気候にとって意外としっくり来ることが多いです。旧暦は太陰太陽暦で、太陽の動きと月の動きを元に作られた暦です。一日は自転により起こります。一日で一回転です。月の公転は地球の自転と同じなので、いつも同じ面を見せていますが、地球と一緒に太陽の周りを公転するので、約30日の公転により月の満ち欠けが元に戻ります。月は直接光っているのではなく、太陽の光を反射させており、その光線の中に地球が入ると影になります。月の欠けが丸いのは地球の影だからです。一部とはいえ、地球が球体であることがこれで証明されます。太陽の位置と言っているのは天動説であり、地球の公転は楕円を描いているので、近い時と遠い時があります。高さが変わるのは地球の回転軸つまり地軸が傾いているせいです。もし垂直であれば太陽の位置は変わりません。仮に水平なら北半球はいつも夏、南半球はいつも冬ということになります。つまり季節は地軸の傾きと公転の位置によりできているというのが理科の説明ですが、昔の人はそんな理屈は知りませんから、経験的に一月が30日、一年が365日であることを知っていたわけです。これだけでも1年に5日の差がでることは算数でわかります。1年が12か月であることを優先すれば大の月とか小の月を作って調整しますから、月の満ち欠けとはズレてきます。季節の変化は太陽の動き(地球の公転)と関係しますが、月の満ち欠け(地球の自転)とも関係します。農業者にとって太陽太陰暦が必要ということがおわかりいただけたでしょうか。

水無月

貿易

6月28日は貿易記念日だそうです。安政6年(1859)6月28日(旧暦5月28日)、江戸幕府がアメリカ・イギリス・フランス・オランダ・ロシアの5ヵ国との間で結んだ友好通商条約に基づいて横浜・長崎・箱館(函館)の3港を開港し、自由貿易を許可する布告を出しました。貿易に携わる企業だけでなく、広く国民全般が輸出入の重要性について認識を深める日として記念日として通商産業省が1963年(昭和38年)に制定したのだそうです。(https://prtimes.jp/magazine/today/trade_anniversary/)
ちょっと待ってください。貿易はそれ以前にも勘合貿易とかありましたよ。そもそも貿易の定義は「一国の企業や個人が外国の企業や個人と行う商品の取引が貿易である。貿易を通じて、国内で生産された財貨は外国にも販売(輸出)され、外国から財貨が購入(輸入)されて国内で消費されるという国際分業が形成される」ということです。(https://kotobank.jp/word/貿易-174448)要するに輸出と輸入のことです。日本ははるか昔から大陸や半島との交流がありました。安土桃山時代からはスペイン、ポルトガル、オランダとの交易もありました。なぜ安政からにしたのか不思議です。英米仏があるからでしょうか。それとも古いものはいつから始まったのかわからないからでしょうか。国民は政府にいわれなくても貿易の重要性は誰でも知っています。
この貿易の貿という字は不思議な字です。貿易以外の使い方が知られていません。調べて見ると、どうやら元は日本語ではなく中国語のようです。英語ではtradeですが、日本語の意味に合わせるならinternational tradeでしょうね。英語圏ではtradeで国際間でも個人間でも取引の意味になります。野球の世界ではトレードは交換の意味で使われます。交換は英語だとexchangeなのですが、exchangeは両替のように機械的な交換を意味します。誰との間でも同じ比率が原則です。しかしtradeは商売なので相手によって値段が違ってもいいわけです。似たような言葉にdealingというのもあります。Dealになるとさらに駆け引きの要素が加わります。取引の場合、インチキやペテンもあるので、公正取引をfair trade、不公正取引をunfair tradeといいます。日本政府には公正取引委員会という組織があって、誇大広告などを取り締まっています。独占を監視しているのもここです。国際的にはWorld Trade OrganizationいわゆるWTOがあるのですが、国連機関のうちで現在ほとんど機能していないと揶揄されている機関の1つです。WTOは協議の場なので結論に強制力がなく紛争があってもなかなか解決に至らないことが多いようです。紛争処理手続きとして1.パネルの設置、2.パネル報告及び上級委員会の報告の採択、3.対抗措置の承認というのがありますが、現在上級委員が不足していて委員会が開けない状態にあり、最近まで事務局長人事を巡って紛争があり、機能不全の状態が長く続きました。
貿易は輸出と輸入なので、輸出が多ければ黒字ということで、それだけ儲けているということになり、国内的には良くても外国からは批判されることになります。米国は長年貿易赤字に悩んでおり、一時期は黒字国日本が目の敵にされました。それで為替を無理やり変更させられ黒字減らしをさせられた結果、国内産業が衰退という現象になり今も続いています。現在は猛烈な円安なので本来なら黒字が増えるはずですが、むしろ減少傾向にあり、一方で輸入大国になった日本は物価上昇により輸入も減少しているので、景気が相当後退していることがわかります。

コンテナ船

メディア・リテラシー

6月27日はメディア・リテラシーの日だそうです。長野市に本社を置くテレビ信州が制定したもので、1994年(平成6年)のこの日、松本サリン事件があり、事件現場近くに住む無実の男性がマスコミにより犯人扱いされる報道被害がありました。テレビ信州では報道機関におけるコンプライアンスの基軸としてメディア・リテラシー活動に取り組んでいて、この日にはメディア・リテラシーに関する番組の制作やシンポジウムが行われる、とのこと。つまりはマスコミ反省の日ですね。
「メディア・リテラシーとは、情報が流通する媒体(メディア)を使いこなす能力のこと。情報メディアを主体的に読み解いて必要な情報を引き出し、その真偽を見抜く能力が必要とされている。」だそうです。つまりは読む側の責任ということでしょうか、随分高飛車で上から目線の話だと思います。
そもそもリテラシーliteracyというのは元々、識字力のことです。世界には文字の読めない人がまだ大勢います。文字が読めないということは読み書きができないということで、そこから発展して現代では「適切に理解・解釈・分析し、改めて記述・表現する能力」ということなので、メディア・リテラシーはむしろメディア側の発信力を高めるのが先だろうと思います。松本サリン事件は報道側の事実確認を無視した思い込み報道の結果、無辜の市民が犠牲になったのですから、リテラシーを高めるべきはマスコミ側です。しかし現状を見るかぎりマスコミの能力は高まるどころか、むしろ低くなっているのではないか、と思えます。
昔は文字を一部識者だけが独占していました。宗教でも聖書が読める人はごく一部の聖職者だけでしたが、その聖職者が自己の解釈を加えて説教する弊害が酷くなったため、宗教改革により誰でも聖書が読めるようにすることが重要になり、それに一役かったのが印刷術の開発でした。現代になると、情報がかつては一部に独占されていてマスコミが聖職者よろしく自己解釈を加えて報道していたことの弊害が大きくなり、インターネットというリテラシーメディア改革により、また動画配信という文字があまり介入しない手法によって、誰でも情報にアクセスできるようになったということです。インターネットが印刷術の役割を果たしているといえます。その証拠として、印刷がだんだん衰退していることが挙げられます。
印刷が主力の時代でも新聞情報の真偽を見抜く能力が必要でした。しかし多くの新聞を比較し、ラジオやテレビ、そして外国の新聞などを見て真偽を判断していた人がどれだけいたでしょうか。マスコミはネット情報の氾濫を盛んに喧伝しますが、当時でも情報は結構氾濫しており、それらにアクセスできる人が少なかっただけのことです。そのため一部の新聞しか読めない人は判断が偏ることは避けられませんでした。
インターネットになってもその状況は変わりません。愛読新聞が愛読サイトになっただけのことです。つまり、受信者の能力と責任が大きくなるのではなく、発信者の責任と能力が問われるのです。SNSがよくマスコミで問題視されますが、口コミや井戸端会議が文字化、動画化しただけのことで、YouTuberは街角情報誌発行人と変わりません。しかし彼らもプロ化してきており、マスコミ以上のレベルの人も出てきています。ヨーロッパ中世の教会が権威を嵩にかけて弾圧しても宗教革命によって広がっていく個人的な小さな教会を止めることはできませんでした。今メディアで同じようなことが起きていると思われます。

メディア

国連憲章

6月26日は国際連合憲章の日です。
国連広報センターのサイトによると「1945年4月~6月の2ヶ月間、「国際機関に関する連合国会議(United Nations Conference on International Organization)」がサンフランシスコで開催されました。そして、会議最終日の6月26日、「戦争の惨害」を終わらせるという、強い公約とともに国連憲章(the Charter of the United Nations)が、50カ国の代表によって署名されました。」
とあります。直後に追加があって現在は51カ国で始まったとされています。
最近は国連の限界のようなことが議論されますが、この機会に興味のある個所だけでも読んで確認してみるのがよいと思います。ネットには日本語訳も公開されています。
1945年に制定され、1973年9月までに3回の改正を経ているが、以降は改正されていないとのことです。50年近く改正されていないのはある意味日本国憲法に似ているかもしれません。前文に続き全部で19章から成っています。いわゆる敵国条項について、正確に知っている人はマスコミでも少ないようです。漠然と日本が入っている、という認識ですが、実際は曖昧なままです。本来は長い説明が要るのですが、簡略化すると第53条の2「本条1で用いる敵国という語は、第二次世界戦争中にこの憲章のいずれかの署名国の敵国であった国に適用される。」という個所にあるだけで具体的な国名は書かれていません。Wikipediaの解説だと「日本政府の見解では、第二次世界大戦中に憲章のいずれかの署名国の敵国であった国とされており、日本、ドイツ、イタリア、ブルガリア、ハンガリー、ルーマニア、フィンランドがこれに該当すると例示している。タイ王国は連合国と交戦した国であるが、この対象に含まれていない。オーストリアについては、当時ドイツに併合されていたため、旧敵国には含まれないという見方が一般的である。」とあります。日独伊はわかりますが、ブルガリア、ハンガリー、ルーマニア、フィンランドが入っているのは意外ではありませんか。
「1995年の第50回国連総会(当時加盟国185カ国)で「時代遅れ」と明記され、憲章特別委員会で旧敵国条項の改正・削除が賛成155 反対0 棄権3で採択され、同条項の削除が正式に約束された。また、国連総会特別首脳会合で2005年9月16日採択された「成果文書」においても旧敵国条項について「『敵国』への言及の削除を決意する」と明記された。(しかし)常任理事国である中露の反対が想定されるために国連憲章改正自体は出来ていないが、上記の決議において国連憲章改正に必要な条件の一つである「3分の2以上の賛成」は示されている経緯などを踏まえて、一般的に「死文化している」「現在においては、いかなる国も旧敵国条項を援用する余地はもはやない」とされている。」(同)が現状です。政府答弁のような長い説明をまとめると「実質的に死文化」であるのですが、相変わらず中露がネックになっています。
戦争のたびに安保理の拒否権が問題になりますが、この不平等規定が改正できないところに国連の限界が象徴されています。そもそも常任理事国5カ国のうち1971年10にそれまで中華民国(台湾)が持っていた代表権が中華人民共和国に与えられ安全保障理事会常任理事国に移動が発生したこと。1991年にソビエトの解体に伴って同国が持っていた国際連合代表権がロシアへと引き継がれたことがおかしいと思うのが自然です。この時が改正のチャンスだったのにしなかったのは米英仏の都合でしかありません。とくに拒否権のあった米の責任は大きいと思われます。

国際連合

ジェームズ・ビドル

ジェームズ・ビドルという名前をごぞんじでしょうか。野球選手としてご存じの方もおられると思います。彼とは同姓同名の歴史上の人ですが、それほど歴史に埋もれてしまった人物です。弘化3年(1846)閏5月26日に浦賀に入港したアメリカ人海軍軍人で、ペリーの前にやってきました。ビドルは戦列艦・コロンバスおよび戦闘スループ・ビンセンスを率いて、日本に向かってマカオを出港し、弘化3年閏5月26日に浦賀に入港したのですが、直ちに日本の船が両艦を取り囲み、上陸は許されませんでした。ビドルは望厦条約(ぼうかじょうやく。1844年、清とアメリカの間で結ばれた条約)と同様の条約を日本と締結したい旨を伝えます。数日後、日本の小舟がコロンバスに近づき、幕府からの正式の回答を伝えるために、日本船に乗り移って欲しいと申し出ました。ビドルは躊躇したものの、同意します。ビドルが日本船に乗り込もうとしたとき、通訳の手違いから、護衛の武士がビドルを殴り、刀を抜くという事態が発生しました。ビドルはコロンバスに戻り、日本側は謝罪します。結局、幕府からの回答は、オランダ以外との通商を行わず、また外交関係の全ては長崎で行うため、そちらに回航して欲しいというものでした。ビドルは「辛抱強く、敵愾心や米国への不信感を煽ること無く」交渉することが求められていたため、それ以上の交渉を中止し、6月7日、両艦は浦賀を出港しました。その際、帆船のため、風が無く浦賀から出られなくなるという事態に陥り、曳航してもらったという事態も起きました。なお、ビドルが来訪するであろうことは、その年のオランダ風説書にて日本側には知らされていたのだそうです。ビドルはコロンバスを率いて太平洋を横断し、12月にはチリのバルパライソに到着した。米墨戦争の勃発に伴い、翌1847年3月2日にはカリフォルニアのモントレー沖に移動した。そこで、太平洋艦隊と合流し、先任であったビドルは太平洋艦隊の司令官となったという輝かしい戦績があったのですが、日本との折衝に失敗したため、日本史には名が残りませんでした。ビドル来日の7年後、マシュー・ペリーが浦賀にやってきます。そして日本の開国に成功しました。ペリーはビドルの失敗を研究し、砲艦外交によって日本を開国させたのでした。(ウィキペディアより)
日本からするとペリーは敵でビドルはよい交渉相手だった可能性もあります。日本は頑なに鎖国を続けようとしたため、平和交渉よりも侵略を招き入れたという結果になってしまいました。外圧に弱い日本という構造はここから形成されたのかもしれません。もっとも当時、アヘン戦争を巡る状況についての情報は入っていたでしょうし、アヘン戦争でイギリスに敗北した清がイギリスと南京条約を結び、その内容は関税自主権の喪失、治外法権などを定めた不平等条約であったわけですから、日本もいずれこうなるかもしれないという恐怖心はあったでしょう。それが攘夷運動につながるわけです。望厦条約はマカオ郊外の望厦村において、イギリスに南京条約で認めた内容とほぼ同様のことを定めた修好通商条約がアメリカとの間で結ばれたものです。いわば便乗です。さらに清はフランスとも黄埔条約を結び欧米列強の中国進出が本格化していったのです。幕府のままの体制だと日本も同じ運命を辿った可能性もあったといえます。薩長がイギリス、幕府がフランスをバックにした戊辰戦争は欧米によって引き起こされた内戦という見方もできます。明治維新後、結ばれた条約は不平等条約でしたから、その後の日本が必死の努力で改正していけたのは奇跡的かもしれません。

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